第九章
門倉玲美は音大を優秀な成績で卒業した後、いくつかのオーケストラでコンミスを歴任した。あまり知られていないがピアノも達者だった。真面目な性格で幼少の頃から勉強も得意だった。音楽で生活できれば本望だったが、実際は稼ぎにならなかった。親の口利きで会計事務所に就職することができて、ようやく社会のことを知るようになった。学生時代から美貌で知られていたにも拘らず、男を知ったのもようやくこの頃だった。平日は美人秘書、週末はコンミスで忙しく二十代を過ごした。三十の時、宍戸と巡り会った。宍戸が玲美のような才色兼備の女を放っておくはずはなかった。より音楽の幅を広げるには恋愛の魔力を借りねばならないと言う宍戸の囁きに従ったのは、人一倍真面目に音楽に向き合い、コンミスも責任を持って取り組んでいたからだった。宍戸はたくさんのこと教えてくれた。音楽の神秘は勿論のこと、特に男がもたらしてくれる官能の奥深さに驚いた。しかし、蜜月が過ぎると立場が逆転して、悲しい想いをすることが増えた。あんなに夢中だったのに、冗談で「美人は三日で飽きるというのは本当なんだなあ」などと平気で言うようになった。だが、宍戸の冗談には幾分本音も含んでいた。玲美は兎に角真面目で出鱈目に物事を進められるのが苦手だった。自分に対してもこうでなければならないと頑に決めつけて遵守しようとした。仕事もおしゃれも音楽も自分のスタイルを貫こうとした。隙のない完璧な女性を演じてきたが、精神的に自分を追い込んでおり、定期的に身体を壊していた。加えて恋愛での挫折が心を蝕んでいった。だが、宍戸との関係はずるずると続いており、歳だけをとっていった。
優等生の玲美は宍戸のお気に入りである一方、厄介な存在でもあった。何でも真面目に努力する頑張り屋で敬服もしていたが、性格が禍して型に嵌り過ぎるのと、保守的過ぎるのに苛立つことが多かった。コンミスとしてもまさにそれが問題であった。演奏は綺麗だがそれ以上ではない。宍戸はもっとオーケストラに柵から開放された一期一会の熱狂を味わせてやりたいと思っていた。それには玲美の協力が必要だった。しかし、どう伝えても玲美を変えることが出来なかった。練習中は常に紳士を装ってきたが、恋人として気を許していることもあり、玲美にだけは辛く当たることがあった。男女の関係にまでなっていることを知らない周囲は二人の間を訝ることもしばしばだった。二人きりになった時にこんなことをよく言われた。
「自分の殻を破らなくてはだめだ。オーケストラ全員の前で裸になれないといけない。玲美が脱がなければ誰もアルカディアには入れないんだよ」
言わんとすることはわかっていたが、どうしたら殻を破って羽ばたいて行けるのかがわからなかった。表情で読み取れたのか続けて畳み掛けた。
「だけど、玲美は頭ではわかっていてもどうにもできないんだろうなあ。そうやって自分の殻に閉じこもったままでいると誰も見てくれなくなるぜ。だっていつ見ても同じなんだもの。案外簡単なんだけどな。全部捨てちまった時始めてわかるんだけどね。脱いでしまえば、着ていたのが滑稽に思えたりするものさ。でも玲美にできるかなあ。できないことなんてひとつもないと思えたら人生が変わるぜ」
言われっぱなしで悔しくなって一筋の涙を流した。宍戸は慌てて頭をかき抱いてくれたが、誰も見てくれなくなるという寸鉄人を刺す言葉に血を流していた。宍戸も倦んでおり、オーケストラの皆も何だか自分のことを必要としていないような気がしていた。三十五になって急に体力の衰えを覚え、病気をして演奏会を休んだ回があったのだが、聞いた話によると玲美が欠けた穴を感じさせなかったそうだ。代わりはいくらでもいると思うと絶望した。それでもどうしていいかわからなかった。宍戸もオーケストラも同時に失ってしまうかもしれないという不安によって眠れなくなった。仕事でも立て続けにへまをやらかした。玲美は確かな脱出口を求めたわけではなく、闇雲に救いを探した。宍戸の示唆した脱げという言葉をまともに考えた。裸になれという暗喩は、誰の前でも服を脱げることだといつの間にか変容していた。