遁走曲風


 強い日差しで朝方は晴れていたのに、昼過ぎから風神雷神が舞い降りて荒天となった。干してきた洗濯物のことは諦めた。もう何日も雨が続いている。たまに晴れ間が来るから油断してしまうが傘が手放せない。
 さて、先週会ったばかりなのに彼女から誘いがあって食事をすることにした。雰囲気を変えて小洒落たイタリア・レストランを予約したのだが、こういう日に限って邪魔が入り仕事が切り上げられなくて時間に遅れてしまった。彼女は先に予約席でアペリティーヴォを始めていた。今日は彼女も普段よりめかしこんでいる。フリルのついたブラウスに花柄のスカートで、髪をシュシュで束ねている。唇にも艶があって、目のクマも隠されていた。俺が思っていた通りのサンドリヨン様だ。煙草の灰まみれなのが残念だが。
 暗めの店内にはささやかにプッチーニのアリア「冷たき手を」が流れている。テーブルの上でゆらめく蝋燭の炎がジョルジュ・ド・ラ・トゥールの描く女のように彼女の顔を照らしている。俺は遅れた詫びをして席に着いた。そして、まずは彼女の変貌を褒めた。まんざらでもなさそうだ。それから、共通の話題である仕事のことでたっぷり一時間は話した。本題を切り出すのはどちらからか。今日は彼女からだと俺は心に決めていた。お互い赤ワインが回ってきた頃だった。
「あ、そうだ。約束していたあれを持ってきたよ」
「あれ?」俺はとぼけたのではなく、本当にわからなかった。
「はい。風間くんの住所」
 手渡された紙には簡略な地図とメモが記されていた。頼んだ側がすっかり忘れていた。それに呼び出さなくても職場で渡してくれればいいものだのに。
「ありがとう、助かるよ」そう言ってすぐにしまい込んだ。
「ごめんね、番地とかわからなくて。あと、電話番号も教えるね。でも、できれば電話はしないで欲しいの。だって、あたしが教えたってことがばれるでしょ」
 そのへんはうまく誤摩化すつもりだったが、どうやっても絶対にばれるからと言い張るのだ。それに風間は知らない番号にはなかなか出ないと言った。彼女の証言によると風間はその時分から藤井と思しき人物と接触をしており、声がかかると臨時のアルバイトと称して同行していたようで、仕事上警戒をしていたらしい。
 彼女と風間の関係が少し気になり出した。俺はまたも風間の影法師に嫉妬しているのか。しかし、彼女はもう何とも思っていないようで、風間との奇妙なデートを話してくれた。風間が好んだのは特に絵画を観ることだったと言う。静かにじっと絵の前に立っているのが好きだったそうだ。デートでは美術館を巡ることが多かったと言う。彼女も絵を観るのは嫌いではなかったからそれ自体は良かったのだが、風間は神経質なルールを提案したそうだ。それは一言も話さず無言で絵画を観るという決まりだった。彼女もひとりで絵を観る時は黙っている。だが、折角のデートなのに一言も発してはならないとは! だったらひとりで観た方がいい。彼女は不満だったし、風間は長く絵を観ているので彼女は取り残されてちっとも楽しくなかったと言う。でも、美術館を出てから絵の話は饒舌に交わされた。それは絵を観ている時に聞きたい話ばかりだったと言う。
「風間くんは古い絵が好きだった。印象派以降は主義ばかりでうるさいんだって。特に熱く語っていたのは、ヤン・ファン・エイク、ジョルジョーネ、カラヴァジョ、それからゴヤ」
 玄人好みの選出は流石と感心してしまった。それに大分時間が経ったのも拘らず、よく憶えている彼女にも感心した。
「特にゴヤはお気に入りで、耳が聴こえなくなって何を思って絵を書いたのか気になったようよ」
 この話は興味を惹いた。声で心を読むという風間が、聴力を失った画家に関心を抱くのは面白い。
「黒い絵か」
「あ、岸川さんも詳しんだ。そう黒い絵。でも私は怖くて」
 俺はサトゥルヌスからアンドレ・マルローの「空想美術館」について蘊蓄を始めた。切り札はここ一番で使う。俺を見る目が変わっていくのを確かめた。今度一緒に美術館に行かないかと誘うとに二つ返事で乗って来た。
「風間くんはサトゥルヌスより犬の絵に注目してたかなあ。あの絵には音がないんだって。静かな流砂の音だけ。そうそう、風間くんはね、自分はこの犬と同じ運命になっても受け入れられると言ってたな。その時は死が宣告されても静かに受け入れるってことだと思ったんだけど、違うかな?」
 どう考えていいかわからなかった。
「結局、風間くんが何を考えているのか全然わからなかった。向うはあたしのことお見通しだったのに。ずるいよ」
 そういってワインを飲干した彼女の頬は熟れた桃のようだった。どことなくゴヤのマハを思わせた。

 

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