遁走曲風

 その夏、彼はほぼ毎日やってきました。請われるままに教えられることは何でも教えました。目の動きで心理を読むこと、口角や額が表す心理状態、心理が及ぼす呼吸や息の変化、紅潮や蒼白、手や指の動きが示すもの、ありとあらゆることを事細かく学び取ろうとしました。
 ただ、彼は心理学を専攻しているということもあり、知識は大方あったのです。彼が求めたのは一般論ではなく実践的な実用性でした。空論ではないことを確認するために実際の応用を求めていました。けれども、心理を分析させて欲しいと気軽にお願い出来る相手なんて普通はいないですし、私を相手にするのは相応しくありません。彼は実地検証することはできなかったはずなのです。
 ところが、私の家から辞して、翌日やって来る時に彼はひとつひとつ結果を報告し、心理変化で見られる兆候で有用なものと不確かなものとをレポートするのでした。彼は手当たり次第、デパートや飲食店の店員などを実験対象にしていたとのことですが、彼曰く効率は悪く、踏み込んだ実験は難しかったとこぼしたこともありました。私の推論ですが、彼がすぐに実験対象に相応しいと選んだのが風俗店で、毎日キャバクラに通い無作為に一日ひとりの嬢と会話をしては実験をしていたようです。彼の口からはっきり聞いた訳ではないのですが、彼の報告からそう推測をしましたし、それ以外には考えられませんでした。ほとんどが若い女の子と話したという結果でしたから。
 彼曰く、目と口角の動きが最も繊細に心理を表し、次いで手の動き、更に足の動きも見逃さなかったそうです。でもこれは過去の研究からも明らかで、目新しい結果ではありません。そして、言語が最も心理の変化を受けないだけでなく、寧ろ包み隠すのに役立つこともよく知られたことです。彼は言葉は過ちの原因だとも言いました。
 その時には気付かなかったのですが、答え合わせはどうやっていたのかが謎のままだったのです。往々にして心理分析の実験には巧妙な意図が働いてしまい、どうとも取れる表現で曖昧にされることが多い。答え合わせが難しいことと、結局絶対はないという脆弱な学問なのです。
 彼の報告では実験対象の心理状態や変化が明らかになっていました。だけど、よく考えてみてください。今何を考えていたかを答える確認行為が公然と繰り返されたら対象の態度に作為が生じますし、実験の信憑性が失われます。だから、どうして彼が対象者の心理状態を絶対的な自信をもって断定できたのかは神秘に包まれていました。
 それが遂に、彼の滞在が一ヶ月になろうとし、個人授業が最終段階になろうとする頃、秘密の核心に触れることになったのでした。今では完全に信じていますが、当時は彼の特殊な能力の存在を受け入れ難く、有り得ないことだと考えていました。

 

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