ピュグマリオーンとオルペウス

第二章


 浅川みどりは男を見る目がないと揶揄されている。男運がないことは自認していた。とはいえ、男に困るような女ではなく、その気になれば大抵の男と付き合うことができた。二十四歳の若さで花咲き誇っており、顔立ちは人並みだが、目が大きく色白で男受けが良かった。何と言っても一番の武器は胸が大きいことだった。体型はどちらかというとぽっちゃりに属するが、小顔で足は締まって細かったので、男にとって寧ろ理想的な身体と思われていた。何よりも明るく屈託のない性格が溢れ出ていて人気があった。言い寄ってくる男が多いことも一因だが、自他ともに認める面食いであることと、恋が始まる時の愉悦に溺れ易かったので悪い男に引っかかる確率が高かった。
 前に付き合っていた男は青山の喫茶店でウエイターをしている背の高い細身の美男子だった。彼を目当てに来店する女は多かったと思う。みどりは偶然女友達たちと店に入ったのだが、一目惚れしてしまった。友人らが黄色い声を出しているのを尻目に、何曜日にアルバイトを入れているのかを卒なく調べ、後日足しげくカフェに通っては積極的に話しかけ感触を探った。見立てでは脈ありで、満更でもない様子だった。男は役者志望でたまに舞台に出るが、収入はゼロで寧ろ出費の方がかさんでいた。ウエイターのアルバイトではやりくりなど出来ず、方々に借金をしている様であった。そこまで見抜けないまま、役者というだけで目が曇ってしまい、大胆にも好意があることを告白してしまった。ふたりは付き合うことになり、数日後には身体の関係を持っていた。みどりにとって身体の相性は重要だったからだ。残念ながら惨憺たる結果で、早速気の置ける知人らにはその時の様子を滑稽に伝えた。過去に付き合った男たちの不甲斐なさを自虐的に面白おかしく語る才能は抜群だった。これが助長されて男運がないという像が形作られたのは否めない。とはいえ、顔は好みだったし、役者姿も端役だが小劇場で実際に観ることが出来たので満足していた。
 だが、ここからが本領だった。信じ難いことにみどりの身体には月並みな興味しか持ってこなかった。お金を目当てにしていたのだ。奇妙なことに男には女の影がなかった。その代わり役者仲間との夜遊びがひどかった。みどりも紹介ついでに付き合わされたことがあったが一度でやめた。付き合って半月くらいから端金を懇願された。最初は少額だったので貸していたが、返ってくることは稀だった。舞台の衣装代は自腹だったが、それもすがり出した。デート代も持ったことはない。そのうちみどりの部屋で一緒に住みたいと言ってきた。毎晩一緒にいられることは嬉しいが流石に迷った。この一件を知人らに相談すると悉く反対を受けたが、その甲斐もなく押し掛けられて同棲が始まっていた。食費や家賃を浮かせた男はみどりの金で役者仲間との定期的な夜会を楽しんだ。自虐話は増幅していったが、どうやら夜会では女が加わる時があり、刹那的な関係を持っていることが密告された。男は仲間内でも金銭面でだらしがないと評判が悪く、みどりの為を思って別れた方がよいと忠告してくれた者がいたのだ。堪忍袋の緒が切れて追求をしたが、男は潔白を主張した。だが、これがきっかけとなって愛着もなくなった。男は心地良い環境を失いそうになり慌てたが、時間が解決するとばかり、行く当てもなくのらりくらりしていたら、みどりの方が家を引き払うという強行手段を取ったので全てが終了した。貯金はなかったが、以前から気分転換に引っ越ししたいと思っていたので、劇的な幕切れと相成った。これは自虐話の中でも一番とっておきのものになった。
 さて、現在付き合っている男も大変問題のある男だった。オーケストラの指揮者を生業としているのだ。指揮者と知り合う機会はそうはないだろうが、みどりはヴァイオリンが弾けて、市民オーケストラに入って活動をしていることから奇異なことではなかった。ヴァイオリンを始めたのは四歳の時でなかなか上手であったが、中学生の時に部活でバレーボールにのめりこんだのでレッスンを中断してしまった。高校ではバレーボールのことは忘れた。レギュラーを獲得するのが大変だということと大して才能がないことがわかったからだ。高校にはオーケストラ部があり、所属してみることにした。管楽器は吹奏楽出身の者が多かったが、弦楽器は初めて楽器に触る子ばかりなので、小学生まで習っていた楽器経験者として歓迎された。二年生の時はコンサートミストレスを任された。演奏会では久々に入ってきた上級者を披露するため、サン=サーンス「死の舞踏」をいうヴァイオリン・ソロが活躍する曲が演目に入れられた。年一回の総決算となるコンサートは大成功だった。進学校だったので高校三年生は自動的に部活卒業となるので、高校二年生までは部活にどっぷり漬かった。一時期は音大に行くことを考えたらとそそのかされたが、本当のところ音楽にはそんなに興味を持っていなかった。集団で目標に向かって進む団結の雰囲気が好きだったのと、周囲から上手と褒められ続けられた心地良さ、コンミスというリーダーとしての地位も良い体験になったからこそのめりこんだのだ。
