第四章
みどりは宍戸と付き合うようになって、指揮者という稼業がどんなものか初めて知った。指揮者の魅力はわかりやすい。オーケストラの奏者を前にして、自分が棒を振り下ろさないと音楽が始まらない。自分は音を出さないのに、合図だけでテンポを決めていく。どの奏者もひとりでは交響曲のある一片の音しか奏でることはできないが、指揮者だけが全ての音符を掌握している格好だ。ひとりだけ高い台に立って、見下ろして自分の手足のようにオーケストラを操るのは快感に違いない。一度でも足を踏み入れてしまうと抜け出ることができないヴェーヌスベルクのような恐ろしさを持っている。
世間一般が思い描く指揮者像は華やかで音楽会の主役というものだろう。それは一流のコンサートホールやテレビで見る最高級の指揮者の姿である。オーケストラが舞台に登場した後、最後に舞台に現れ、拍手を一身に浴びる姿は誰もが憧れるだろう。そして、棒を一振りすれば百名で組織されたオーケストラが渾身の音を出すのだ。思いのままに奏者たちを操り、自在に音を重ねていくのは余程の才能と人望がないとできないことだ。終演後の拍手もまた、音を出さなかった指揮者にあたかも送られているように見える。しかし、間違えてはいけない。こういうスター指揮者はほんの一握りである。彼らの才能は桁外れで恐ろしく音感の良い耳を持ち、それを楽譜の上でも分析的に理解して言葉にする能力を持っている。さらにそれだけではスター指揮者にはなれない。コミュニケーション能力が高く、自分の望む音を理解させ要求に快く応じさせるという特殊な才能を持っていないといけない。奏者にも人格はあり、それぞれの性格がある。それを把握しつつ最良の手段で統率するのは並大抵のことではない。もしも、奏者が指揮者の勝手な要求に対して「ではお前にはできるのか?」という反感を抱いたらおしまいだ。指揮者は音楽的にも人間的にも優れていることが絶対条件なのだ。さらにそれ以上、歴史に名を残す巨匠指揮者ともなると、完璧を求めるために奏者らを最高の名手で揃えようとする。人事権をも握り、自分の望む音を出せない者をクビにしてすげ替える。トスカニーニ、フリッツ・ライナー、ジョージ・セルといったアメリカで活躍した指揮者がやったように。失敗が許されない恐怖政治を敷くことで初めて得られる究極の音楽もあるのだ。
だが、このような神と仰がれる指揮者は伝説の中に存在するのみだ。一流の指揮者でもこうはいかない。打ち合わせ程度のリハーサルで本番に臨めるような一流オーケストラを振ることは夢のまた夢だ。五十人以上で成るオーケストラに対して指揮者のポストはひとりだ。良い指揮者はどこからも声がかかり、中途半端な指揮者はどこからも呼ばれない。弱肉強食の世界で、一部の実力者のみが独占する厳しい世界なのだ。それでも日本はアマチュア・オーケストラの活動が盛んで、指揮者の需要は多い方だ。ただし、アマチュア団体から支払われる謝礼金はお小遣い程度で、職業として成り立ってはいない。彼らの中で安定した生活を送れるのは教職に就いているなど本業を別に持っている場合に限る。
宍戸はこのアマチュア・オーケストラを舞台に活動する指揮者なのだ。現在はプロのオーケストラを振ることはないが、かつてはプロを相手に活躍していたそうだ。まことしやかに語られる噂では、師匠に当たる大指揮者の愛人を横取りしてしまったことが原因らしい。宍戸が仕掛けたのではなく、愛人が唆したらしいが、巨匠の逆鱗に触れて完全に干されてしまったようだ。ある時を境に、安定した地位にあった某音大の教職から放逐され、付いていた事務所からも見放され、それまで振っていたプロ・オケとのパイプも失ってしまったのだから真実なのだろう。出世街道から完全に外れてしまってからはアマチュア・オーケストラを主戦場として一から出直すことになった。みどりはどんな有名な指揮者よりも贔屓目なしに宍戸の方が格上だと思っている。実際に大指揮者の棒で演奏したこともあったが、不感症なのか何も感じなかった。不明瞭な汚い声で喚き、不格好に腕を上げ下げしているだけの爺というのが正直な印象だった。宍戸が不遇をどう思っているのか訊ねたことがあった。
