遁走曲風

 ものみな茹だる夏。水の恩恵を失ったものは忽ち腐敗し死滅する。饐えた臭いがゆで上がった大気に混じり、生ける者に絡み付き生気を奪おうとする。
 ぐったりしている俺に息を吹き返させる出来事がひとつあった。須藤亜希子から連絡があったのだ。いや、実はつい二週間前に俺の方から連絡を取ったのだ。三年振りに近況報告を兼ねて、風間の居場所がわかったから会いに行ってみるとメールをした。絶対に食い付いてくると思ったからだ。案の定、いつになく積極的に風間のことを尋ね出した。そのうちじれったくなって電話をかけてきたから本気だった。
「なんだ、亜希ちゃんは風間のこと好きだったのか?」
 そう茶化してみたが響かず、「私は風間くんの不思議な力のことを知りたいの」と真面目に返された。執拗に迫られたので、折れて小池留美から聞いた電話番号を教えてやったのだった。それが二週間前の出来事。電話番号を教えたらそれっきりで、どうにも忌々しかった。
 そして、今日突然須藤から電話があったのだ。土曜日の蒸した夕方だった。
「風間くんと連絡が取れないの」彼女は悲痛な調子で訴えてきた。残念ながら俺も風間には会えていないことを伝え、明日また八王子に会いに行くことを話した。
「違うの。私、今日東京で風間くんに逢う予定だったの」
 そんな約束をしていたなんてそれはそれで妬みがもたげてきた。あの頃何度も味わった嫉みだ。もう俺の女ではないのに。
「番号を教えてもらってすぐに電話して、自分の気持ちと目的を正直に話したの。そうしたら風間くんは快く会うことを約束してくれたわ。楽しみにしていると言ってくれたのよ。それが今日待ち合わせ場所に来なかったの。勿論電話もしたのだけど繋がらないの」
 狼狽えている彼女の声を聞いて俺の取る行動はひとつだった。
「今どこにいるの? これから会わないか?」
 日がまだ落ちず熱気で意識を朦朧とさせる風が海から流れてくる。待ち合わせ場所に指定された空港に近いバーで彼女をすぐに発見できた。髪を短くしている以外は昔と変わらない気がした。いや、いろいろとお互いが昔通りではないが、懐かしさが目を曇らせた。
 紺一色のワンピース姿には落ちついた大人の色気が漂っていた。目元の凛とした清涼感が後退し、丸みを帯びて潤み、学生時代にはなかった涙袋が出来ていて魅せられた。こんな美女とバーのカウンターで並べるなんて最高の栄誉だ。そして、かつては恋人だったのだと思うと想いが再燃する。ぎこちない畏まった挨拶をして隣に座りギネス・ビールを頼んだ。その時に香ったのは俺のよく知っている爽やかな橘ではなく、目の覚めるようなバラだった。少し興醒めた。
 彼女は夜の飛行機でとんぼ返りする予定だった。俺は風間の連絡先を知るに至った経緯を物語り、不在を確かめた先週の出来事までを語った。藤井のことは話したが、小池留美のことは都合よく伏せた器の小ささは否定しない。
 彼女は熱心に聞いていた。取り分け藤井が語った風間の読心術の件には異常な反応を示した。一方、須藤は福岡で前田先生と会って知り得たことを語ってくれた。
 彼女は自問するように尋ねた。
「私は口調で人の真意を見抜ける人がいると思うの。もちろん態度とか表情の変化も加えての総合的な判断の結果だけど。風間くんはその感覚が人並み以上に研ぎ澄まされたに過ぎないと思うのだけどどう思う?」
「つまり俺たちも風間のようになれるかもしれないということ?」
「いえ、やっぱり風間くんは超越していた……」
 急に力を落として遠く視線を離陸する飛行機へと向けていた。
「風間くんの身に危険が迫っているような気がする。でもどうすることもできないなんて……」
 ここで時間がきてしまった。結局俺たちは風間の特殊な能力を知るに至ったが、風間本人に辿り着くことは出来なかった。
「もし風間くんの消息がつかめたら知らせてね……お願い」
 ファム・ファタールがかける呪文に魂を抜かれて俺は頷くより動作ができなかった。
 空港まで見送りに行った。別れ際にお辞儀をした品の良さが長く目に焼き付いて離れなかった。

 

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