遁走曲風

 彼の特殊な能力に気付いたのは、教師と生徒という立場を離れ出した時からでした。最初の半月は、私の都合に合わせて訪れて来て、一時間から二時間程度の質疑応答を繰り返す日々が続きました。やがて、私の教えをみるみる吸収し身に付けていくと、教えることも少なくなり、彼の実験に啓発される方が多くなりました。
 講演等の出張がある日以外は毎日のように会うようになって、私たちの会話は次第に学問のこと以外にも広がり、福岡の街のこと、祭りのこと、食べ物のこと、絵画のこと、方言のことなどその時々で取り留めもなく話しました。私が音楽好きということもあり、普段から音楽をかけていたのですが、彼は詳しくないにもかかわらず、通が唸る曲に反応を示しました。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲とバッハの鍵盤曲をピアノで弾いたのがお気に入りで、特にフーガに魅了されたようです。静かで純度の高い音楽が彼の好みでした。音楽の愉しみを共有したいと思い、饒舌に彼を感化しようと試みました。振り返ると自分の感情が抑制できなくなりだした契機は音楽によってだったかもしれません。
 後から思えば彼の実験対象にいつの間にかされていたと思います。彼は非常に良く私の気持ちを楽しくさせてくれました。彼の特殊な才能によるものだと思います。恥を忍んで告白すれば、私は彼との共同作業に今後の活路を見出し始めていました。新しい著作の腹案も徐々に芽生えてきました。彼はそのことも見透かしていたのか、思わせ振りな私の探りには一定の距離を置くような印象がありました。
 一ヶ月を経て、彼の滞在期間が残り少なくなってくると私は次第に思い悩むようになりました。大変申し上げにくいことであり、軽蔑されることだと思いますが、彼を手放したくありませんでした。彼と過ごした一夏は刺激的で、得難い発見が常にありました。彼が間もなく福岡を去ると考えると心は思い乱れました。最初はまさかと思いましたが、特別な感情を抱き始めたようなのです。必死に封印し隠そうと努めました。しかし、心理学者たるものそれが逆効果であることがわからなかったのは何とも歯痒く、専門家失格だと反省するのです。彼はこれをも勘付いていたことでしょう。
 四十の私が大学生の男の子に夢中になるなんてどうかしていたとは思います。しかし、独り身で強がって生きてきた女が自分を慕い、教えを請うて通い詰めた若い男のことを好いてはいけないでしょうか。毎日会っていれば、感情に変化があるのは当然なのです。公私ともにパートナーとして相応しい存在だと考えるようになってきました。誤解がないように言っておきますが、決して不純な考えからではなく、彼との時間を失いたくなかったのです。激しい葛藤がありました。自分を正当化するのは苦しかったです。あくまで仕事のパートナーとして彼を手に入れたい、若い男を恋人にするのではない、それをどうやって彼に説くかを必死に考え、眠れない日が始まりました。結論は常にこの考えを捨てること、彼とはこのまま別れるしかないと諦観するとともに、心の中ではもしかして奇蹟が起こるかもしれないと憐れな妄想に取り憑かれたりするのでした。
 だけど、彼は私の逡巡を全て見透かしていたのです。まさにこのことこそが彼の特殊な力を認識するに至った理由なのです。私は決して年甲斐もない悩みを打ち明けはしなかった。それなのに彼は恩義ある私に対して嫌悪感をもって応えたのです。
 彼が東京に帰る数日前、大型台風が上陸して福岡市内は大荒れの日でしたが、いつものようにやってきました。それとなく今後の継続的な関係性構築の期待を込めて探りを入れてみたのです。
「風間くん、もう大学では講義が始っているのよね?」
「ええ、幾つかは。でももしかしたら大学には戻らないかもしれません」
 私は予期しない返事に驚いてしまったのです。
「どうして? 卒業しないつもり?」
「まだ決めた訳ではないのですが、大学で得るものはなさそうですから。私が知りたいことは全部先生に教えていただきました。感謝しています。今は少し自分を見つめなおして将来を考えたいと思っています」
 この返答でこの一週間の悶々とした懊悩が出て来てしまったのです。
「だったら私のところにもう少しこのままいなさいよ。まだ教えていないことがたくさんあるわ」
「いえ、いつもまでもご迷惑をかけることはできません。それに滞在費用も底をつきました。福岡でもアルバイトをして補充はしてきましたが、これ以上は居れません。それに先生にお支払いする授業料ももう捻出できません。東京のアパートも空けたままですし。当初の予定通り帰ります。お気遣いありがとうございます」
 私はどうにも引き下がれなかったのです。
「それなら、この家に住んでもいいのよ。大丈夫、家賃なんていらないわ。どうせ空いている部屋があるの。自由に使っていいわ。将来のことだけど、私の助手になってみない? だから授業料はもうなしよ。寧ろあなたに給料を出してもいいわ。あなたとなら新しい研究ができると思うの。いいえ、返事は今すぐでなくていいの……違うの、私はただ単に自分の仕事のことで提案をしただけよ……」私は次第に言訳を重ねていくはめになったのです。
 彼の表情は曇り、私を哀れむような瞳に変化したことを見て取りました。己の研究が自らを苦しめることになったのです。彼に心を読まれていることは明白でした。
「僕がこれ以上先生の所に居てはご迷惑をかけることになります。僕は先生を苦しめたくありません。僕は先生の期待には応えられません。そして、一緒にいると僕のことを憎く思うようになるでしょう。僕は先生を不幸にしたくないのです」
 拒絶されることは想定されていたはずなのに、激しい動揺に襲われました。それは、失策をしたことに対する自身への苛立ち、喪失感の戦きとも言えたでしょう。
 憮然としていた私を残して、彼は席を立ち暇乞いをしました。私が何か言おうとするのを制して彼はこう言ったのです。
「先生、ありがとうございました。この御恩は決して忘れません。どうか僕のことは忘れてください。僕は義理ある先生の心まで読めてしまうようになりました。僕のそばにいる人間は丸裸にされるのです。僕は先生の尊厳を守りたい。どうかこれ以上僕に言葉をかけないでください」
 嵐の中に彼は消えて行きました。凄まじい雨と風の音が残り、気付くと猫が足にまとわりついていました。
 彼とはそれきり会っていません。

 

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