「音楽はね、楽しくやるのが一番さ。僕はね、ミューズの神に見放されてなんかない。醜いポスト争いとは無縁なのがその証拠だよ。僕が追放されたのは、才能を妬まれてのことさ」
「でもあの噂は?」
「ハニートラップだよ。僕に地位を奪われる不安を取り除きたかったのさ」
犬の遠吠えのような気もしたが、半分は真実のような気がした。
「今は楽しいの?」
「ああ、楽しいよ。どうすれば音楽が楽しくなれるかわかるかな?」
すぐには答えられないでいると、スーツケースから一冊のスコアを取り出し、最初のページを開いてこれだと示した。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」第一曲目「キリエ」の冒頭に掲げられた言葉が見えた。
心より出で、願わくば再び、心に入らんことを。
「わかるかな? 僕の大好きな音楽に共鳴して皆がさっきよりもいい音を出してくれたらそれでいいのさ」
大方の予想と違って、宍戸は転落を好機としてしまった。指揮者の世界では三十代などまだひよっ子扱いで相手にされない。言うことを聞かないオーケストラを振るときの疎外感は尋常ではない。それがアマチュア相手となると俄然面白くなる。上手な集団もあれば、下手糞な集団もある。どちらかというと後者がほとんどだ。弾けない者たちを弾けるようにする魔法を使う楽しさはプロ集団を相手にしては味わえない。下手な奏者たちの力量よりも多くを引き出し、実力以上の演奏をさせて彼らの成長を眺めるとともに、初めての体験をさせてやることで尊敬と感謝を得ることは愉快であり、生きる糧となった。
みどりは魔法の棒の秘密が知りたかった。下振りに来る駆け出しの指揮者の退屈極まりない練習との差が何なのかを訊ねたことがある。
「何事も経験が必要だ。僕も最初は酷かったさ」
「そうなの?」
「ああ。でもね、指揮者は確実にチャンスをつかんでいかないと駄目だ。それができない奴はすぐに消える。当たり前だけど、前提として指揮者は間違えてはいけない。間違えを正す役割なのだからね。常に完璧であることが求められる。棒が綺麗で意図が伝わり、的確な耳を持ち合わせていれば次第点。奏者らの機嫌を損ねることなく演奏内容が向上していけば優良の認定が下される。それを倦むことなく続けられれば一流となる。指揮者は世渡り上手でないとなれないよ」
「最初は緊張した?」
「そりゃそうさ。五十名近くが初めて指揮台に立つ者の棒を意地悪そうな目で注視しているんだ。勿論、スコアは誰よりも深く読み込んで行ったつもりさ。でも、人前で棒を振るのは始めてだ。棒の練習はできても、指揮台での振る舞いは練習できないんだよ。僕にとっては初めてのチャイコフスキーの第五交響曲でも、奏者たちの中には十回以上も弾いた者もいて、練習も合わせれば百回も弾いたフレーズだ。中には巨匠の棒を知っている者もいる。そんな立ち位置で不用意に『もっと歌うように』なんて軽々しく言えないものさ」
宍戸は続けて安易に指揮者になりたがる人間が多過ぎると漏らした。件に述べたように、華やかな指揮者像の幻影に騙されてしまったか、音楽全体を掌握する存在になりたいかで、奏者から転身する者が絶えない。だが、そのほとんどがオーケストラの狼たちの餌食となる。軽卒な思いで指揮者になった者の顛末は語るも無惨だ。
「大ちゃんの指揮は何が違うんだろう? 何か魔法があるんでしょう?」
「僕は魔法使いではないよ」
「じゃあ、他の指揮者に欠けているのは何?」
「顔だよ」
「え? 顔?」
「そう、僕は顔がいいだろう?」にやにやして答えるので冗談なのかわからなかった。
