遁走曲風


 山頂に足をかけた心持ちだ。聖夜にデートをする約束を取り付けることに成功したのだ。十二月になってからは週一回のペースで散歩や雑貨屋巡りをする機会を得たし、そのまま食事をすることもあった。今現在、彼女に一番近いのは多分俺だ。そう考えると顔の筋肉が緩んでしまう。だが、調子に乗るのは早かった。まだ友達の域を出ていない。本当の自信を得るにはクリスマス・イヴのデートに誘い、承諾の返事をもらうことだと考えていた。
 それが、成功したのだ! 思い出しても嬉しさが込み上げてくる。先週のことだ、勇気を絞って、だがさり気なく予定を聞いてみた。何もないと答えた彼女に対してデートを申し込むためのお洒落な台詞を考えていたら、「映画でも行こうか?」とさらりと先手を打たれた。俺は嬉しさのあまり犬のように彼女の回りを廻っていた。尻尾があればちぎれるほど振っていただろう。
 話題の大作を楽しんだ後、寒い日だったので俺たちはカフェに入って暖をとった。彼女は俺の冗談を好んでいた。眉毛を下げて笑ってくれる表情は俺を有頂天にした。お茶を飲み干してしまった後、次の行動に移った。
「ねえ、この後どうしようか? ご飯食べに行かない?」
「そうねえ、でも多分どこも込んでいるよ」
「ちょっと探してみない? 空いているかもしれないし」
「うーん、外寒しなあ。私、別に居酒屋とかでもいいよ」
 気取らないそういう性格が好きだったが、聖夜に居酒屋では沽券に関わる。だが手詰まりだった。カフェの外に見える街頭ではサンタクロースの格好をした店員が忙しそうにケーキを売っている。
「クリスマスだからケーキは食べたいんだよね」
 深く考えずに漏らしてしまった言葉だったが、しばらく空のカップをいじくっていた彼女はこんな言葉で返してきた。
「じゃあさ、ケーキを買って、チキンとかも買って、私の家でパーティーしようか。すぐそこからバスに乗れるの。三つ先だからここから近いのよ」
「いいの?」俺の妄想すら超えた展開には無条件降伏をする以外になかった。
「うん。来る?」
 俺は何度も頷いて、またもや犬のように付いていった。ケーキやその他の食料を買い込んで遊仙窟に到着した。庶民的な彼女は何の変哲も無い一般的なアパートに住んでいたが、ここは女子学生かOLしか住んでいないので安心なのだと言っていた。流石に綺麗に片付いた女の子の部屋で、髪の匂いと同じ爽やかな橘の香りが鼻と欲情を刺激した。俺は兎に角落ち着かなかったが、彼女と一緒に準備をすることで時間はあっと言う間に過ぎた。三十分もしないでテーブルに乗り切らないほどの料理が並んだ。安いシャンパンでグラスを鳴らすと、俺たちは初々しいはにかみを交わした。付き合う直前の、期待に溢れた最も幸福な瞬間があった。ケーキを切り分ける頃にはすっかりくつろぎ、部屋を見渡すことが出来た。俺と違って真面目な勉強家である彼女の部屋には本が沢山あった。映画の本が多いのが特徴でDVDも揃っていた。「死刑台のエレベーター」という題名が彼女の趣味とは合わないなと思って手に取ってみると、勘違いであることに気がついた。
“Je t’aime”
 肩越しに鼻母音を効かせて彼女が囁いてきたからどきりとした。
「面白いんだよ。食べ終わったら観ようか」
 あと二時間は長居できると計算して無条件に同意した。
 転じてベッドの枕元に『あの人の考えていることが見えてくる三十の法則』という本が置かれているのに気付いた。思わず手を伸ばしていた。著者は前田響子とあった。咄嗟に「あれっ?」と声に出してしまった。
「ああ、前に話した人。風間くんが福岡まで会いに行っていたという心理学の人」
 彼女との甘い時間に必ずと言ってよいほど入り込んでくる風間に強い怒りを覚えた。そんな嫉妬をよそに、手に取った本を覗き込むように俺の左隣に座り、風間の話を始め出すのだ。それも俺をわざと悔しくさせるような話を。しかし、鼻先で彼女の髪がそよぐと、橘の上品で清涼感ある匂いに酩酊して瞬く間に気骨を失った。
「ねえ、私、冬休みに福岡の前田先生に会いに行ってみようと思うの」
 とんでもない話が飛び出してきた。驚いて思わず咳き込んでしまった。
「え? 何で? 風間のために?」
「何があったのか知りたいのよ。風間くんは前田先生のところに行った後、大学に来なくなってしまった。原因はこの人にあるのかなと思ってね。私の実家、長崎にあるんだ。帰省のついでだから」
 俺の動揺は自分でも抑制し難く感じられた。そうまでする彼女の風間に対する愛は何なのか。俺に勝ち目はないのだろうかと。
「反対?」少し不安な面持ちで返事を待ちきれない彼女が問うた。
「いや、確かに何かあったのかもしれない。でも、それがわかったからといって風間を大学に戻すことなんてできないんじゃないの?」
 彼女は目を反らしてうつむき力なくつぶやいた。
「うん、岸川くんの言う通り。風間くんと話していても考えを変えることなんてできないと感じている私がいるの。やっと前田先生のところで何を学んだかは教えてくれたけど。目や手の動きで心を読む術を習得したんだって」
 彼女と風間の関係が深まっていくことを危惧して咄嗟にこう答えた。
「それは危険だ。須藤さんの心も読まれているかもしれない」
 彼女は特に驚きはしなかった。
「いいの、読まれていても構わない。風間くんが悪い人だとは思えないから」
「でも、心配だ。須藤さんに何かあったら」
「何かあったらって?」無邪気に覗き込んできた視線に堪えられなかった。
 俺は後先考えない野獣の振る舞いをして、彼女を押し倒した。「きゃっ」と小さな声を立て不安定なねじれた体勢で倒れた彼女の自由を奪い、俺は見下ろして顔と顔を付け合わせていた。一瞬の出来事だったが、彼女がぐにゃりとして力が入っていないことを感じた。
「ルメートル」と彼女は謎の言葉を吐息と混じらせ囁いた。唇を寄せると彼女は目をつむった。
 結局この日俺は須藤亜希子を手に入れることができた。言うまでもないが俺にとっては人生で一番素敵な記憶となった。今でも逃避的に思い出してしまう。幸福の最中はそれが山頂かどうかはわからない。幸福の思い出は多くの者に後悔の念を起こさせる。どうして失ってしまったのかと。俺もこの年になるまでそうだった。だが、今はこの幸福の記憶を持っているだけでもましかと思っている。実にいじけているが、それが人生というものだ。

 

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