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世界文学への誘ひ
「世界文学渉猟」
[ 最終更新日:2017.6.25 ]

「世界文学渉猟」について

世界文学の名作
大衆化した文学を再生する為に
技巧的な自作韻文詩
短篇小説
戯曲
中篇小説
中篇小説
現代の文章が失つたもの
様式を重視した文学のあり方
「文学史序説」 (準備中)

 


前口上

 主幹は文学部に籍を置いたものの専攻は西洋史であると云ふ、文学を専門に学んだものではありません。しかし、文学への想ひ断ち難く、能ふことならば文学を抱いて路傍に倒れたいと思つてゐます。主幹は文学者への道に挫折した人間ですが、決して諦めたわけではありません。何も為さずに朽ちる前に何かを為さねば悔いることになりませう。21世紀の現在、インターネット上には実に沢山の文章が氾濫し、詩や小説と称するものも夥しく目にすることが出来ます。正直なところ、それらに価値があるかどうかは懐疑的なのですが、素人が文章を公にする場が開かれてゐると云ふことは画期的なことですし、恐ろしいことでもあります。実に沢山の人々が自己表現の場を求めて、インターネットの世界に没入してゐます。だから、主幹のやうなディレッタントが拙い文章を公開しても、大海の中に塵芥がひとつ浮かぶだけであらうから、構ふことはなからうと思ひました。そもそも、真の文学者はインターネットの世界とは別の世界で活躍するものだと思ひますので。一応、見栄を張つて文学の名を冠しておりますが、その名に値しないことは重々承知の上ですので、自慰行為としてお読み頂きたく思ひます。最後に駄文を連綿と綴つてゐる内に創作へと向ふかもしれないとの期待を抱きまして、前口上とさせて頂きます。


「世界文学渉猟」について

 主幹の読んだ本を列挙すると云ふ凡そ意味のない頁である。それではあんまりだと思ふので寸評を併記するが、何年も前に読んだ作品の記憶は心許なく、それらは準備中としておいて機会あるごとに書き加へる積もりである。筋を述べることに関心はなく、寸評は作品の主題と骨子を述べることに重きを置いた。あら筋は記してゐないが、未読の方で結末を伏せたままにしておきたいなら一応注意が必要である。しかし、名作と云はれる作品の結末など概して巷間周知のものだし、結末がわかつて価値が減ずるやうな作品は不朽の名作足り得ないわけだから心配無用である。能ふ限り既成の書評とは異なる部分を提供し、読んでみたくなるやうな文章を心掛ける。
 主幹の読書傾向は文学史に扱はれてゐる名作が中心である。決定的な影響を受けたのは、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んだことで、ただ生きるのではなくよく生きる為に魂への配慮を怠らないと云ふ精神に心打たれた。主幹も真理の探求者たらんと欲し、その真理の在処を古典の書物に求めた。真理の発見が為されたか否かは置くとして、主幹はやがて古典的名作の虜となり、現代作品の誘惑などはまるで感じなくなつた。現代の流行作家や話題作は読まないのかと問はれれば、読まぬと答へよう。何故かと問はれれば、人と同じ物を読んでゐたら人と同じ考え方感じ方しか出来なくなるからと答へよう。それに加へて人生は短く、読むべき本は多い。だから、何を読むかと同じ位、何を読まないかが重要である。主幹の場合、個人的な主義で取捨選択の末、古典作品に辿り着いただけに過ぎない。
 作品には個人的な見解で5段階の等級を添へたが、正直に申して文学作品にこのやうな評価を下すこと―しかも僅か5段階で付けてゐること―には後ろめたい気持ちが強くある。にも拘らず、敢て等級を採用したのは、主幹がどのやうな作品を高く評価してゐるかを一目瞭然とし、この頁の方向性を示すことが必要だと判断したからである。判定の主な基準は、主題・思想・教訓が明らかなこと、時代の制約を超えてゐること、全体に破綻がなく様式を備へてゐること、知・情・意に訴える術を得てゐることである。主幹は筋が面白いだけの作品を評価しない。主幹が読書より汲み取りたいのは、人生如何に生きるべきかと云ふ人間にとつて永遠の問題であり、件のソクラテスの精神に再び帰結する。
 古典的な名作を読む方は沢山ゐるが、古今東西を問はず渉猟する方は稀であらう。 しかし、主幹とて全く偏りがないわけではない。ギリシア悲劇、プラトン、諸子百家、ダンテ、モリエール、ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー、カミュ、二葉亭、鴎外、漱石、芥川には偏愛を持つてゐる。主幹は生来の遅読の為、読破した書物の数は極めて少ないのだが、この企画を切掛けに己に鞭打つて一層の渉猟に努める所存である。まだまだ、読まねばならない書物は多い。モラリアや英雄伝、アラビアン・ナイト、水滸伝、エセー、南総里見八犬伝、ルーゴン=マッカール叢書、ユリシーズ、失はれた時を求めて、、と山は幾つも聳えてゐる。果てのない旅路であり、決して完結はない。
 作品には指南として、主幹の個人的な見解で併せ読みたい作品を挙げた。同じ作家の作品、同じ時代や同じ文化圏の作品は基より、時代も文化圏も全く異なる作家による作品を挙げることに腐心したい。全ての作品がひとつの環になるやうになれば本望である。
 挙げてゐる書物には、哲学書、思想書、宗教の聖典とされるものも含まれてをり、世界文学には当て嵌まらないことは承知してゐる。しかし、全く文学作品の要素を備へてゐないわけでもなく、反対に、優れた文学作品は第一級の思想書でもあると云へないだらうか。尚、邪道なことだが、外国語で書かれた作品は全て邦訳で読んでゐる。訳者には全幅の敬意を払つてゐることを述べて、訳者名を併記しない非を詫びたい。

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「宣言一つ」について

 この頁は主幹の所信表明であり、文学の置かれた現状への憂慮と文学の理想的な在り方を述べたものである。教養主義的、権威主義的な論旨なので、これを快く思はない方がゐることは想像に難くない。様々な見解のひとつとしてお読み頂くも良し、誤りを指摘して頂くも良し。又、無学の徒が言を弄してゐるとお感じの方は、大いに諌め、正しき道に進めるやうお導き頂きたい。

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「ヨセフ」作品四について

 甚だ稚拙な短篇小説であります。後から読むと駄作にも思へます。寧ろ戯曲として仕上げた方が相応しい作品であつたと思ひます。しかし、一応完成作品であり、愛着もあります。
  聖母マリアの夫ヨセフのことは殆ど記録に残つてゐません。マリアの受胎告知は余りにも有名ですが、ヨセフの立場から見るならば受胎告知の受け取り方は大分違ふでせう。イエス以上にマリアは西洋の作家がタブーとする領域でせう。太宰治『駆込み訴へ』同様、東洋人が自由に書いた作品としてお読み戴ければ幸ひです。

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「ヨセフ」の戯曲化について

 短篇小説『ヨセフ』が新教出版社の編集者様の目に止り、月刊誌「福音と世界12月号」の特集「キリスト教文学とは何か―太宰治生誕100年によせて」に掲載されました。編集者様の提案により戯曲として再構築して無駄を削り、ご指摘戴いた時代考証の不備を正して改作を施しました。
 戯曲化するに際してギリシア悲劇を模してコロスを登場させたことで、小説の体裁から無理なく変容出来たと思ひます。併せてお読み戴けましたら幸ひです。
 掲載に当りまして多大なご助言ご尽力を戴いたご担当者様には、この場を借りまして謝辞を述べたいと思ひます。

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