遁走曲風


     ことばは感ちがいのもとだ。
            サン=テグジュペリ



 初夏のざわめきが聞こえてくる。ついこの間まで葉を付けていなかった落葉樹も眩い緑で覆われ、美しくしなやかに動く影に一歩遅れて風の歌が追いかける。これとは対照的に世の女子はすっかり薄着になり、むだ毛の処理をしたばかりの手や足をどうだと言わんばかりに見せつける。目をこの上もなく喜ばせてくれるこの季節に感謝したいが、俺の身の上は何とも曇り空で気分は一向に晴れない。こうして道行く女子の生足を観察できているのは、取材と称して外出しているからだ。
 週刊誌の記事を書き続けてきたが、いい加減疲れてきてしまった。最近は室内にこもってネット検索するのが記者たちの仕事になっているのが実情だ。馬鹿馬鹿しい。だけど書き続けないといけないのだ。無茶なこともしてきたが、ふとこれでいいのかと立ち止まることもある。今日はそんな気分だったから編集長に取材に行ってくると言って事務所を出たのだ。いや、何の当てもなく外出したのではない。第一、上司が許す訳がない。出かけられたところまでは良かったが、今回の取材というのは俺を理由もなく憂鬱にさせるネタだ。はっきり言ってしまえば原発の記事だ。勿論、週刊誌では毎回必ず原発関連の記事を載せており、誰かが常時取材をしている。俺が今まで携わらなかったのは、何となく人とは違うものを書きたかったし、他誌を出し抜くような話も簡単には得られなかったからだ。それが今日こうして降参して取材をする気になったのは、手持ちのネタが切れたのと、原発に関する特ダネを持っている男との接触が偶然拓けたからだ。さっきは憂鬱と言ったが関心がない訳ではない。今日は興奮できる話が聞けるかもしれないという期待もある。
 だが、時間になっても男は来ない。三十分以上も喫茶店のオープンテラスで若い女が何人も通り過ぎて行くのを見て待っている。おや、電話だ。待ち合わせの約束をしている男からだ。嫌な予感がする。
「はい、岸川です。どうされましたか? はあ、急用ですか。キャンセルですね。わかりました。ええ、是非リスケさせてください。よろしくお願いいたします。」
 俺の人生とはまあこんな具合だ。会社に手ぶらで帰ることほど辛いことはない。言訳を考えるのも一苦労なんだよ。

 

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