ピュグマリオーンとオルペウス

 

第八章


 みどりは宍戸との関係をずるずると続けていた。別れようと提案すれば、「君が望むなら……」と簡単に切られそうだった。つくづく男運がないと嘆いた。みどりは気心の知れた友人らに悩みを相談したが、宍戸の枯れた変貌振りへの驚きが第一声だった。そして、一体どこがいいのかと詰問される。これまでの男とは違って才能があり顔も良く年上の魅力もあったし、開けっぴろげな性格なので、夜の営みが素敵だということも告白した。問題は好きの度合いがみどりばかりが強過ぎるということだった。周囲の忠告はたまには少し冷たくするのがよいとか、刺激を与えてやることが大事など様々だったが、逆効果としか思えなかった。誰も宍戸のことには興味がないのかこの話題は広がらず、寧ろみどりの過去の男の話の面白さに移行して落ちがつくのだった。真剣な悩みは歓迎されず、結局どうしたらいいのかわからなかった。
 ある時思い切って疑問をぶつけたことがある。
「ねえ、昔はいっぱい女の人いたんでしょう? 今はどうして興味がなくなったの?」
「もう四十三になるんだぜ。落ち着いたんだよ。面倒なことから遠ざかって、いつまでも記憶に残るような仕事をする気になったんだよ」
 あらかじめ用意されたような答えに不信感すら抱いた。指揮者は安定した仕事ではなく、もしも病気をして振れなくなったらたちまち困窮する。きりぎりすのような生活をしてきたので蓄えなどなさそうだ。週末の過密なスケジュールだけで生計を立てるのは難しいだろう。最近はプロのオーケストラへも活動の場を広げてきたが、収入が安定するのはまだ数年先だろう。
 それでもみどりは都合の良い女であり続けた。都心のマンションに住んでいるのも好都合だった。練習の多くは都内で行われるし、会食の場も豊富で、気軽にみどりの家に行くこともできる。とはいえ、家に来ることは滅多になかった。宍戸との連絡が取れないときは都から離れた地方に行ったときで、帰宅しない場合が多い。出張先で羽目を外したい気持ちもわかったし、探りの連絡を入れてくる女を快く思わないのもわかっていたので連絡は控えた。それに、たまにしか会わない地方の女と比べれば毎週必ず会っているみどりの方に分があった。
 醒めた宍戸と惚れ込んでいるみどりの内面を知らなければ二人の関係は決して悪いようには見えなかった。しかし、みどりにはひとつだけ超えられない壁があった。宍戸の家に入ることが出来ないのだ。宍戸が頑として許さない。理由は誰も入れたことがないというのだった。非常にナーバスな話題で絶対に家には近寄らせなかった。何度も抱いた女を入らせない部屋には何か秘密があると直感で見抜いた。これまで情報を集めたがなかなか真相に辿り着くことができずに絶望していたが、矢張り鍵は家にあると確信するようになった。そこに女がいる可能性もあるが、それにしてはみどりと過ごす時間が多過ぎるので想像ができなかった。
 家にもぐりこむにはどうしたらいいか智恵を絞ったが、全く思いつかなかった。実は付き合い始めて数ヶ月は住所もわからなかった。ある時、宍戸がホテルでシャワーを浴びているときにいけないとは思いつつも半開きになっていたスーツケースの中身を見た。仕事の書類だろうか、郵送されてきた封筒があった。そこに住所が書かれてあったので容易に知れた。横浜に住んでいるくらいは知っていたが、詳しい住所までわかった。みどりは綿密な計画を立てて押し掛けることを強行することにした。折しも忘年会シーズンであり、横浜で遅くまで飲んだことにして、帰れなくなった態を装うのだ。真冬の夜空に震える恋人を家にあげない男がいるだろうか?
 決行の日が来た。日曜日の夜で、宍戸は横浜方面での稽古が終わってもう帰宅しているはずだった。明日の予定が何もないことも考慮にいれた。わざわざ深夜になるまで友人らとの予定を作って飲んだ後、終電で横浜に向かい家の近くまで辿り着いた。一応、様子や機嫌を窺うために電話をしてみたが、普段と変わらないのでひとまず安心した。
「大ちゃん、あのね、電車反対方向に乗っちゃったみたいで終電がなくなっちゃったの……どうしよう」
「何やっているんだ。今どこにいるの? そっち行くよ。待ってて」
「ごめんなさい。実は大ちゃんのマンションの下まで来ちゃっているの……お願い、泊めて……」
