遁走曲風


 福岡への配属を承諾した、本当に小さくて一片でしかない理由に、前田響子先生に会える可能性が高くなるというのがありました。こういうちっぽけな理由付けは意外と後々大きな意味を持ってくるのです。何故なら簡単に成就したことは人生の一コマを確実に形作るから。実現しない大志よりも人生を左右するのです。福岡支社で働くようになって、そのチャンスはすぐにやってきました。われわれ企業カウンセラーにとって相手が何を感じているか、警戒心はないかなどを察知するのは大事なことなのです。僅かなサインを見逃さないことが求められる。前田先生の研究は我々のような職業の者にとって虎の巻とも言える技の集約なのです。
 毎年、新入社員研修の一環として福岡支社に前田先生の講習が組まれていました。こんなにも早く会えるなんて順調過ぎて少し拍子抜けでした。当日になり、講習の最後には個別でお話を伺える時間をいただくことができました。間近で見た先生は小柄で愛想がよく、落ち着いた雰囲気が素敵でした。でも、私の先入観もあるのでしょうが、風間くんの人生を変えるほどの力をもっているような人には見えませんでした。先生は大変丁重で、和やかにお話をされました。いろいろと私のことを尋ねられましたが、何でも包み隠さずにお話したくなるような方でした。初対面でしかも十五分という短い時間でどこまで私の個人的な話が可能なのか焦りがありました。それに、私がしようとしていることは大変な失礼なことで、しかも仕事を逸脱した私的行為であって、そもそも不可能なことだとも思われました。でも、先生からのお話が一通り済んで「何か質問はありますか」と話す機会をいただけた時、急に勇気が湧いてしまったのです。
「あの、今ここでお尋ねするのは大変場違いだとは思うのですが、お聞きしたいことがあるのです」
 先生は嬉しそうに優しくお答えくださいました。
「ええ、構いませんよ。個人的なことでもどうぞ。口外しませんし、悩みごとがあるなら相談に乗りますよ」
「ありがとうございます。実は私の大学時代の友人のことを先生はご存知だと思いまして」
「あら、どなたかしら」
「あの、風間さん、風間雄一さんです」
 その名前を聞いた時の表情が一瞬のうちに険しくなったのを見逃しませんでした。正直、取り返しのつかないことをしてしまったかと後悔しました。未熟な私が述べるのも何ですが、風間くんとの間に何かがあったのは間違いないと確信しました。それほど先生は打って変わって防御的になり、警戒している様子になったと感じました。
「そう、同じ大学だったのね。風間さんはお元気ですか?」
 少し震えた声でやっとお答えになりました。
「それが三年生の時に大学に来なくなってしまって、そのまま辞めてしまったんです」
「そう、それは残念ね」どこかもの思わし気な口振りで、私との会話に集中しているようには思えませんでした。
 ここで引き下がっては無意味ですし、先生にとっても後味が悪いと思ったので更に踏み込むことにしました。
「あの、風間くんとはどういった関係だったのでしょうか? 失礼なこととは充分承知しているのですが、夏休みの間に先生のところに勉強をしに行った後、大学に来なくなったのです。何があったのかお話いただけませんか?」
 先生は私のことをじっと見つめていましたが、「いいでしょう」とお返事くださいました。
「でも、日を置いてからにしましょう。次の方が待っていますし、今ここで全てを話すことはとても無理ですからね。あとで連絡先を教えます。それでいいかしら」
 初対面であるのに分を超えた生意気な娘の申し出に丁寧に対応していただいたことにひたすら感謝したのと、ひどい勘違いをしていたことを申し訳なく思いました。風間くんが大学に来なくなったのはこの人のせいではないのだと私は直感したのです。

 

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