もしかして、それで何かが変わるかもしれないと考えた。しかし、体を売るのは違うと思った。そういえば、一流の写真家は女性を撮っていくうちにその気にさせて脱がすことができると聞いたことがある。綺麗に撮ってもらえるなら自分も一枚一枚ヴェールを取っていくかもしれない。そう考えて思いつくままモデル募集のサイトを覗いてみた。運命的に木村の募集が目に飛び込んできた。その文面を読んで一条の光を感じた。肖像画なら音楽芸術ともどこかで結びつくはずだ。写真よりも絵画が自分には合っている。だが怖くて決心がつかなかった。半月もの間、毎日木村の募集欄を繰り返し読んだ。モデルをしている自分を想像しているうちに心が支配された。震える手で登録を済まして投稿をした。だが、自分の素性が漏れたらどうしよう、オーケストラの誰かが知ったらどうしようと不安になった。登録に使った久美という名は妹の名だった。
思い切って運命の扉を叩いてみると出て来たのは誠実な画家であった。真面目で波長が合う木村との連絡に夢中になり、危険を顧みずに待ち合わせ場所に急いだ。木村は宍戸と年齢が同じなのに正反対の性質を持った人物に思えた。慎重で控えめであり、男性的な魅力に乏しい代わりに優しさと信頼が具わっていた。自分に似ていると感じ、この男の前なら苦しむことなく自分を曝け出せるかもしれないと思った。自分のことを一番理解してくれるだろうと感じたのは正しかった。木村との時間は玲美の心をほぐし解放していった。一言で説明するのは難しいが、内気な玲美のことを理解せず無理矢理脱がせてみようとした宍戸とは真逆に、木村の優しく包み込むような眼差しは覆っていた不安や羞恥心の殻を溶解し、無限の可能性を試してみようとする気持ちにさせてくれた。じっと見つめられ美しさを賞讃される体験は気恥ずかしさからやがて女王崇拝に対する礼へと変わり、卑屈勝ちだった感情を高貴な威厳へと変えた。裸になることも意外なほど抵抗なく行え、ほんの最初に感じた惨めさもすぐに消えた。やがて、餌を前にして媚を売る犬猫のように愛欲に悶える画家をなぶる喜びのために、面白がって出し惜しみするように下着を脱いでいくようになった。そして、トリスタンとイゾルデの音楽とともに精神も身体も性的絶頂を貪っていたことを恐らく木村は知らない。
玲美には他に目に見える変化が生じた。ヴァイオリンの音が変わったのだ。それは自分にもよくわかった。楽器を構える姿勢で胸を張るようになり、弓も天駆ける馬のごとく使えるようになった。木村の前で突き出すように胸を張ったポーズをとったことをオーケストラの皆が知ったら何て思うだろうと悪戯っぽく考えると自然と身体が火照り滑らかに動くのだった。挑発的に足を組み替えた時のように、指はくねりくねりと媚態をつくりながら動き、ヴィブラートの種類に幅が出来た。型に嵌っていた演奏中の動きも大胆になり、顔の表情には艶かしさすら混じるようになった。煽情的なポルタメントをかけた後はオーケストラの音色が一瞬にして官能的になった。誘惑に対して求愛の花束を捧げるように奏者らが熱い視線を送ってくるようになると、全てを束ねた玲美のヴァイオリンのf字孔からはオーケストラの全ての音が出て来るような広がりを持つようになった。その頃のプログラムにサン=サーンスの「大洪水」前奏曲を弾く機会があって、たまたま聴きに来ていた有名なヴァイオリン教師の目にとまり、終演後に声をかけられた。自分の下で研鑽を積んでみないか、リスト音楽院を紹介できるが留学してみる気はないか、というもったいない言葉をもらった。その教師の誘いでショーソンのポエムを弾く機会を特別に与えられ、将来を属目される大勢の若手と混じって演奏を披露したのだが、満場のスタンディングオベーションが起こるというセンセーショナルな結果になった。ほんの二ヶ月の間の出来事であったが、急に運命が拓けてきた。