 しばらく宍戸は無言だった。
「ごめんなさい。やっぱり帰ります」
「いや、構わないよ。寒かっただろう」
 計画は成功した。いや一歩前進としておこう。部屋の前に立ったときは流石に震えた。ひとつ間違えたら破滅かもしれない。部屋の様子は全く想像が付かなかった。宍戸はドアを開けて優しく招き入れた。機嫌を損ねていたらどうしようと不安だったが杞憂だった。
 玄関も廊下も余計なものがなく非常に清潔だった。広めのリビングも綺麗だ。なるべく大人しくしていようと思っていたが、独身貴族が築いた優美な大人の男の空間に思わず感嘆の声をあげてしまった。小振りのグランド・ピアノが壁際におかれ、両端には大きなスピーカーが一セット配置されている。書棚にはスコアが綺麗に並べられている。画集や美術館の図録もすぐに目を引いた。その反対側は快適なソファセットがあり、テーブルの上には大きめの灰皿があり吸い殻が積もっていた。宍戸はソファを示して座らせ、温かいコーヒーを入れてくれた。隣に座った宍戸は煙草を吸いながら言葉少なだった。みどりもコーヒーをすすりながら何だか気詰まりで一緒に煙草を吸って黙っていた。
「外は寒かっただろう? お風呂を入れようか? しばらく洗ってないから流してこないといけないけど」
「ありがとう。私やるから案内して」
 想像していたよりも家の中には秘密が少ないような気がした。部屋に戻ってきた時さりげなく部屋を観察した。ピアノの上にはヴァイオリンのケースがあった。
「ヴァイオリン?」
「ん? 僕はヴァイオリン弾きだよ。ヴィオラも弾けるよ。最近はピアノしか触ってないけどね」
 ソファに戻る際に唯一散らかっている仕事机の上が気になった。いつも移動に使っているスーツケースも机の脇で乱雑に開けられていた。机の上にはスコアが数冊閉じたまま積んであるのと、書きかけの五線譜が散っていたのが見えた。ソファに戻ったみどりは宍戸に訊ねた。
「ねえ、あれはこの前言っていた作曲中の曲?」
「ああ、あれね。そうだよ」
「進んだ?」
「この間から調子がいいよ」
「ねえ、見てもいい?」
 宍戸は決して快い顔はしなかったが、拒絶するのも大人気ないと思いとどまったのと、数枚のスケッチを見てもみどりには何もわかるまいと思ったから、単に仕事振りを見せるつもりで了承した。五線譜の束を取り上げ一枚一枚めくる姿を、煙草を吹かしながらソファに埋もれてぼんやり眺めていた。宍戸の予想通り、みどりはそこに書かれてある音符を再生することはできず、またどういう意図をもって音符が並べられているかを想像することもできなかったが、この作曲に秘密を解く鍵があるに違いないと直感していた。作曲をする動機がみどりだけでなく、何人にとっても謎であるからだ。しかし、必死で楽譜をめくったが何を見ているのか一層わからなくなった。そのうち速度や表情記号が書いてあるのが目に止ったので訊ねてみた。
「ねえ、これが曲の最初?」
 宍戸は遠目で見てそうだと答えた。みどりは最初の方に現れた主題が曲全体に展開されていることだけはかろうじてわかってきた。お風呂が沸いたようで、先に入りなさいとすすめてくれたので、楽譜を見るのはそれきりになった。風呂に入った所感では、この家に女が来ていないことは間違いないと思って、ひとまず安心した。洗面所にも女の必需品とされる物が一切なかった。これまで部屋に入れようとしなかった理由が全く持ってわからなくなった。風呂に浸かりながら、さきほどの曲についてもう一度考えてみた。主題は最初が付点のリズムでH〜Hと始まり、CDEと上昇するだけの単純なもので、この主題を展開して人を感動させる曲が生まれるとは到底思えなかった。シーシッドレミを分解して執拗にシーシッドのリズムが様々な展開をするような曲だったようでもあり、考えれば考えるほど腑に落ちなかった。こんな音楽に夢中になっているのだろうか。もう一度謎を整理しようと考えた。現在の有力な手がかりは門倉玲美しかない。風呂の中で何度かその名を唱えていると、思いがけないひらめきで我が身を苦しめることになった。宍戸と玲美の名が階名で表せる! 何ということだ。運命の女はやはり門倉であり、遠くハンガリーに行った女を忘れられず、曲の中に刻印し絡み合い、結合し婚礼をしようというのか。実に破廉恥で下らない。確かめようがないが、もし本当なら宍戸のうじうじした想いに嫌気が差す。