ピュグマリオーンとオルペウス

第七章


 木村は惚けたような日々を送っていた。日常が退屈極まりなく無意味に感じて仕方なかった。生きている実感を味わえるのは、週末裸のマハに加筆する時間だけで、仕事中も上の空、家でも妻との会話に身が入らなかった。妻も異変に気付いた。行動で一番変わったことはクラシック音楽のCDを買い込んで来て聴き出したことだった。その時の夫は阿呆のような表情で遠い世界に行ってしまっているようで不気味だった。仕事で疲れているのだろうと思って、休日くらいはしっかり休まないと体がもたないと忠告した。妻は毎週土曜日の午後は絵画教室に通っていると信じて疑わなかった。今年になってあまりにも熱心なのは仕事から逃避するためだと考えていた。以前は平日の夜に通っていたが、忙しくて行けないのだと解釈し、ガス抜きのために土曜日の絵画教室は不可欠なのだとひとり合点していた。出掛けるときの表情が喜びに満ち溢れているので、まさか制作が精神を蝕んでいるとは思いもよらなかった。木村はバルザックやゴーゴリやオスカー・ワイルドの物語のように人生を狂わせるような絵画芸術の落とし穴に引き摺りこまれていたのだ。
 制作は精神を擦り減らしていた。おいそれとは筆を運べず、慎重に加筆した。背景やシーツも気楽には描けなかったが、着実に画布は密度を増していった。キャンバスの大きさは着衣と同じF80であり、等身大ではないが、キャンバスの向うに見える大きさとはほぼ等しいので描きやすかった。構図は中央に肘をついて寝そべる久美を配置し、ベッドの全景を画面いっぱいに収めてきっているが、側面から描いたものではなくやや斜めから構図を取っているので躍動感がある。他に描かれているのは上半身側に上品なクッション、下半身側には背後にある優美なテーブルと電灯で全体のバランスも絶妙だった。最も重要なのは乱れたシーツで画布の正面に見えるベッドの角が隠れており、錯覚で広がりを演出しているのが絶妙だった。左足を右足に乗せ、左手で秘部を覆い、上半身をクッションにもたせながら右手の肱で体勢を支えている。顔は右を僅かに正面にして視線はこちらに問いかけるように投げかけており、ウルビーノのヴィーナスの構図とは顔の向きが異なっていた。優美な微笑みが観る者を誘っているようだ。着衣の肖像では赤の色味が多かったが、こちらは肌の白が際立っている。シーツの純白さとのなだらかなグラデーションも美しい。その他の要素はベッドやテーブルの木目の茶色ぐらいで背景も褐色を基調とした。制作は着実に進んだがかつてない疲労を感じていた。
 待ちに待った久美との約束の日が来た。木村は記憶と想像だけで制作を進めていたことへの不安を感じていた。完成度を考えるとやり直しの行程は皆無にしたい。描き直しは著しく画布の透明性を損なうからだ。もしも実際と異なる箇所があったらどうしようと恐れていた。
 久美もまた説明のしようのない不安を抱いていたが、木村以上にこの日を待ち遠しく思っていた。久美は画家としての木村を一点の曇りもなく信頼していた。木村は職業として絵を描いていない。ただ芸術の為だけで描いている。その姿勢に考えさせられていた。無償の奉仕が貴かった。しかし、一方で臆病で慎重過ぎた。木村の胆力は讃嘆の的だったが、息苦しかったことも事実だ。そして、どこか堅実であり、破滅的な誘惑とは無縁であった。それは女に見知らぬ世界を持ち込んでくれる男、例えば冒険者や海賊のような魅惑を持っていないということだった。女は女の世界観の中で考えれば、堅実であることを幸せとする。だが、囲いの中で過ごすことの多い女にとって外の世界へと誘拐していこうとする男の登場に人生を賭けるときがあるのも真実である。木村は最初のうちはそういう存在だったが、逢瀬を重ねるにつれて冒険で発見するものが減っていった。久美は自分に呆れるとともに、思い切って略奪を働かない木村への不満を芽生え始めさせていた。だが、密かに暗い情熱で自分の衣服を勝手に脱がし、リビドーを画布に封じ込めているのを見て、戦慄と官能的な喜びの反応をおこした。新しい世界へ冒険出来ることを喜び、自ら船に飛び乗り、帆を上げて海原へと漕ぎ出した。出航前に木村に制止をかけたが、それは禁じられることで情欲を更に強め破滅まで突き進んで欲しいという願望が含まれていた。猟奇的な倒錯でもあり、あの日乱暴に襲われてもいいとまで考えていた。しかし、そうはならなかった。木村がどんな人間であるかの結論を出すのはまだ早いと言い聞かせたが、優等生として生きてきた久美にとって道を踏み外しても自分の殻を打ち破る体験をしたかった。生まれて初めてのことだが、この一ヶ月間裸を綺麗に見せるための努力をし、自分の体を点検した。キャンバスの中の自分は神話に登場する美神のようだったが、鏡に映る自分は歳相応にしわやたるみがあった。普段気にもとめなかった爪や毛にも注意し綺麗にした。いつ抱かれてもいいように。
