遁走曲風

 私の静かな生活が乱されたのは彼が来てからです。
 私も若い頃は苦労をしたし、不幸な結婚生活も経験した。でも、著述が成功して、何冊も本が売れ、この街で悠々自適な生活が出来るようになった。たまに依頼されて講演に行き、たまに大学で心理学の講師をする。一時はテレビの取材を受けて忙しくなったけれど、落ち着いたら本が一層売れるようになっていて、猫との気侭な生活に満足していました。
 そんな時に彼からの手紙を受け取りました。出版社を通して来たからファンレターかと最初は思いました。手紙は丁寧で真摯で気持ちが良かった。だから、今度東京で行う講演に来てはいかがと返事をしました。彼は忠実に講演を聞きに来て、私との知遇を得ました。
 彼は若くて熱心でした。私の読心術を研究したいと懇願してきました。そういう申し出は歓迎だし、これまでも卒業論文に使いたいという許諾は幾つも受けてきました。でも、講演や講義に来てもよいと促しても彼は満足を示さなかったんです。個人的に深く話を聞きたいと食い下がってきました。私は簡便に済ませようと代案を幾つか提案したのですが、熱意に折れる形になったのです。個人授業をすることになりました。勿論授業料は払うと言います。そのためにアルバイトでお金を貯めていたそうです。彼は東京に住んでいるからどうせ数回程度だと高を括っていたら、福岡に住み込むと言い出したから様相が変わってきました。善は急げと彼は間を置かずにやって来ました。八月の半ば頃でした。夏休みの間に勉強をするつもりだと言います。
 彼が最初に家に来た時のことは忘れられない。のっけからこんなことを問いかけたのです。
「先生は人の本心がわかる聴力がア・プリオリに存在すると思われますか?」
 彼の真意を理解するのに手こずったことを告白しましょう。
「勘の良い人間が存在するかというかしら? 第六感、霊感がある人間はいるわ。超能力、ESP、テレパシー、そういうことを研究したいの? 最近多いのよ。漫画の影響かしら。ニュータイプとかいうね」
「いいえ、違うんです。すみません、私もよく説明できないので。そういう第六感ではなく、聴力が、声が心理分析の属性となるかということなんです」
「何となくわかってきたわ、あなたの知りたいことが。声が上ずったり、震えたり、話し方で心理がわかるかってことね。そういう研究は勿論あるわ。そして相関性は強くある。特に新しい研究ではなく、嘘発見器に見られるように様々な実験が行われているわ。それは勿論ご存知ね」
「はい、でも近いのですが少し違うのです」
「そうね、ポリグラムではなく、あなたの知りたいのは音声心理分析のことね」
「はい、大凡そうだと言えます」
 彼はそれでもやや不満そうな印象でした。
「私が体系的に研究したいのは音声心理分析なのですが、習得すれば人の心を読めるようになるものでしょうか?」
 嘘をついている、慌てているなど相手の心理状態を把握することは可能だが、相手の考えを言い当てることは超能力に等しいと説明してやりますとようやく彼は得心したようでした。
 それから彼は音声心理分析以外にも広く学びたいと述べ、様々な質問を浴びせてきました。同業の専門家ともこんなに熱心に話し合ったことはありません。嬉しくなって調子に乗り過ぎたのかもしれません。
 それが私の過ちの始まりだったとはその時知る由もありませんでした。

 

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