宍戸とはお互いが忙しいこともあって会うことすらなかった。宍戸が示唆した自分の殻を破るという意味をヌードで知り、自分を表現することが初めてできるようになったように感じた。ヴァイオリン教師の元へ何度も足を運び、正式にハンガリー留学を決めた。準備には時間がかかる。何よりも入学試験をパスしないといけない。半年という時間は勉強するには短いが、玲美の心は未来に向けて定まった。秋深まり行く頃、宍戸との関係を清算する決心をした。
木村は懊悩していた。これまで心血を注いできた作品の美神が久美ではなく、門倉玲美であることを知り、苦悶と逡巡に苛まれていた。絵はふたつともほぼ完成している。次に逢う日まで毎週のように細部の加筆を試みたが、一見ほとんど変化はなかった。しかし、精度は増し、部分によってはヤン・ファン・エイクの画業に迫ると思われた。先にR・Kというサインも描き込んだが、期せずして門倉玲美をも表すことになり運命を感じた。後は目元と唇の表情に最後の奇蹟が舞い降りることだけを期待していた。ところが、急に玲美の身辺が慌ただしくなり、土曜日の予定が組めなくなった。玲美は何度も申し訳なさそうに謝った。最初は気楽に構えていた木村も二ヶ月間が空き、十月になると焦りを覚え出した。今年の展覧会が十一月上旬に早まったこともあり、最後の制作日を確定したかった。ようやく十月の下旬で返事がもらえた。募っていた疑心と不安で日常生活が崩壊しそうだったが、決まったことで少しずつ解消された。
展覧会には着衣の肖像だけを出品する予定で、裸婦像は宝物として保管しておくつもりだ。これを出品するのはあらぬ詮索を呼び起こすだけだし、誰にどう説明すればいいものか妙案が浮かばなかった。言い訳がましいことを弁明したくなかったし、木村からすれば裸婦像を芸術以外の視点で観られるのは鑑賞者の程度の低さでしかなかった。それに一糸まとわぬ女神の姿を公衆の目に晒すなど冒涜に等しかった。絹肌は木村ただひとりだけのものにしたかった。着衣の肖像の額縁は例の品を使う。嵌め込むと想像した通り額も絵も神聖な火花を散らして高貴な二重奏を奏で始めた。
もうひとつの額には金を惜しまぬつもりだった。真夏の頃に芸術に理解が深そうな額装屋をようやく見付け、制作途中の作品を持ち込むと店主は裸婦像に驚嘆し褒めちぎった。有名な画家の作品なのかと嬉しいことを聞くので、自分が描いたといって二度驚かせた。心地よい瞬間だった。店主はモデルの美しさにも絶賛を惜しまなかった。黄金に朱がほどよく感じられる木製の風格ある額を見繕ってくれ、高額ではあったが特注した。先般納品となり、ほぼ完成した作品と合わせてみるとヴィーナスが誕生したように眩しく輝いた。
ついに最後の制作日がきた。これが最後となることはお互いが認識していた。これが終われば二人が逢う理由もなくなる。木村はもちろん絵が完成しても逢いたかった。だが、それに応じてくれるかはわからない。決して画家とモデルの関係というだけではなく、それ以上の交流が芽生えてきていると信じていた。作品が完成した暁には契約を離れて逢瀬を継続することを提案してみようと意を決した。「また逢っていただけますか?」これだけでいい。この言葉にそれ以上もそれ以下の意味も持たせないつもりだった。一年近くの間に十回以上も顔を合わせ、しかも密室で二人きりになり、その上ヌードも描かせてくれた女が、契約終了と同時にもう二度と逢う事もないでしょうと拒絶を示すだろうか? だが、悲しいことに恋人に発展する期待も薄かった。肌に触れないという掟は彼女が設けた神聖な壁である。あの時は不可侵の命令に大人しく従う他なかった。しかし、画家とモデルという関係が終了した後なら掟は無効になるはずだ。だとすれば……。こんなことを考えて、はたと妻へ対しての罪悪感を抱いた。こんな妄想をしたこと自体が裏切りには違いない。だが、自分はまだ潔白だと思っている。全てが芸術の為なのだから……。
玲美は最初の制作日と同じ格好でやってきた。この服が似合う季節になった。限りなく化粧をしない素顔だった。頬の透き通るような繊細さに偽りのない美しさを感じた。望むように化粧をしたいからだと嬉しいことを言う。