 それぞれの想いを胸に秘めてふたりは部屋に入った。木村はイーゼルを立ててからすぐにキャンバスを置かず、他の細かな準備を行っていた。これまでと違っていきなり服を脱ぐよう促すのは気が引けた。久美は木村から言って欲しかったが悩みも察した。ブランデーを口に含むとまず音楽をかけた。
 部屋の中にチェロの跳躍が迫り管の不協和音が鳴った。そして解決音が響くことがなく、次々と不協和音が連鎖する。久美が選んで来たのは「トリスタンとイゾルデ」だった。木村はホルンの懊悩を合図に画布を取り出した。構図と調度品の配置が狂っていないかを確認し、シーツの乱れを可能な限り再現した。裸のマハを示し、今日はこちらだけを描くと宣言した。久美は頷き、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。全ての下着を外し全裸になったが、もう胸を隠すことはなかった。ベッドに身を投げ見事にポーズを再現した。ブランデーで紅潮した頬が色味となって華となった。髪を解き肩にかけた。
 ヴァイオリンが絡みながら音楽が上昇していくと、ふたりの全身が熱くなった。肌に筆が入った。集中力と精神力が持続するうちに顔の表情を描き込みたかった。最初に頬の赤みを添えた。ぼかして伸ばしていく。目元には慎重に黒を入れる。口元が難しい。一瞬の微笑みを永遠にすべくぼかしで確かめながら浮かび上がらせる。だが、一度油が広がった部分は手を付けられない。色が濁ってしまう。ある程度は進んだ。焦ってはいけない。次に首筋に移る。顎で出来る影と肩に当たる光との落差が大きい箇所だ。大胆かつ繊細に効果を考慮して作業を進める。暗くし過ぎると取り返しがつかないから全体を見てから慎重に加筆する。肩から腕は迷いなく描けたが、繊細な指の表現は迷っていた。木村と久美は相談して指の形を決めた。今回だけでは完成に至らず、乾いてからの作業が必要だった。次いで胸元へと木村の視点は移った。久美のとったポーズは胸が流れず、最も大きく見える姿勢であった。しなやかな曲線の奥に幾筋もの血管が緑で彩模様を織り成している。呼吸するたびに胸が落とす柔らかな影が動く。前回はあまり進まなかったが今日は目覚ましく完成に近付いたのが胸元だった。出来ることならその感触も確かめ、柔らかさを手に入れたいと願ったことを口に出すことはなかった。一旦休憩を挟んだ。久美はバスローブに身をくるみ、いつものように紅茶とお菓子とで談笑を楽しんだ。その後、くびれと下腹部の膨らみからお尻へと筆は進んだ。シーツとの境界は難儀したが、これまでの模写の経験が活かされ、上手に仕上げる自信があった。最後に足へと移った。太ももがこんなにまで真っ白で美しいことに前回は気付かなかった。
 イゾルデの愛の死が静かに閉じて部屋全体が無音に包まれ、ふたりは今日という特別な日が終ったことを告げられた。外はまだ明るく、夏の静かな夕映えの時間が過ぎていく。ふたりは並んでキャンバスの前に立った。会心の出来であった。木村の放ったエロスの矢は確実に久美の胸を射抜いていた。寄り添うように木村の腕に触れていた身体からこれまで感じたことのない女の性的な匂いがして、危うく禁制を破ってしまいそうになったところに、寂しそうな久美の言葉によって踏みとどまることができた。
「先生、あと何回かで完成なの?」
「そうだね。絵はいつまでも完成しない芸術だけど、だからこそ期限を決めた方がいい。あと二回だ。でも……僕たちの時間が永遠に続けばいいと思っている……だけどいつか僕たちは日常に戻らないといけないんだね……」
 久美はそれには答えずに服を着替えに行った。オーボエが主導する最後の和音がいつまでも脳裏に鳴っていた。ふたりは形容しがたい侘しい感情を秘めたままホテルを後にした。
 次の逢瀬までに加筆を重ねていったが、前回の休憩時に交わした会話のことを思い出していた。