「本気?」そう言うと二人は大笑いした。収まると宍戸は真顔で言った。
「でも顔は重要さ。指揮者に大事なのはバトン・テクニックだという者もいる。勿論だ。棒が下手な奴、軽視する奴は大成できない。耳の良さとだという者もいる。当たり前だ。誰よりも耳が良くなければ指揮者になろうなんて考えてはいけない。作曲家並みに楽譜に精通し、音楽を誰よりも深く知っていることだという者もいる。その通りだ。指揮台に立って偉そうに指示するのだから、勉強は完璧でなくてはならない。だけどね、もっと重要なことがあるんだ」
「顔?」
「そう、顔だ。言い換えれば指揮台に立つ心意気だ。居るだけで音を変えるつもりで僕は指揮台に登る。斜に構える奴らをも魅了して違う世界に連れて行ってやるんだ。だから、顔ができていないといけない」
うっとりと話を聞き入る姿に満足しながら、冗漫に魔法の棒の秘密を少しずつ語りだした。宍戸が使った魔法は幾つかの要素が絡み合っていた。指揮者は自分では全く音を出さず、指示を出すだけだ。奏者の間違いを指摘し、こちらの要求を伝えるのが仕事だ。だが、奏者にとって注文をつけられることはあまり心地良いことではない。できることなら一言もなく、ただ頷いて、それでよいと合図してくれるのが一番だ。度々矯正しようとしてくる指揮者と奏者はぶつかることになる。尤もな指摘は従い易いが、単に好みの問題や押しつけであると感じる場合は反抗的になることもある。とはいえ、暗黙の了解でオーケストラは指揮者の言うことに形式的に従う。手前勝手に振る舞う者はオーケストラ内部でも良しとされず、奏者間でも不協和を起こすものだ。それにどんな要求にも応えられるのが上手な奏者の証拠でもある。だから、指揮者には上辺の顔だけ見せて、底では不平不満を溜め込むことになり本音を語らない。指揮者とは孤独な存在なのだ。楽団の半数から嫌われたらもう呼ばれることはない。有り体に言えば、三行半を下され、実質クビの宣告を受ける。立場上奏者に注文をするのが仕事なのだが、うまく立ち回らないと敵を増やし、やがて追われる。だからと言って取り入っておもねるような者はそれ以上に嫌われる。向上心を与えてくれない指揮者や、問題点を放置する指揮者は仕事を放棄しているに等しいとして、軽蔑されるからだ。臆病で強く振る舞えないと、音楽上の問題点を発見出来ない指揮者と大差ないと思われても仕方がない。どちらも役立たずなのだ。オーケストラは様々な人種が啀み合いながら成立している野蛮な集団なのだ。十人十色のわがままを一身に受け止めることが出来る指揮者のみが生き残ることが出来る。
駆け出しの指揮者ほど自分の要求ばかりをしてしまう。舞い上がって冷静な耳を失ってしまい、自分のこだわりを伝えたいばかりに、ほぼその通りに出来ている箇所を練習するという愚挙を行いがちだ。それよりも、うまくいっていない箇所をどうすれば改善出来るかが優先なのに、直面した混乱状態をどう収拾していいのかがわからない。宍戸はヴァイオリン奏者だった若い頃に勉強を始めており、たくさんの指揮者を眺めて研究した。音の変わる瞬間を探求した。発見したのは、問題になっている箇所の原因を間接的な方法で呈示することだった。下手を下手と責めても上手くはならない。間違っていると指摘しても大きなお世話だ。「正しく演奏するように」と指示することの馬鹿さ加減はない。だが、これは愚鈍な指揮者がつい口にすることである。リズムを正確に! 音程を正しく! テンポを守って! 細かい音符を正確に! こんな身も蓋もない指摘では演奏は決して改善されないことに宍戸は気付いた。リズムの悪さは音価で示唆した。音程の悪さは調性や和音進行を絡めて意識させた。テンポの悪さは音楽が向っている先を示すことで見通しを改めさせた。細かい音符が連続するときは大事な一音に注目させて進歩させた。