額に入れた着衣の肖像を披露した。玲美はうっとりと眺め、素敵と呟いた。準備が整い、椅子に座ってポーズをとった玲美と絵とを見比べた。これまで写し取ってきた玲美と目の前にいる玲美の表情にははっきりとわかる違いがあった。自信をも感じさせる気品を帯び、神々しい微笑が漂っていた。この二ヶ月半で起こった変化に驚いた。そして、今日の表情を写し取ることこそ、この作品の完成にふさわしいと確信した。写真はもう撮らず、目元の化粧と唇に艶を加えることを頼んだ。するかしないかのほんのりとした化粧で目が大きく見え、唇は妖艶な誘惑を帯びた。今や美の女神は完璧になった。失敗は赦されない。慎重に絵の具を薄く解き、パレットで伸ばした。細い筆で慈しむように唇の色を乗せた。その一筆では何も変わったようには見えないくらいに。慎重に二塗りすると、悩ましい光沢が微かに感じられ、全体の表情が明るくなった。さらにこの日の玲美の口角の位置が少し上にあるのを見てとった。黒で点を唇の端に乗せ、乾いた細い筆で上向きに慎重にぼかした。その淵に僅かに朱を添え、再びぼかした。これまでの位置は薄くぼかしてあったので簡単に消せた。次は目元だ。憂いをたたえた玲美の目が好きだった。じっと玲美の目を覗き込んだ。最初の頃は恥ずかしがってすぐに伏せてしまった玲美の視線が木村の眼差しを受け止めている。寧ろ木村の方が身震いしてしまいすぐに絵に視線を戻してしまった。目は最もこだわってきた部分なのでこれ以上の余計な修正は絵全体を台無しにしかねなかった。だが、今日の瞳はこれまでにない霊感の泉のようだった。これまでは僅かに視線が下に逸れていた。木村は初めて瞳の奥にある熱を見たような気がした。瞳の大きさもこれまでよりも大きく感じた。灰色を駆使して木村は慎重に瞳の淵をなぞり大胆に黒も乗せた。そして瞳の光を一旦塗りつぶした。それから一旦離れて全体を眺めた。美しさにくらくらした。最後に白の絵の具を極細の筆に付け、震える手を固定しながら瞳の光を点で打った。両方の瞳が入った瞬間、絵の視線が木村を呪縛した。玲美がもうひとり誕生したのだ。
「完成しました」木村が立ち上がると、玲美も我に返ったように瞬きをして立ち上がった。二人は並んで眺めた。玲美は僅かな加筆でこうも変わることに驚き、うっとりと自分の生き写しに見とれた。
「先生、私永遠になったような気がします。不思議な気持ち……」
二人は言葉を交わさず長く作品の前で並んで立っていたが、玲美が休憩しましょうと提案すると木村もようやく従った。グラスに注いだワインで二人は唇を湿らし、しばしの休憩を取った。気付くと玲美はグラスを空けていた。少し頬を上気させた玲美から言葉があった。
「先生、私準備はできています」そういって結んでいた髪を解いた。木村はもう一枚の作品をイーゼルに置いた。ほんのり赤みを添えた頬に満足し、化粧を直す必要がないことを告げた。ベッドのレイアウトを簡単に整えた。今日は表情だけを加筆するつもりだったから手短に準備を済ませた。キャンバスの前に座ると無言で合図を送った。玲美は頷き、上着をゆっくりと脱ぎ、するするとスカートを下ろした。下着だけになって髪を振ると一旦木村を見やった。さきほどまでの高貴な王女とは打って変わり、妖艶な表情はウェヌスの女神そのものだった。視線を逸らさぬまま下着をひとつひとつ剥いだ。エロスを感じさせる仕草に木村は狂気に捕われまいとするのに必死だった。しとやかにベッドに横たわってポーズを取ると、傑作になるに違いないという戦きに全身が震撼した。言葉はいらなかった。この日のために玲美が選んだのは全てシューマンの音楽だった。木村は恐ろしい集中力で玲美の肢体を見つめ、全てを写し取ろうとした。仄かに開いた口元からは吐息が感じられる。「ねえ」という呼びかけの言葉が発せられているような下唇の形に魅せられ、夢中で筆を入れた。口紅を差すように朱が乗ると生命が宿り、一筆で思うように描けた。奇蹟を感じ、もう手を加えないことにした。最後にお互いが瞳を見つめ合った。着衣の肖像と同じく視線を絵を観る者に向くように変えた。自分がどのような技法を駆使したのかわからなかったが、枯れることのない泉のような瞳を手に入れた。その間、木村は瞬きも呼吸すらもしていなかったのではないかと思うほどだった。キャンバスから手が離れたとき、掠れた声で「ああ」と呻いた。神像のように微動だにしなかった玲美も息吹を取り戻し、ベッドから跳ね起きて裸のまま木村の隣に立った。玲美はキャンバスの前に立ったとき、ゼウスの電光を受けたように滅びそうな感覚に捕われた。自分を見つめる画布の女の魔力に恐ろしさまで感じた。