「僕は不思議に思うんだ。顔に筆を入れて赤みや影を作って行くとき、お化粧をしている感覚になる。そう考えれば女性はみんな偉大な画家になれる技量をもっていると思うんだ。勿論、化粧が下手な人はいるさ。マニュアルを真似ただけで自分に合っていない化粧をしている人もいる。センスは重要です。けれど多くの女性は画家になれるほど上手に化粧ができる。僕が目の周りに線を入れたり、頬に赤みを添えたりするのと、女性がアイラインを引いたり、チークを入れたりするのと何が違うのかな? 女流画家はまだまだ多いとは言えないし、女性の美を讃えるのは男の領分のようで不思議なんだ」
「先生、面白い意見ね。女の私は化粧が絵画と同じなんて考えたこともないなあ。毎日するものですし、上手くいくときも失敗するときもあるの。芸術ではなく、家事や仕事の領域だと思っているといえば伝わるかしら。確かに先生が言うように化粧の技術は絵画の技術に転用できるかもしれないけど、私はもっと根源的な理由で女性が画家に、すくなくとも女性美を描く画家にはなれないと思うの」
「おや、それはどうして?」
「女は自分の醜いところを隠して美しく見せ、男性の気を引くために化粧をするの。いえ、男のためだけではなく、自分の弱いところを隠すためもある。自信というか安心を得るために化粧をしているんです。他の女を美しくするなんてことは自分の立場を相対的に貶めるだけなんです。女は女の美しさに興味はあります。でもそれは自分を美しく見せるための手本としてだけ。女の美しさを純粋に楽しんでいるのは男であり、男性が追求する女性の美に比べたら女は真剣味が足りませんよ」
「なるほど、そう言われるとよくわかる気がする。では男はなんで女性の美を追求するのだろう?」
「それは……永遠の謎ですね。でも先生の言う美の追求は芸術家のそれですよね? 男が女を求めることとは一緒ではないですよね?」
「どうなんだろう? 欲望のために女を求めることと、芸術でエロスを追求することとの間に境界を引くのは傲慢だと思っている。純粋な美を表現すると言ってもエロスを伴わなければ、芸術として何かが足りないのではないかな? 優れた芸術の定義が未だにわからないし、そもそも美とは何かを定義することなんて遠大過ぎる。真であり善であるものの定義も僕には怪しい……」
「では、先生は私を描いていてエロスを感じてくれているのね?」
 この問いにはすぐに答えられなかった。木村は言葉がどう響くかを前もって考えてしまう性質だった。その性格のために影響力と信頼感があると高く評価されていたが、人生を幸福にするものとは限らなかった。
「自分の絵を客観的に見るのは難しいよ。はっきり言えるのはこれが最善だと思って描いているということだ」
「……そうね。絵の解釈は観る人各々が決めるものですものね」
 芸術の深遠を語り合った得難いひとときを思い出して狂おしい情念に苛まれた。かすかなぼかしのためにキャンバス上の胸元や足を指でなぞり、このままこの似姿に命を吹き込むことができたらと倒錯的に思うのだった。その結果、絵は生きているように艶かしく呼吸をし始めた。
 次の制作日が来た。真夏の恐ろしく暑い日だった。待ち合わせ時間はいつもの午後一時である。照りつける太陽の熱から逃れる術もなく、道路の照り返しの挟撃もあって僅かな時間でも体力を奪われる真夏日だった。倉庫で汗だくになって苦しくなったのでタクシーで移動してホテルに乗り付けた。少し早く着いたので汗を拭って準備を整えることができた。部屋の中は空調が効いて快適であった。
 久美は時間通りに到着したが、服が張り付くほど汗をかいていた。部屋に来るなり気怠く声を発した。
「先生、私シャワーを浴びさせてもらいます。このままじゃ嫌なので」
 木村は落ち着かなく部屋を歩いていたが、久美はさっぱりした顔をして気を取り直して出て来た。大胆にもタオルを手に持って裸のまま部屋に戻ってきて、手にはCDを持っており木村に差し出した。
「先生、今日はこれをかけてください」
 木村は言われたまま音楽を流し始めた。独奏ヴァイオリンの艶かしい音楽だった。
「これは何て言う曲?」
「サン=サーンスの『大洪水』という曲で、その前奏曲です」
