遁走曲風


 就職先を無事に決め、あの手この手を使って単位をそつなく取り、残すは卒業論文だけになって最後の学生生活を満喫していた。理系の学生には申し訳ないが、我ら文系学生の出鱈目な学生生活こそ万歳だ。勿論社会に出てから苦労するのはわかっているが、だからこそ今だけでも羽を伸ばしておきたいのだ。
 そんな俺が腐心したのは同学年のマドンナであった須藤亜希子を口説くことだった。彼女は別格で可愛かった。性格も明るくて裏表がなく、機転も利いて非の打ち所がなかった。男女から好かれていた稀有な存在でもあった。そんな彼女を男どもが放っておくことはなかった。一年生の夏には女慣れした奴が彼女にしつこく言い寄った挙げ句、ものにしてしまった。高級車を乗り回し、ヘタクソなバンドのボーカルをやっている嫌味な奴だった。須藤亜希子はそんな奴と切れずに長く付き合っていた。それは我々の間で─女友達も含めて─七不思議のひとつとして大いに議論されたものだ。大抵は下世話な結論で終ったが。その男だが、頭が悪い奴だったので就職活動もうまくいかず、卒業留年が確定となるわで荒んでしまい、腹立たしいことに須藤亜希子を捨てる形で別れることになった。四年生の秋、ついに俺にもチャンスが巡ってきたという訳だ。
 四年生ともなると講義を一緒に受けることは稀で、なかなか遭える機会がないのだが、ここが大事とキャンパス内で彼女を探し回ったものだ。何度か挨拶を交わすことには成功したが、彼女が一人きりの時に巡り会うことはできなかった。だから、次の作戦が浮かばず、大学内のカフェで文庫本を片手にしてコーヒーを飲んでいる時に、まさか彼女から声をかけられるとは予想だにしなかった。
「岸川くん、隣座ってもいい? 読書中かな、お邪魔かしら?」
 俺の慌てっぷりときたら滑稽極まりなかった。
「何を読んでいるの?」そう言って覗きこんできた。「『感情教育』。フローベールかあ。ふうん、こういうの読むんだ。意外だな」
 運命は不意に訪れる。未来を引き寄せようとあがけばあがくほど掌からこぼれていく。だのに意地悪く無防備な時を襲って背後からやってくる。心構えのできていないその時の気分が判断を掛け違え、当初の願いと異なる港に到着してしまうことが人生航路だ。本を閉じてフレデリックの運命と重ね合わせ、文豪が親切にも示してくれた処世訓を肝に命じた。
 彼女は鞄を置くとコーヒーを購入しに行った。この時間を最大限に使って話題を探したが、月並みなものしか浮かばなかった。彼女が戻ってきて、間近に座った姿を何度も盗むように見た。俺の半生でも須藤亜希子ほどの美人はいなかったと断言できる。涼し気な目元は必ずしも俺の好みではなかったが、額縁の中にしかない黄金比率で描かれた整った顔立ちとスタイルは細部まで美術品のようだった。肖像画を依頼するならジョルジョーネが相応しいと直感が疼いた。彼女の美しさは詩情を伴わなくてはならないからだ。
 この大事な時に空想に迷い込んだのはすっかり舞い上がってまごついていたからだ。しかし、会話の糸は全て彼女が紡いでくれた。屈託なく就職先などを尋ねたり、自分のことを話したりしてくれた。こういう人懐っこいところが好かれる理由で、大概の男は恋心を植え付けられてしまうのだ。この僅かな時間で好意を持たれていると思い込んだとしても罪にはなるまい。笑いたい奴は笑うがいい。いつしか気分もほぐれ饒舌になりだした俺の冗談に笑い崩れた彼女は膝に手を乗せてきたりした。普段は凛とした竹が笑う時は枝垂れかかってくる柳のようになる。その時、そよいだみどりの黒髪から空気を清涼にする香りが届く。橘の香りはよく知らないが、彼女には橘という響きが似合うとふと思った。
 会話は様々なことに及んだが、急に調子を変えてこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、岸川くんて風間くんと仲良かったよね?」
 風間の話題は一年振りかもしれない。甘いひとときに似つかわしくない行方不明者の名前に気分が下がった。
「うん、そういえばあいつどうしちゃったんだろう? あれから消息不明だよな。家の事情かな? 大学辞めたとか聞いたけど」
 須藤亜希子は声を落としてこんなことを告げた。
「それがね、この前見かけたのよ」
 彼女の証言からすると、風間は以前から住んでいた下宿にまだ居るようだ。彼女が目撃したという場所は風間の下宿の近くだから、そう考えて間違いない。風間の下宿先は大学から遠く、自転車で三十分以上かかったところにあった。長期欠席が発覚した頃に一度訪ねて行ったことがあるのだが、不在でポストに郵便物が溜まっていたことを憶えている。
「そのときはバスに乗っていたから声がかけられなくて。人違いかもしれないし。でも岸川くんが言うように、風間くんの可能性が高いわ。こっちに帰ってきているのね。大学どうするのかなあ。ねえ、心配じゃない?」
 普段なら風間のことを気にすると思うのだが、今は彼女のことで頭がいっぱいで心ない返事をしてしまった。しかし、彼女は全く意に介せずこんな提案をしてきた。
「ねえ、一緒に家に行ってみない? 私たちで何か力になれることがあるんじゃないのかな? ねえ、お願い。岸川くんと一緒だと私も心強いし」
 目的はどうであれ、須藤亜希子と二人きりで行動を共にできることに簡単に食い付いてしまった。運命とは準備しておくものではない。不意な時こそ逃してはならないものだと信じている。

 

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