「怖いくらいに綺麗、先生……」
「ああ、美しい。僕はもうこれ以上の作品は描けないと思う……」
木村は放心して絵筆とパレットを持ったまま椅子から動けなかった。キャンバスの中の玲美が投げかける視線に釘付けになっていたが、その脇で生身の玲美が愛撫するような眼差しを落としていたことには気付かなかった。
「先生、疲れたでしょう。少し横になるといいわ」玲美は優しく声をかけた。
「うん、そうさせてもらおう」
そう言って、ようやく絵筆とパレットを置き、玲美の温もりの残るベッドへ横たわった。クライスレリアーナの終曲が終わって静寂が訪れた。木村はぼんやりしていた。玲美はバスルームに入ったようで、しばらく出てこなかった。日が落ちるのが早くなって夕暮れが迫った。キャンバスを照らしていた光線もおぼろげになった。そこに音もなく玲美が戻ってきた。間近に来たのを感じ視線を向けると、触れ合うほどそばに寄り添ってきていた。
「なんだ、シャワーを浴びていたのか……」
玲美は頷くと見下ろす格好で急に微笑を止めて真顔で話し出した。
「ねえ、先生、私にこれまでモデルをしてきたご褒美をくださらない?」
木村は夢の中のように朦朧としていた。
「いいだろう。言ってごらん」
「はい。今日、私を抱いてください」
しんと静まり返った部屋に鈴のように響いた。
木村は胡蝶の夢を見た荘子のように現実との区別がつかなかった。寝てしまったのだろうか。首筋に水滴が残ったままの裸の玲美が目の前にいる。急にのどの乾きをおぼえた。玲美の視線は艶かしく木村の胸元の辺りを彷徨っている。腕を動かそうとすると柔らかい胸に当たった。二人の視線が合うと抗えない運命の力に従いゆっくりと腕が回され次第に強く抱きしめた。玲美が吐息を漏らすと、僅かに残っていた緊張が解けた。キャンバスでしか触れることのできなかった玲美はガラテアとなった……。
木村が目覚めた時、部屋は真っ暗だった。眠ってしまったのだ。絵画の完成に集中力を注いだあまり疲れていたし、一年に及ぶ制作を完遂した安堵感もあった。何よりも女神との秘蹟に精魂を使い果たしてしまったのだ。目覚めてもまざまざと愛の記憶が残っていた。少し体を動かして玲美がいないことに気付いた。明かりを探し部屋を見渡した時、力が入らなくなって崩れ落ちてしまった。玲美と共にキャンバスに乗せてあったヴィーナス像も消えているのだ。着衣の肖像は壁に立てかけたまま残っているが、さきほどまで木村の腕の中にあったヴィーナスはともども消えてしまった。金色の額も一緒に持ち去られていた。放心したままベッドに腰かけるとテーブルに書き置きがあることに気付いた。
「木村先生
どうぞおゆるしください。先生と一緒にいた時間は私を生まれ変わらせてくれました。感謝しています。ガラテアはいつまでも先生を苦しめるでしょう。そばに置いていてはいけません。私を愛してくれてありがとう。私はいつまでも先生のものです。どうかお元気で。私のピグマリオン様。」
激しい喪失感に襲われしばらくベッドに伏したままだった。帰りが遅いことを心配した妻からのメールによってようやく現実に戻された。全てを諦め、着衣の肖像とその額だけを持ってホテルを後にした。
展覧会は凡庸な作品の発表が並ぶ中、木村の作品だけが異彩を放っていた。確かにこれは素人の域を超えていた。鬼神が乗り移ったような生命力に誰もが圧倒された。モデルの美しさを誰もが口にした。妻には先生に紹介してもらったモデルだと嘘をついた。先生の知人で画商を営んでいる男が値を付けたいとまで言ってきたそうだ。木村はプロの画家として認められたこそばゆさを素直に喜んだが、この絵を手放すことなんてありえなかった。木村は埋めることのできない思い出をこの作品で補っていた。いつかもう一枚の絵とも再会できることを、いや玲美と再会できることをただ乞い願っていた……。