 音楽は次にショーソン、ラヴェル、フォレ、ルクーと移りフランスの香り高く、もの思わし気な音楽を集めていた。決して泣き叫ばず、羽目を外して享楽的に歌わず、節度をもって語りかける音楽ばかりである一方、底なしのエロスを秘めていた。木村の気分もまた久美の曲線美をなぞるように音楽に委ねてみた。シャワーを浴びてほんのり血の気を漂わせており、髪の毛の先は水が付いた生乾きの状態で、何とも官能的な湯気を立ち上らせていた。気怠い昼下がりであったが、ふたりの共同作業は非常に捗った。前回思うように進められなかった箇所も線や色が乗って落ち着いてきた。顔も慎重に加筆した。シーツは毎回違うので悩みどころだが、新しい着想があると微調整をした。休憩になるとこれまでになく久美はおしゃべりだった。何だか初めて会ったころよりも生き生きとして明るくなった気がした。単に慣れて気を許しただけだと思っていたのだが、今日の様子からは人が変わったと言ってもいいくらい、自信に充ちた大胆さがあった。真冬に出会った時は自分を押し殺して、与えられた役割、美貌を備えて礼儀正しく仕事のできそうな女としての像を演じているようだった。今では言いたい事をなんでもはっきり言うようになったし、自分を飾らずに話すことも厭わなかった。
「私この前ね、男の人から告白されちゃった」
 木村は急に気が気でなくなった自分に気付いた。
「へえ、どんな人?」
「それがね、二十代で私より十歳も若いの。背は高くて悪くないんだけど、ちょっと顔がね。それに仕事ができる自慢をしてくるけど、少し話すとわかるのよ。大して男でなかったかな」
「言うねえ。どこで知り合ったの?」
「ええと、仕事のつながりで……。私ね、包み込んでくれるような人がいいの。年下はちょっと」
「久美さんは理想が高そうだから、贅沢を言っていると機会を逃すよ」
「そう、私ってそう見られるんです。でも実際は悪い男ばかりに引っかかっていつも辛い思いばかり。全然理想は高くないですよ。私こう見えて意外と流されてしまうんです。でも今は自分の嫌だった殻から抜け出せたようで、自分のしたかったことが出来始めているようなの……。生まれ変わったというには早過ぎるかもしれないけど……。全部先生のお陰だと思っています。感謝しています」
 木村は真意を探りかねた。謙遜して返事をしたが、久美が微笑んでモデルの再開を促したので、対話はここで途切れてしまった。その日の加筆で顔以外はほぼ仕上がった。顔は慎重を要するので次回に持ち越して奇蹟が舞い降りるのを期待して絵筆を置いた。
 久美はベッドから飛び降りると、もう一度シャワーを浴びると言い出して一糸纏わぬ姿でバスルームへと消えていった。服はバスルームに置きっぱなしだった。CDなどが入った鞄だけがテーブルに置かれていた。扉越しにシャワーの音が聞こえるだけの静かな室内に、電話の着信を知らせる振動が寂しく響いた。久美の携帯だ。振動が長かったので立ち上がって何気なく鞄を覗いた。CDケースが引っかかったのか、皮財布が開かれた状態になっているのが目に入った。何となくいけない気がしたが誘惑に逆らえなかった。見えるだけの部分を覗き込むように見た。財布のカード入れから免許証の上部が見えた。木村は違和感を覚えて注視してしまった。
 氏名が門倉玲美とある。取り出して写真を確かめるようなはしたない真似はできなかった。だが、久美は久美ではないという疑念が植え付けられた。どういうことだろう? 確かに本名は教えてもらっていない。名字すらも。本当の名前は門倉玲美なのだろうか? 足場が崩れるようにくらくらした。椅子に崩れ落ちるように座って懊悩していると久美が服を着て出て来た。ぐったりしている木村を見て心配そうに声をかけた。
「いや疲れたんだ。大丈夫。それより着信があったみたいだよ」
 まだ心配そうにいたわるように視線を送っていたが、携帯を調べ出した。
「もうこんな時間なのね。まだこんなに明るいけど」
 木村はどう答えてホテルを後にしたか憶えていなかった。動転していた。いろいろな疑念に苛まれた。最初から久美には謎があった。決して語らない秘密があることを感づいていた。それを調べても知ってもいけないことをわかっていた。そんなことをして何になろう。自分は久美の全てを描いたようだったが、実は何も描いていなかったのかもしれない。無力感に襲われた。しかし、それ以上に木村は絵画芸術の魔物に捕われていた。この絵が完成したとき魔性の女の秘密が解き明かされ、魂を奪われ生命を失うような気がした。

 

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