第三章
木村は究極と思われたヤン・ファン・エイクの模写に限界を感じつつも一定の成果を収めると、心持ちの変化を感じるようになった。そろそろ自分の作品に挑戦してもいいのではないかと。それには別の契機もあった。模写を始めてからずっと世話になっていた額装屋が廃業してしまったのだ。閉店前に知らせがあって駆け付けると漆黒に金の装飾を加えた絢爛たる額を処分価格で譲ってくれるという。これまで木村の道楽を応援してくれた額屋のマダムとの別れの記念となった。これまでは絵に合わせて額を選んできたが、今度は額が最初にあり、この額に相応しい絵を入れたいと思うようになった。この額が喜ぶのは美しい女の肖像しかないと深く思い込むようになった。
絵画展を観に来てくれる人々も一様にオリジナルの作品を期待している。女をモデルにして肖像画を描いてみようと考えた時、真っ先に妻のことを考えた。最大の理解者である妻だが、絵のモデルにすることには決心がつきかねた。妻は色黒で肌が綺麗とはいいかねた。顔は愛らしく大きな目は美しかったが、髪は手入れが行き届いているとは思えなかった。服装や化粧に対する興味を次第に失ってきているようで、少し不満も感じていた。妻には申し訳ないがこれまでの模写で培った技法を発揮したかった。神々しいほどの透き通るような美しさを具えた女性を描きたかった。素材の力も必要だと感じていたのだ。だが、妻だけでなく、周囲にはお眼鏡に適う女性はひとりもいなかった。そんな悩みは誰にも相談できず途方にくれていた。無礼極まりないし、女性全てを敵に回してしまう。
芸能人や雑誌モデルの写真にはうっとりするような美しさを感じることもあったが、それらを描くことには何となく抵抗があった。顔と身体が綺麗だから描いたと説明はできるが、よく知らないし好きでもないモデルの写真を相手に一年間描き続けるのは引っ掛かりを感じるのだった。本物のモデルを使って描いてみたいという希望を先生にぶつけてみた。先生は主に写真撮影を生業とするモデルを紹介している業者もあるから問い合わせてみるといいとアドヴァイスをくれた。早速インターネットで検索してみて、ホームページを調べた。なるほど若い男女のモデルが沢山登録されており、依頼をもちかけるのは現実的にできそうだ。だが、それなりに美しい女性もいたが、魂を奪われるほどの輝きを放っていなかった。これなら有名芸能人のポートレートを使用した方が満足できるし安価に済む。単に容姿が良くてモデル業をしているだけで、内面の美しさのことまで考えると踏み切るだけの決心がつかなかった。
結局八方塞がりであった。だが、「モデル」「募集」をキーワードに検索を続けていくうちに、個人でモデルを募集する方法が残されていることを知った。モデル募集掲示板で自分の求める女性を探せばいいのだ。偶然にも掲示板に辿り着き、覗いてみると少なからず応募に応じている女性もいる。基本的には宣材や広告用の写真撮影のためにモデル募集が行われている掲示板だが、個人写真展のための募集もあった。拡大解釈すれば油彩のモデルも問題ないはずだ。中にはいかがわしい雰囲気の募集もあったが、多くの目に触れる掲示板なのでひどいのはない。真摯に投稿すれば可能性はあると思った。勿論、金銭のことを筆頭に自己責任で様々なトラブルを回避しなくてはいけない。結局理想のモデルなど見つからないかもしれないが、やってみる価値はあると思った。数日間検討し投稿を決意した。都内であること、一年後の絵画展に出品する肖像画の女性モデルを募集していること、プロの画家ではないこと、何回かはキャンバスを向こうでポーズを取ってもらうことなどを条件に真面目な文章で掲載した。すると嬉しいことにかなりたくさんの女性から応答があった。ほとんどが詳細を教えて欲しいという返信だ。メールで丁寧に答えたが、そのうち半数は条件が合わないとか、そもそも手当たり次第に応募してくる冷やかしかで一度の返信だけで終った。それでも候補はまだたくさん残っていた。苦労の甲斐あって候補者が次第に絞られ、お互いの警戒も解けてきた。公開されている写真を見る限り完全に満足するほどではなかったが、複数回にわたるメールのやりとりで多少の思い入れもあって妥協してしまった。最後まで残ったのは三名だった。