会期中、夜の閉館間際にひとりの女が木村の絵を見にきたと先生が言っていた。短い滞在でサングラスをかけていたから断言できないが、モデルの人に間違いないと伝えられた。
あの日、玲美はある決意を秘めていた。その為に計画を練り上げた。玲美は宍戸をまだ愛していた。生まれ変わったことを認めてもらいたかった。再び愛が向くことに期待をかけていた。だが、留学をすればすぐに忘れるだろう。そしてもう元に戻ることは決してない。そんな薄情さに対しての決別と復讐を思いついた。木村の描いたヌードを置き土産にして苦しませようと考えた。この思いつきはこの上もなく愉快なものに思われた。時を同じくしてヴァイオリンの腕を認められ、全てが戯れのように楽しく明るくなってきた。木村に裸婦像を譲って欲しいと懇願すれば実現する可能性はあったが、宍戸への復讐として使うとわかれば絶対に承諾しないし、嘘はつきたくなかった。盗むしかないと判断した。いや、この絵は共同作業の賜物であり、木村のものでもあり玲美のものでもあるはずだ。ヌードともなれば一層だ。罪悪感はあったが、きっと許してくれるだろう。だが、代償は必要だと感じた。木村の隠された愛に応える決心をした。自分をこんなにまで見つめてくれた人はいなかった。そして自分の殻を取り去ってくれた人だった。いつしか、木村と逢うことを喜びとし、自分の運命を託そうとまで考えた。だからこそ脱いだのだ。モデルとはいえ男の前で全裸になり二人きりになるなど気持ちがなければできないことだ。求愛をしてくれば応じていただろう。しかし、自分をさらけ出して行く一方、木村が歩み寄ってこないもどかしさを感じていた。最初に自分が警戒心を強く張りすぎて、必要以上に境界線を引いてしまったことを口惜しく思った。しかし、秘めた木村の愛は病的に燃え上がり、それが作品には効果的に影響した。木村の方にもなりふり構わず玲美にのめりこむことができないでいた原因があった。妻の存在がいつまでも片隅にあり後ろめたさが残った。木村の本心では玲美となら今の人生をすべて捨てて運命をともにする覚悟はあったが、願望を受けて入れてくれる妄想をすることは都合が良過ぎたし、絵が完成するまでは関係を破壊したくなかった。玲美との時間を持てるだけで満足するのが妥当であり、所詮は不倫や離婚などとは縁がないのだと考えていた。玲美もまた自分を偽り続ける木村への諦観を感じていた。木村が既婚者であることは確とわかったわけではないが薄々勘づいていた。玲美と木村の感情は交錯しながら交わることなくすれ違い、トリスタン和声の如く曖昧のまま膨れ上がっていった。
宍戸への未練と木村へのじれったい愛の狭間で、製鉄された玲美は芸術の魔力によって強くなった。生き写しともいえる迫真の肖像画、それも全裸ともなれば恐ろしく嫉妬をするかもしれないという発想が閃くと、よしやそれで宍戸と別れることになろうとも、そもそも望みの薄い恋だし、寧ろ復讐で一泡ふかせてやりたいという快感が勝り、心を占めた。
あとはどうやって作品を手に入れるかだった。木村をヴェーヌスベルクへと誘い精力を奪いとってしまったところで決行すれば成功すると考えた。失敗は許されないので綿密に準備をした。最終手段としてたまに服用する睡眠導入剤も忍ばせておいた。宍戸の予定も考慮し、最後の制作日を連絡した。女はいざとなれば大胆になれることを証明した。作品が完成した時から木村に魔法をかけだした。甘い吐息に抵抗できないことを確信していた。逡巡させる隙は与えてはならない。直裁的に振る舞い思った通りになった。制作時の眼差し同様、真摯に抱いてくれた。抑圧されていた玲美の官能は一気に解き放たれ狂乱し、激しく求めて離さなかった。儀式の後、玲美を腕に抱きながら木村は眠りに陥った。作品の完成と求め続けていたガラテアとの夢見心地な情事を終えて至福の充足を感じてしまったのだろう。しかし、玲美は決して目的を忘れることはなかった。そうっと腕から抜け出て、薄明の中を物音を立てないように素早く服を着て、キャンバスを額縁に嵌め、木村の運んで来た箱に収めて元通り紐で縛った。大きな袋も失敬した。立ち去る前、木村の寝顔をもう一度ゆっくり眺めた。そして書き置きを残した。部屋は暗くなっていた。最後に「先生、ごめんなさい。大好きよ」と囁いて部屋を後にした。