宍戸の魔法とは悪い点を指摘し楽譜通り正しく演奏しなさいと言わないことに尽きた。その代わりに、別の視点から改善の糸口を示唆した。奏者たちは悪いと言われた訳ではなく、次の点に注意して演奏するようにと言われただけなので素直に従う。その結果、効果覿面で音に変化が訪れる。そんな時、楽団員たちの感心した表情にしてやったりの思いとなる。取り分け、一方が上昇音型で情熱的に前のめり、他方がカデンツを伴う退行音型でかみ合わないときのアンサンブルを整えた時はよい仕事をしたと感じる。楽器の音量のバランスも欲求不満にならないように絶妙に調整もした。演奏者の技術が追いつかず、すぐには解決方法の呈示できない箇所は適宜先送りした。また、曲の最初から逐一手を入れない。まず直すべきところから着手する。それも効果が出るところから手術を行う。だから常に練習の最初は全体の見通しのために止めずに流すことをする。これはいつ本番が来ても流れることが可能かどうかの確認になるので重要だったし、奏者らを安心させることにもつながる。細かく中断しながら練習する指揮者は見通しに不安が残るし、奏者たちも音楽をしているよりも作業をしているようで嫌になる。また演奏している時間を確保するため、中断して説教をする時間をどんどん減らした。棒を振りながらリズムや音程に乗せて指示を歌った。「レッジェーロ」「ドルチェ」「ペザンテ!」と表情を付けて声を発する。どうしても言葉で説明しなくてはならない時だけ演奏を止めたが、その回数を減らすべく顔の表情も付けて全身でメッセージを出した。
こうした研究と経験の蓄積が宍戸の魔法の秘密であり、奏者たちの責任を巧妙に逸らし、提案や鼓舞で乗せて、練習の終盤では見違えるように良い音を引き出した。名指揮者なら当然持ち合わせているものかもしれないが、絶望的に下手なオーケストラでも見下さずに最良の演奏をさせてから帰る姿勢は賞讃されてよい。みどりが初めて宍戸の棒で演奏した時に感じたのは、手を差し伸べてくれ一段高いところに引き上げてくれた快感だった。
宍戸はアマチュア・オーケストラでは最も有名な指揮者になりつつあった。女癖さえ悪くなければもっと活動が広がったはずだったが、音楽と同じくらいに女が好きだった。注目を一身に集める指揮者という立場はそれだけでも女にもてた。音楽性も容姿もおしゃれも抜きん出ていたので女に困ることはなかった。寄ってくる女もいれば押せば簡単に落ちる女もいた。音楽と同様、その時の最良を求めるのがポリシーなので決まった女に固執せず、刹那的な情熱の発露を重視した。各オーケストラに女がひとりかふたりはいるとも言われていたが、女の方がそれで良しとするとは限らずしばしば揉め事になった。手癖の悪さを問題視され働き口を失った。だが、次の仕事はすぐに埋まった。そして増減によって女の数には変化がなかった。
さて、そんな宍戸だが数年前を境にぱったりと女に手を出さなくなった。宍戸を昔からよく知っている者の証言によると、時を同じくして音楽はかつての自信に満ちた勢いはなくなり、理知的な深みを帯びて信頼度は更に増したようだという。その引き換えに最近はようやくプロのオーケストラからも声がかかるようになって仕事の幅も増えてきたそうだ。みどりは宍戸の女にはなったが、気を許されていない。その証拠に宍戸の家を知らない。抱かれるときはホテルかみどりの部屋だ。女漁りを止めたとはいえ、他にも女がいるという疑いはいくつかの証言から捨てきれない。連絡がつかない夜もある。だが、強く確信するのはどの女も本命ではなく、単に寂しさを紛らせる存在に過ぎないのだということだ。昔からそうだったのかもしれないが……。そして、確実に忘れられないエウリュディケーの存在が見え隠れしている……。
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