遁走曲風


 秋が深まりゆく頃、遂にデートの約束を取り付けた。彼女の行動範囲が次第にわかり、努力の甲斐があって頻繁に遭遇するようになって自然と会話を交わすまでになった。その都度親密さを深めて行くように感じた。映画好きだということがわかり、誘ったら快諾してくれた。薄手のトレンチコートに身を包んで待ち合わせ場所に現れた彼女はキャンパスで見かける印象とは異なり大人の色気を漂わせていた。彼女が選んだ先週封切られたばかりの映画は感動的な内容で俺も目頭が熱くなったほどだ。隣で洟をすする彼女の手を何度握ろうかと思ったかしれない。映画館を出ると外は真っ暗だった。
「日が落ちるの早くなったね。これからどうする? 飲みに行っちゃう?」
 期待以上の展開に俺は有頂天になった。映画館の近くにあった洒落たイタリア家庭料理の店に入ることにした。俺たち学生にはワインの味なんてわからないが、ご馳走の魔法をかける力は充分であった。彼女は普段よりも饒舌に話をした。俺は映画に詳しくないが、上手に相槌をすることは得意だ。彼女は俺が半分も理解していないことはお構いなしでしゃべった。そして、おすすめの映画をいくつも教えてくれた。彼女はとくに「天井桟敷の人々」だけは見てねと何度も繰り返し、謝肉祭の雑踏に押し流されて離されて行く情景の無情さを熱く語ってくれた。ふと、人生の重大事には必ず滑稽な場面がお伴をすることに俺は想いを馳せた。
 家庭料理の店なので一品の量が多く、ピッツァとパスタで満腹を感じた。俺はどうにも下心がざわめき出し、いつ決定的な一言を発そうか機会を窺っていた。だが、人生はそういった計略に動かされるものではない。突発の出来事を好機に変える才能のある人間だけが運命を支配できる。
 全く脈絡なしに何かを思い出した表情をすると、彼女はそれまでの話題とは無関係に風間の話を始めた。
「ねえ、そうだ、岸川くん、風間くんとはその後連絡は取った?」
 俺は思わず頓狂な声を出してしまった。
「え? 風間? いやあれ以来会ってないけど」
 彼女は何だか残念そうな表情をした。
「そうなんだ。私には言えないことを岸川くんには言っているかなと思って」
 彼女が何を考えているのかわからなかったが、言い知れぬ焦りを感じた。
「まだ、心配しているんだ。でもこの前会った時、元気そうだったじゃないか。あいつにはあいつの人生があるし、何だか事情を話したくなかったみたいだったし」
「そう、そうなのよ」彼女は意を得たように声を荒らげたので驚いた。
「風間くんは何か心の闇を抱えていると思うの。私、何とか力になりたいの。彼ね、大学に来なくなる前の夏休みに前田響子先生の所に通って勉強をしていたらしいの。知っている? 読心術の前田響子先生を」
 不勉強な俺は虚ろに知らないと答えた。そんなことより、彼女が風間のことを調べていることに説明のつかない妬みを抱いた。
「そのことは誰に聞いたの?」
「本人よ」
 ワインを飲んだ頭がぐるりと一回転したような気がした。
「風間と会ったんだ」
「ごめんなさい、内緒にしてて。でも、気になるのよ。私たち心理学者の端くれじゃない?」
 激しい疎外感を感じた。だが、そんなことはお構いなしに彼女は話まくった。
「それでね、前田先生というのは読心術で有名な方で、本も出版しているわ。まあ私も詳しく知らなくて、調べたんだけどね。どうして風間くんが大学に来なくなったかの理由はまだ聞き出せていないんだけど、一年前にどこで何をしているかは割と簡単に話してくれたわ。前田先生の研究に関心があって、直接連絡を取って会いにいったそうよ。凄い行動力よね。だって、前田先生って福岡に住んでいるのよ。それでね、この前よく見たら部屋の本棚には前田先生の著作が沢山あったの」
 彼女が風間の家に行っていることに更なる驚きを隠せなかった。こうなると嫉妬心が抑え切れなくなってきた。
「それで、何かわかってきたの?」俺はどうにか平静を装って話を合わせることにした。
「それが、肝心なことは全然わからないの」彼女は少し声を落とし悔しそうにした。
「わかっていることは、風間くんは読心術が学術的に存在するかどうかを確かめたかったみたい。理解し、習得すれば人の心が読めるようになるのかどうかを追求するために前田先生の教えを乞うたみたい。心理学を学ぶ者として私は共感したわ」
 俺は正直薄気味悪くて嫌だった。思い起こせば風間はいつも俺の頭の中を見透かしているようだった。読心術を探求していたとなれば思い当たる節が幾つもある。そのことを彼女に告げると、詳しく教えて欲しいとねだられた。約束に遅れた時についた言訳や嘘を風間はいつも笑って赦してくれて、全く取り合って信じてくれない。一方、本当のことを言っている時はすんなり受け入れるから、全てお見通しといった感じだったと説明した。彼女は怖いくらい集中して話を聞いており、しばらく考え込んでいたが再び口を開いた。
「思うに、風間くんは読心術を以前から実践習得していて、前田先生の下で完成の域に達したのかもしれない。だから、大学で学ぶことなどもうないと見切って来なくなったのかもしれない」
 彼女の推論は尤もだと同意した。それで親とも関係が悪くなったのだろうと。ただ、風間が将来どうなりたいのかがわからない。読心術を身に付けたのならエキスパートとして職業にしてもいいのではないかと述べた。
「そう、そこなのよ。私も風間くんの今の生活がよくわからないの。結局風間くんが何を考えてこうなったのかが全くわからないの」
 途方にくれた表情をしている彼女を現実に戻そうとした。
「でもさ、あいつにはあいつのパーソナルスペースがある。もう詮索はやめておいた方がいいんじゃないのかな」
 すると彼女は口をとがらせて「でもほっとけないんだもん」とうつむいた。
 そんな表情を見せた彼女を初めて見た。風間がいたら突き飛ばしてやりたいくらい激しい嫉みを感じる一方、須藤亜希子の油断した可愛げある表情に溺れて酔い痴れてしまった。

 

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