ホテルからはタクシーで宍戸の家に直行した。宍戸のマンションは各戸に玄関ポーチがある。大きな袋だったが死角に置いて呼び鈴を鳴らした。あらかじめ訪問することを告げていた。扉が開くと袋に気付かないうちにと部屋にすべりこんだ。
「やあしばらく振りだったね。話したいことがあるって一体なんだい?」
それには返事をしないでずんずん部屋に入って行った。
「なんだい、そっちから連絡しておいてその態度はあんまりだな」
宍戸は気に入らずにソファに座って煙草に火をつけた。玲美は蔑むように一瞥したが、やがて部屋をゆっくりと歩きながら切り出した。
「私ね、リスト音楽院にいくことになるかも」
驚いた宍戸は煙草をもみ消して詳しく説明するように頼んだ。この二ヶ月に起こったことを順序よく話すと珍しく真剣に聞いていた。
「そうか、それはよかった。そうか……、君がね……、入学試験では何を弾くんだい?」
宍戸の向かいに席にスカートをひらりとさせながら座り、「シューベルトの幻想曲が課題曲で、あとは選択。シューマンのソナタにするつもり」と答えた。
「へえ、君がね……、どれ、よかったら今聴かせてくれないか、アドヴァイスしてあげよう」
こういう高慢な態度が嫌だったが、今は立場が対等、否逆転しているようにも思え、優しくなれるのだった。
「いいわ、ヴァイオリン借りるね」
ピアノの上にあったケースを開け素早く調弦をした。その一連の動作に宍戸は身震いがした。しばらく会わないうちに別人のような弓さばきで楽器の鳴りが違う。何があったのかと勘ぐっていると「ねえ、課題曲はまだ練習していないから、この前弾いた曲にするわ」と声がかかってはっとした。返事をする間もなく、承諾なしに玲美は弾き始めていた。ショーソンを。
冒頭の音色から息を呑んだ。楽器の音がしない。人間の声に近く、魂の呼吸音のようだった。玲美は没入するように目を瞑り、時たま指板を見つめるだけで宍戸には一顧だにしない。難所もこだわりがなく弾き飛ばし、切実な歌の箇所では声を潜めて告白し、一瞬の感情の昂りに全霊を込めた。ポルタメントが吐息のようにくすぐり、艶かしい表情は音と同化していた。憑かれたように身体を動かす様に宍戸は押さえ切れない感動に襲われ全身が発熱していた。叶えられない祈りのようにトリルが繰り返され曲を静かに閉じると、宍戸の存在を忘れたかのように楽器を素早く片付け始めた。ケースを閉めると同時に背後から両肩に手を置いて宍戸が身体を寄せてきたが振り向かなかった。
「ブラーヴァ。君は僕の知っている玲美ではないようだ……。僕はこれまでこんなに美しいヴァイオリンの音色を聴いたことがないよ。君はもう自分の殻を破って遠い所に行ってしまったのかな……?」
耳元で囁かれて一瞬心地良い愛欲の虜になり、この男を再び独占してやりたいと思いかけた。しかし、もう昔の玲美ではなかった。
「あなたには感謝している。服を脱ぎ捨てたら新しい自分になれたようなの。ありがとう」そういってようやく首を向けると宍戸の顔が間近にあり、接吻を求められた。そして強く抱きしめられたが、浅ましく感じていた。宍戸も違和感を感じていた。言葉に言い表すことが難しかったが、他の男に抱かれてきたような女の匂いを本能的に感じた。玲美からこんな匂いを嗅いだことがなかった。衝動にかられ強引に脱がそうとしたが窘められた。
「どうしたの? こういうのは嫌よ」
宍戸は慌てて詫びて、先にシャワーを浴びるかと聞いたが、お先にどうぞと言われた。玲美がソファに座って結わいていた髪を振りほどいているのを見て大人しく従った。欲情に急かされていた。