 無事に東京にある大学の文学部に合格すると、管弦楽団に迷わず入団を決めた。みどりのようなコンミス経験者ともなると歓迎された。同期には驚くほど上手い男子がいて、将来のコンマス候補であった。みどりは客観的に見て上から三番目か四番目かと思われた。音大などに進もうと思わなくてよかったとほっとした。オーケストラの雰囲気は高校時代とは全く違っていた。大所帯で全学年を合わせると百名以上が在籍していた。同期だけでも最初は四十名いたが、一学年が終わる頃には三十名に減っていた。全体の結束力は薄く、幾つかの集団に分類された。特に楽器間での交流は何かの機会がないと始まらなかった。高校時代は良くも悪くも体育会系の集団で練習は繰り返し弾くだけであったが、仲間だけの時間、特に合宿の思い出は大切なものだった。大学では人間関係は組織的でドライ、一方で音楽への探求が熱く、技術は音楽性を伴っていないと途端に低く見られた。みどりはその点で楽しめなかった。だが、大学でしか経験できない喜びもあった。まず酒の席が楽しかった。これは高校生では味わえない世界であった。更に気の合う友人とはとことん夜を通して遊ぶことができた。何といっても、恋愛を何の障壁もなく楽しむことができるという下宿生活を謳歌していた。
 みどりは高校時代から恋多き女であった。オーケストラ部の花形ヴァイオリンで飛び抜けて上手かったこともあり、人間関係は円滑であった。一年生の時にトランペットを吹く先輩から告白され初めて男を知った。だが自分勝手な男で、後で思い返せば良い思い出はなく部活の卒業とともに自然消滅した。寂しい思いをしているところを同期のトロンボーン吹きと仲良くなった。かなりの時間を一緒に過ごすのだから自然に起こることだった。みどりから告白し付き合うことになったが、女の扱いを知らず恋人としては失格で、友達に留めておけばよかったと後悔した。部の卒業前にこの男とは段階的に疎遠になり別れた。高校三年生の時は何と大学生と付き合っていた。コンミスをした演奏会を聞きに来た部の卒業生で、言い寄ってきたのだ。受験のストレスを発散するために大学生との遊びに走った節もあるが、親の監視もあったのでのめりこむことはなかった。まだ知らない世界をいろいろと教えてくれたこの男は顔を除けば悪くなかったが、都内の大学に入って地元を離れてからは合うこともなくなり関係は消滅した。顔が好みではなかったので未練はなかったし、大学で新しい恋が始まっていた。あからさまではないが、かわいい女子は争奪戦の対象となった。新入生ではみどりが最初に売れた女だった。様々な先輩から声をかけられたが、一番好みの容姿だったチェロの四年生と付き合ってしまった。だが、言い寄られている時にたくさんの人が忠告をしてくれたのだが、どうやら二重人格で表の顔は人当たりがよいのだが、親密になるとわがままで横柄な態度を取るらしい。これまで何人もの女子が泣かされてきたようだ。果たしてその通りであった。何でも自分の都合を通そうとし、逆らうと脅しもかける。だが、みどりも負ける方ではなく、逆に男の恥ずかしい話を暴露してやった。自虐話好きが定着したのはその時からで、守るものがなくなって寧ろすっきりした。さばさばした性格を寧ろ好く男も後を絶えず、恋多き女は武勇伝というか爆笑話を引き出しにたくさん溜め込むたようになった。
 大学三年生の時、運命的な出会いがあった。既に三人の先輩や同輩らと浮き名を流し、団内で新しい恋人を見付ける気は失せていた。そんな時にその人は指揮台に現れた。名は宍戸大介、アマチュア・オーケストラでは良く知られた存在であった。宍戸を指揮者として招くことには賛否両論あったが、名声で客が集まることやオーケストラの発展のためにも一度頼んでみようとなった。みどりは指揮者選考などに興味はなく予備知識もなかった。その年はコンマスの隣で弾くトップ・サイドの席を与えられていたのだが、冬の定期演奏会の練習に宍戸が現れたのは夏前で、颯爽と現れ棒を振り始め、瞬く間に学生たちを魅了した。指揮者の良し悪しなんてよくわからなかったが、眼前で虚空を切る宍戸の棒だけは何かが違うのを感じた。いつもよりも弾き易く、方々から美しい音が聴こえてくるのだ。演奏中に鼓舞するような指示が絶え間なく降ってきて、演奏者が次々に反応していく。そして、全員が夢中になって演奏するものだから、曲が終った時は充足感と幸福感が漏れ出ていた。見上げると涼しい顔をして満足そうな笑顔を浮かべている魔術師と間近で視線が合い、全身に電撃が走った。一同を一瞬にして信者にした男が振ったのは魔法の棒に違いないとひとり思い込んだ。そして自分には恋の魔法をかけたのかなと勝手な妄想を始めた。練習が終わり、団の執行役らは宍戸を指揮者に迎えたことを讃え合っていた。
