遁走曲風

 年が暮れても明けても全てが彼女ただひとりで充たされていた。俺も彼女も真面目な性格が幸いして、卒業単位も全て取得済だし、卒業論文も無難に通る保証があった。気侭な大学生活の残りをこれほど屈託なく過ごせるなんて夢のようだった。勿論、俺たちふたりは四月から新社会人となり、各々の会社で荒波に揉まれながら日々を送らなくてはならないのを予感している。僅かなモラトリアムだと自覚して懸命に羽を伸ばそうとしていた。どうせ四月からは羽ばたくことなんてできないのだ。自由とは儚いもので、思いのまま行使できる時ほど限界だらけなのだ。つまり、俺たちは普通の学生が持つ程度の金しか持っていなかった。だから、若い男女がすることと言えばひとつだけだった。それにしても、須藤亜希子は付き合う以前に俺たちが噂していた以上の性豪だった。多分、彼女は俺のことを物足りなく感じていたと思う。そういうのは何となくわかってしまうものだ。
 蜜月は桜の花びらが吹雪いている頃まで続いた。付き合ってわかったことだが、彼女は非常に男に尽くすタイプで、相手に合わせて自己を抑圧する傾向があった。典型的な寂しがり屋で、ひとりでいるのが辛いのだ。だから、メリハリが無くともずっと一緒にいる男を好んだ。俺は嫉妬から風間のことは忘れてもう会わないで欲しいと漏らしたら、拍子抜けするほどあっさりと従った。
「わかった。岸川くんがそう言うならもう会わない」
 その後しばらくは疑り深く監視してみたが、本当に風間のことは頭から追いやったようで、ぱったりと口にのぼらなくなった。
 お互い社会人になり時間が制限されるようになった。俺は出版社に入り─三年後には今の会社に転職したのだが─、彼女は企業カウンセラーの会社で心理士として仕事を始めた。お互い最初の頃は不安や励ましで頻繁に会っていたが、自然と疎遠になり、電話やメールでの連絡で済ますようになった。新入社員歓迎会でどちらかの帰りが遅くなると、喧嘩の種になるのは残念なことだった。しかし、この程度は乗り越えなくてはならない壁で、そう高くもない障害物のはずであった。
 だが、運命は俺に過酷な宣告を下してきた。研修が終わる頃、彼女の福岡支社への移動が決まったのだ。彼女の実家が九州にあることから、提案があったそうだ─実は入社前からそんな話を持ちかけられていたらしい。東京本社は人材が豊富だが、地方はどこも足りていない。出張費は経費を圧迫する。だから、可能な限り会社は配置転換を模索している。彼女は応じることにした─東京に残ることも可能だったはずなのに。それを知らされたのはつれなくも電話であった。
 憤怒より失望の方が大きかった。そして、学生時代に過ごした数ヶ月の甘い時間を回想し、もっと大事にしていればよかったと後悔の念に苛まれた。もう決して戻ってこない時間の大切さを思って放心状態で電話を切った後、止めどもなく泣いた。
 俺は女の怖さを知った。結局俺は一過性のつなぎの役目しかなかったのだと考えると思い出が急に濁り出した。別れ話をしたわけではなかった。遠距離恋愛をするつもりだった。しばらくは連絡を取り合っていたが、自然に関係は消滅した。今でも友達として連絡を取れる間柄ではあるが、もう八年間会っていない。最後の連絡も三年以上も前のことだったように思う。

 

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