遁走曲風

 銀杏並木が黄金色に染まって散り始めた晴天の休日、閑静だが交通の便が悪く、はっきり言って寂れた丘陵地にある年季の入った喫茶店で彼女と待ち合わせをした。住宅は多いが、待ち合わせになる場所がほとんどなかったのだ。早めに行ったつもりだが、彼女はもう先に着いて待っていた。これからこの近くにある風間の下宿を訪れる約束をしたのだ。店では近所の常連と思われる親父が店主と楽しそうに野球の話を大声でしている。結局、ゆっくりお茶をすることもなく店を出て風間の下宿へと向った。
 爽やかな秋の風が彼女の髪をたなびかせ、隣を歩く俺に馥郁たる橘の香りを届けてくれた。甘さのない清々しいレモンのような匂いに今まで感じたことのない幸福を味わった。秋らしく濃い色の落ち着いた服装の彼女と時たま腕を触れ合いながら歩いた思い出は忘れられない。正直、風間が家に居なければよいと思ったくらいだが、同時に風間に感謝もしていた。俺の記憶を頼りにどうにか風間のアパートに着いた。六人が入居できる小綺麗なアパートだった。呼び鈴を鳴らしたが出てこない。今日は出直そうと提案したが、彼女は裏手を見て洗濯物が干してあることを指摘して、待っていれば帰ってくるのではと主張した。果たしてものの数分もしないうちに風間が買い物袋を下げて帰ってきた。不意をつかれた風間はひどく狼狽していたが、瞬く間に彼女が駆け寄って声をかけた。
「風間くん? よかった。会えた。元気? どうしたの? 皆心配しているよ」
 風間はすぐに落ち着いて答えた。
「ごめん、誰にも何も言わずに。いろいろ考えるところあってね」
「そうなんだ。余計なお世話かとは思うけれど、元気であることがわかってよかった」
 風間は優しい笑顔でありがとうと答えた。
 俺も一安心し、風間に声をかけた。そして、彼女が先日風間のことをこの付近で見かけた経緯から説明した。
「でも、本当にどうしたんだ? 大学は辞めちゃったのか?」
「いや、まだ在籍はしている。休学にしている。ただ、そのことで親とはちょっと揉めてしまってね。学費を稼がなくてはいけないんだ」
 不安そうな須藤亜希子の表情を見て取ったのか、風間は立ち話も何だから部屋にあがらないかと勧めてくれた。
 部屋は生活感の全くない空虚な部屋で、恐ろしいほど清潔であった。机と本棚とベッド、そして折り畳めるテーブルがあるだけで、テレビもなかった。目立ったのは本棚に画集や図録が並んでいたことだ。風間とはかつて絵画の話で意気投合したのを思い出した。神話や哲学を好んだ俺は古典的な絵画でないとどうも楽しめなかったが、ジョットやグリューネヴァルトの凄さを語れる人間は風間くらいしかいなかったのだ。しかし、絵画の話題は絵を前にしないとどうも長く続かない。やがて、俺と風間の友情も次第に色褪せていったのだった。
 出されたお茶を前に我々三人はしばらく無言だったが、俺が切り出すことにした。
「学費を稼いだら復学するつもりなの?」
 風間は淡々と答え始めた。
「いや、大学を続けるかどうかははっきり決めていない。退学していないのは親の手前だけだ。仮に就職ができれば大学を卒業したかどうかは大した問題じゃないしね」
 そう受け答える風間は超然としており、親近感を抱けなかった。
「風間くん、仕送りはもらってないんでしょ?」
 ここで須藤亜希子がおずおずと尋ねた。風間は肯定した。
「今はどうやって暮らしているの? 本当に大丈夫なの?」
「今はアルバイトをして何とかやっている。そうだ、次のアルバイトがあるんだった。あと二十分もしたら出かけなくては。折角来てもらったのに申し訳ない。でも嬉しかったよ。二人とも就職先は決まっているんだろう?」
 そこですっかり話は折られてしまい、俺や彼女の就職先の話を一通り終えたところで、風間は出かけてしまった。
「風間くん、大丈夫かなあ。私何だかとても心配」帰り道、新たな心配事を抱えた彼女はつぶやいた。
「あいつにはあいつの事情があるんだよ。俺たちには何もできないさ」
 しばらく無言だった彼女は別れ際にこう言った。
「でも、何か力になってあげられるはず。とっても苦しそうだった。私少し考えてみるわ。岸川くん、今日はどうもありがとう。助かったわ。またね」
 何かを得たようで何も得なかった日が暮れていった。

 

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