 独身とはいえ倍近くも年の離れたおじさんは恋愛対象外だったはずだが、練習を重ねるごとに宍戸への想いを強くしていった。しかし、近付くことは容易ではなく勇気が要った。どうしたらいいのかと情報を集めだしたのだが、そこで意外な悪評ばかりが耳に入ってきた。音楽性は文句無く業界一との評判だが、女好きで兎に角手癖が悪いというのだ。これまでもあちこちの学生オーケストラやアマチュア団体の女子に手を出してきているらしい。あまりに女癖がひどいので呼ばなくなった団体もあるという。彼女を寝取られたと男子学生に殴られたこともあるらしいと嘘か本当かわからない話もあった。声も良く歌も巧く、長身で顔も整っており、話術が巧みで女を酔わせる雰囲気を持っているとなれば、若い女子大生も簡単に口説けるというものだ。みどりの大学でも被害を恐れて慎重論が出たが宍戸の名声を取ったのだ。これらの情報を総合して、自分にも可能性はあるかもしれないと思いはじめたが、周囲からは宍戸はいくらなんでもやめておけと釘をさされた。しかし、皆の杞憂をよそに極めて紳士に振る舞い、口説かれた女はひとりもいなかった。演奏会は近年稀にみる成功を収めたのに、打ち上げでも羽目を外す事なく、やって来た時と同様颯爽と去った。いやがうえにも評価が高くなり、近いうちに共演を果たそうという機運が強まった。一部では最初は大人しく振る舞って油断させ、回数を重ねた頃に女漁りを始めるのだと警戒する意見もあった。しかし、一年後に卒業を控えたみどりにはもう共演のチャンスはなかった。
 大学卒業後、役者志望のウエイターとの事件を経て、宍戸との念願の再開を果たした。それは偶然ではなかった。大学時代の友人が在籍するアマチュア・オーケストラに入団したのだが、次の指揮者が宍戸だというのを知ったからだ。そこは宍戸お気に入りの楽団で数回おきに登板する。この団に居れば必ず接触することが可能だと考えた。他にも調べ上げ、最も頻繁に招聘される団体三つに籍を置いた。ヴァイオリン・パートはみどりくらいの技量を持っていればどこでも歓迎された。しかも、若くて愛嬌があるからちやほやされた。三つの楽団で網を張り追っかけをすることにしたが、自分勝手にも宍戸が振らないときは休団して、労力を最小限にした。
 ようやく、最初の出会いから三年越しとなる想いを実らせて宍戸の女になった。しかし、そこに至るまでには想像だにしなかった困難があり、一筋縄ではいかなかった。今まで簡単に男を得てきたみどりにとってはかえって新鮮であり、最後は意地になっていた。手練手管を使って接近したが、全く興味を示さないどころか、学生時代の時に聞いた噂が嘘だと思われるほど品行方正で、寧ろ女を遠ざけている風だった。実は周囲の評判を聞いても同じで、数年前から修行僧のような態度を貫いており人が変わったようだと意見が一致した。どちらが本当の姿なのかわからなかったが、猛烈に気を引こうとした結果、プライドを捨てて半ば身体を張って口説いたような格好になってしまった。その時のやりとりはこうだ。
「きみも変わっているなあ。僕の何処がいいんだい? そんなに言うなら抱いてもいいけど、僕の女になった気になってもらわれても困る。ひどいことを言うようだけど、できることなら僕のことをこれで嫌いになってくれた方がいいんだ」
 このくらいでは引き下がれなかった。指揮台の英雄の化けの皮をはがしてやりたかった。宍戸は結局みどりを侮辱することができず、抱くことで満足させてしまった。みどりの目的は達せられた。嬉しい誤算だが、想像した以上に女の扱いには慣れており、これまで付き合ってきた男とは格が明らかに違った。指揮台でオーケストラを操っている時のように心と身体が自然に反応し次第に昂揚させられ、遂には体験したことのない強烈な幸せを感じた。遂に運命の人を見付けたと思った。
 だが、またしても苦悩することになった。これまではみどりの方が先に飽きて嫌になるパターンだったが、今回は立場が真逆なので深刻だった。抱かれた後も何の進展もなく、興味を示そうとしてくれなかった。こちらから連絡を取らなければ一切何もしてこない。いつでも別れることができるといった風だし、そもそも付き合ってもいないといった風だ。自分から好きだと言ったこともなかった。愛のない男女関係でも、身体にも興味を持たないとなると、何で付き合っているのかがわからなかった。そのくせ、誘いは大抵断らず、気前良く食事やベッドを共にして、うっとりとさせてくれる。笑いのツボも同じで一緒に腹をかかえて笑っている時は恋人同士だと信じて疑わないのだが、目に見えぬ結界があり、それより先に行けないもどかしさを感じている。その理由を知りたくて、必死に情報を収集した。その結果ひとつの結論に到達した。ある時期を境に派手な女漁りを止めたことから、宍戸にはある不滅の恋人がいて、数年前に別れたその女のことが未だに忘れられないのだと。オルペウスは最愛の女性を失った哀しみから立ち直っていないのだとすると、身体を捧げた自分は一体何なのだろう! エウリュディケーのことを忘れさせることができるのか、それとも自分は無価値なのだろうか? みどりは謎の女との関係を探るべく遣わされた探偵となった。

 

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