遁走曲風

 梅雨が明けて容赦ない日差しが照りつける。影の短さと黒さは気分を滅入らせる。八王子の閑散とした住宅街を歩いている。駅からかなり歩いた。汗でワイシャツは絞れるほど。ズボンはぴったり張り付いてしまって歩きにくい。もう限界だ。日傘を差しハンカチで首筋を押さえている薄着の淑女とすれ違った。爽やかな橘の匂いがして古き良き記憶を呼び覚ました。先を急げばいいのに思わず振り返ってしまった。腰のラインが綺麗ないい女だったが、俺を憐れな目でちらりと見たのが勘に障った。俺も日傘を差したい気分だよ。
 せっかくの休日に道もよくわからない土地を歩いているのは、風間のアパートに向っているからだ。だが、こんなに暑くなるとは予想をしておらず、迂闊さを悔やんだが後の祭りだ。土地勘のない俺の手元にあるのは、辿り着けるのか保証のない雑な地図と目印の指示だけだった。今時こんな宝探しのような捜索をすることになるとは思わなかった。彼女は典型的な地図の読めない女で、駅周辺では三度も振り出しに戻された。彼女がここを訪れなくなって二年以上が経っているから目印が変わっていたりして一時は絶望的になった。複雑な駅前から離れて正しい道にのったとわかった時は安堵したが、すでに疲労困憊していた。駅からは歩いて二十分はかかるところだったが、行き先が明示できない件のような事情でタクシーを使えなかったのは悪しき行いの懲罰といえよう。
 彼女が断言するには引っ越しは絶対にしていないと言う。何故かと問うと、引っ越しができる資金を持ち合わせていないというのだ。彼女と付き合っていた間もアルバイト生活で余分なお金は持っていなかったそうだ。学生が多く住む地区で、家賃が安いから選んだ土地らしい。そんな話を聞くと不憫に思えた。
 俺が風間を訪ねる理由は何か? ひとつにはあの藤井という男からは何も聞き出せないとわかった以上、その情報を共に知る風間から直接聞き出せばいいと考えたことがある。そして、彼女からの情報の通り風間が金に困っているなら、俺が情報提供料を支払ってやることで旧友への支援にもなる。まあ、これは副次的な理由である。風間は相場を知らないだろうから藤井に払う額よりも低く抑えることが可能だろうし、藤井が小出しにして渋るような情報もほいほいとしゃべってくれるかもしれない。俺には一石二鳥、八王子まで足を運ぶ動機は充分あるのだ。
 なんとか辿り着いたようだ。流石に小池留美の目印情報もアパート近辺は細かく正確で間違いがない。だが、ここで予想だにしなかった人物と会った。藤井だ。向こうは驚きを隠せないようだ。辺りを見回して警戒している。俺には遠慮する理由などない。ずんずん近付いていって、軽く会釈した後、風間の部屋番号を探そうとすると、「風間くんはいませんよ」と釘を刺された。甲高い声が耳障りで腹立たしかった。風間が不在であることは不運であったが、こればかりは仕方がない。アポをとった訳ではないし、一か八かで来たのだから。何度足を棒にするかわからないが、また来よう。そう考え、来た道を帰ろうとすると、「彼の居場所を知りませんか?」と頓狂なことを聞いてくる。
「知りませんよ。あなたの方が詳しいのではないですか?」
「そうですか、実は昨日約束をしていたのですが来なかったのです。数日前から電話をしても繋がらないし、いつも連絡はきちんと取るので何かあったのかと」
 そう言われてもだ。耳障りな声が俺を苛々させた。
「どこかに出かけているのでしょう」
「そうだといいのですが」
 嫌な空気になってしまった。それに猛烈に暑い。
「しかし、よく風間くんの住所がわかりましたね」そう言って、郵便受けを勝手に覗き出した。
「やはり数日前から家には帰ってきてないようだ……」
 チラシが心なしか多めに入っている。
「心配だ」ぼそりと言ってその場を去って行った。

 

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