思い過ごしであって欲しいと願ったが、自分の想念に取り憑かれてしまった。だが、みどりはもうひとつの線についても考えた。もうひとりの女がいて、その間で心が揺れているはずだ。だとすれば曲の中にもうひとりの女の名が刻まれているはずだ。シューマンやショスタコーヴィチのような手法で隠されているに違いない。だが、それをいつ調べることができるだろうか。 この後にチャンスは来るだろうか? 居ても立ってもいられなくなり風呂を出た。宍戸は寝間着を与えてくれ、寝室へと案内してくれた。自分はさらりと浴びるから寝室で待っていてくれと指示された。宍戸が風呂に入っている間に素早く楽譜の写真を取ろうと思ったが困難であることが予想された。案の定、寝室で逡巡してうちに風呂から出て来てしまった。そして、寝室にやってきた宍戸は突然電気を消すと、いつになく犯すように荒々しくみどりを求めてきた。みどりは不意をくらったが嬉しくもあり身を任せた。激しくされたことに強い喜びを感じてしまった。それが宍戸の匂いが染み付いたベッドの上であることにも。一方、宍戸の心境は誓いを破った自分の弱さに対する怒りに支配されており、凶暴で破壊的な情欲で忘我しカタルシスに至らないと済まなかった。二人の思惑は完全に食い違い、愛憎が倒錯して奇天烈に美しい二重フーガを奏でた。
 深い眠りから先に目覚めたのはみどりだった。冬の寒い明け方で隣で寝息をたてている愛する男に寄り添っていたかったが、寝起きが良く冷静だった。昨晩の思いつきを実行するのは今しかないと悟った。そうっとベッドから抜け出し、宍戸が熟睡しているのを見届けた。リビングに行ってスマホを取り出し、楽譜を撮ってしまおうと考えた。あとでじっくり譜読みして謎を解くのだ。夜が白み始めた頃で真っ暗な部屋で寒さに震えていた。みどりは机のそばのカーテンを開けて明かりを取り入れ、写真を撮り始めた。愛の調だと言っていたホ長調に転調している箇所を見つけた時は戦慄した。無事に全部撮り終えたが部屋を見回すとピアノの譜面台にも書きかけのものがあった。ピアノに近付いて行くとある違和感にとらわれた。ピアノの奥にも一面にカーテンがかかっている。しかも、こちらは非常に高級なビロードの厚手のものだ。壁一面を覆ったこのカーテンの奥も全部窓なのだろうか? あり得ないことだったし、よく考えたら角部屋でもない。第一、窓の前にグランド・ピアノを配置するだろうか? 昨夜はピアノが置いてある方は電気が消してあり暗くてわからなかったし、全体が貴族的に凝らされた意匠にただ感嘆していたので不自然さに気が付かなかったのだ。近くで見ると、カーテンレールが天井から下がっている。後付けのタイプで壁からも離れている。この後ろに何かある! みどりは端を引っ張ってその奥を開帳した。思わず息を呑んでしまった。奥にあったのは壁にかかった大きな絵画で丁度ピアノの上になるように中央に掛けられていた。みどりはピアノの前に立ち正面から絵を見た。
 キャンバスには等身大より一回りくらい小さい裸の女が寝そべっている。右肘で身体を支え、左手は秘部を覆うように添えられている。左足は右足首の上で組まれている。背中のクッションにもたれて、突き出すような形で胸が張られている。だが、一番引き寄せられたのはこちらを誘惑するように向けられた眼差しと妖し気な微笑である。女以外は僅かな調度品のみが描かれているだけで、ベッドの向きが躍動感を与えている。生きているような迫真の絵であったが、写真とは異なり徹頭徹尾絵画の手法であった。金に朱が混じった絢爛たる額も絵の雰囲気に合っていた。画布の左下の隅の暗闇にR・Kというサインが装飾的に入っていた。みどりは全てを察した。そして完全なる敗北感を味わった。若さではこの女に勝てるが滲み出る高貴な品位に圧倒された。熟れた果実のような甘い香りをも感じさせる高雅で官能的な趣に太刀打ちできなかった。宍戸はこの絵と暮らしている。この女に見つめられ続けたら気が狂ってしまうだろう。この絵を独り占めにしてこの絵の女と愛し合う姿は異常としか思えなかった。みどりは打ちのめされ秘密を知ったことを後悔した。そして、自分の男運のなさを呪いながら静かに立ち去った。

 

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