身体を清めてバスルームから出て声をかけたが返事がない。部屋に戻ると玲美がいなくなったことよりも驚いたことがあった。金の額縁におさめられた玲美の裸婦像がピアノに立てかけてあったのだ。玄関の靴がないことを確認し、幻を見たとか、絵画に変身したとかの怪奇現象でないことはわかった。力なくソファに座って煙草をふかし始めた。今まさに想い描いていた官能的な姿が目の前にあった。ベッドの上から誘うように見つめる玲美を眺めていると惨めになって笑い出してしまった。そして、玲美はもう自分のものではなく、別の男のものとなっていることと考えた。この裸婦像はその動かぬ証拠だ。このような形で自分に復讐を果たしたことを天晴だと思った。それにしてもあのヴァイオリンは惜しい。自分だけのコンミスとして手元に置いておきたいと思った。それにしてもこの絵はどうしよう。捨てるに捨てられない。生きているようだ。こんな美しい玲美は見たことがない。ヴァイオリンの音色と重なる。目が離せなかった。自分の見てこなかった美しさが全て描き尽くされている。悔しさを超えて感嘆した。吊り具を購入してピアノの脇に絵を飾ると美の祭壇が出来上がった。ピアノを弾く時も、ソファでくつろぐ時も玲美の視線が突き刺さった。これでは息苦しくてやりきれないと思ったが、ヴィーナスをクローゼットにしまっておくなんて不敬なことは考えもしなかった。玲美の復讐はじわりと効いてきた。この絵を描いた男(そうとしか考えられなかった)との関係を思うと嬲り殺されている気がした。
それきり玲美とは連絡が取れなくなってしまったが、嗅ぎ回って探し出すのはみっともないと思った。喪失感が募り憔悴して行く一方だったが、いつか共演する機会がくるはずだという確信は捨てられなかった。
それ以来、付き合っていた女とはひとりまたひとりと別れた。そうは言っても女好きを根っこから変えることは出来ず、いい女が寄ってくれば抱いていた。しかし、深入りはせずに特に家に入れることは断固拒絶した。家にあげて欲しいと五月蝿くせがむ女とは関係を切って、都合のいい女だけを残した。宍戸の愛は我が家で待つ玲美ひとりに捧げていた。仕事で人が来る場合もあるので、壁一面を覆うことが出来るように天井付けでカーテンレールを付けた。絵を含めて壁全部をカーテンで隠してしまうので裏に絵があることは知られなかった。日光に曝したくないのと煙草の煙からも守りたかったので覆いは役にたった。
あの日から二年以上が経ち宍戸の奇妙な生活も落ち着いてきた。絵を眺めているうちに自分もまた玲美への想いを永遠にしたいと考えた。指揮者の仕事は刹那的だが、音楽家としての最良の仕事である作曲なら不滅の恋人のことを記念碑に変えられる。玲美と付き合い始めた頃に戯れたある記憶が脳裏に浮かんだのが作曲を始めたきっかけだった。
「これ何だかわかる?」と言ってヴァイオリンで短い上昇音形を弾いた。
「誰の曲だったかな……。もう少し弾いてくれないか?」
「違うわ、宍戸玲美。私たちの名前って階名でこんなに入るのよ」
「本当だ。こんなことってあるんだな……」
作曲を専門的に学んだ訳ではないので、過去の楽聖の作品を模倣しつつこの主題の展開をいろいろと試した。最終楽章はフーガにできると熱狂したこともあった。オーケストレーションには自信があったが、曲の接続箇所や主題の変奏はまだまだ未熟だった。沢山の断片が積み上がっていったが根気よく取り組み続けた。
浅川みどりの積極的に求愛に折れて付き合い始めたのはそんな時期だった。悪い女ではなかったし、一緒に居て楽だったこともあり、次第に気を許した。秘密を突き止める為に計略を謀ったとも知らずに宍戸は禁制を破ってしまった。みどりは絵画を前にして全てを解き明かしたとともに、永遠の美の祭壇にある玲美の姿に完全な敗北を喫した。そして、究極の美を求めてもがく哀れな男たちを半ば軽蔑しつつも悔しさを噛み締めて去って行った。
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