いよいよ応募モデルと対面する日が決まった。最初のひとりとは土曜日の午後に逢う約束になった。二十二歳の大学生でふわりとした巻き髪が似合う細身の美人で、一番気に入っており期待が膨らんでいた。一連のモデル募集は後ろめたさもあり妻には全部内緒であった。土曜日なら絵画教室に行くといえば、何の疑いも持たれずに出掛けることができた。いつもより小綺麗にしたのは第一印象が重要だと思ったからで、女性との密会を殊更に意識した訳ではないと言い聞かせた。一旦教室に寄り、最低限の画材だけを持ち出した。先生にもこれからモデルに逢うということは隠して、外で作業をしたいと嘘を付いてしまった。時間通りに待ち合わせ場所に行ったが、一時間経っても現れなかった。メールもしたが返事はなかった。ここまで順調に進んできて油断していたことに気付いた。掲示板で知り合うことの危うさをようやく認識した。収穫なしで気まずそうに絵画教室に道具を戻してその日は退散した。妻にも何だか申し訳ない気分でいっぱいだった。
だが、まだ諦めていなかった。来なかった大学生に焦点を絞っていたが、あと二名連絡継続中の女性がいて、次々に逢う約束を取り付けた。翌週の土曜日に逢うことになったのはやはり大学生で二十一歳のショートヘアが似合うかわいい子であった。木村はあまり期待をせず待ち合わせ場所に行ったが、何と今回は本人が現れた。お互い少し警戒しながらぎこちない挨拶を交わして、雑談をした。肌は写真よりも浅黒く、しみやにきびの跡も見えた。写真は白く加工がされていたのだ。だが、顔は大変整っており小顔なのも男受けがよさそうだ。スタイル抜群でウエストは折れてしまいそうなくらい細かった。長く綺麗な足のラインは写真通りだったが、それでもあまり惹かれなかった。冬にもかかわらずホットパンツで現れ、かわいらしい小物や化粧品を無造作に詰め込んだバッグを投げ出している典型的な都内の女子大生だった。モデルとして通用するのはわかっているが、木村の描きたい女性像とは異なっていた。しかし、おくびにも出さず話をすすめていき、相手の要望もあって写真を何枚か撮り撮影料を払うということで落ち着いた。ここまで来て逃げる訳にもいかず、適当に外の景色が良いところで撮影をして謝礼を払って別れた。「また他のポーズや別の撮影場所でということならいつでも声をかけてくださいね」と明るく笑顔で去っていった。良い仕事だったと思っているらしい。木村は撮った写真を見て、良い写真が撮れたとは思ったが何か虚しかった。相場であったとはいえ出費のことを考えると妻に増々後ろ暗くなった。
もう期待をしていなかったが、一旦始めたことなのでやりきってから次の方法を探そうと考えた。次の女性は金曜日の夜しか予定が合わなかった。丁度忘年会の時期だったので妻へのアリバイ工作には苦労しなかったし、前例を考えるとそれほど時間がかからないと踏んでいた。間際になって少し遅れますと連絡があったときには流石に辟易した。ようやく現れた女性はプロフィール写真とは齟齬があると感じざるを得なかった。モデルとは言い難い体型でどこにでもいるようなごく普通の肉付きの良い二十六歳の女性だった。一方で化粧や髪型のセンスが良く、綺麗に見せる術を持っており、印象は悪くなかったが、やはり作品の対象にはならないと感じた。公開された写真はもっと研ぎ澄まされた印象を受けたが、この女性の使う変身術の妙味が為せる技なのだと理解した。問題はモデルの話になってきた時だった。前回同様形式だけ写真撮影をして別れるつもりで、どこか明るく落ち着いた場所への移動を提案したのだが、それより近くのホテルに行きましょうと囁いてきた。そして、プラス一万円でヌード撮影もできると言ってきた。金目的で気安く裸を売ることに幻滅したのと、なんだか怖くなったのとで、体よく断ると不満そうだった。何とかその場を取り繕って謝礼を払って退散した。
高い勉強料を払ったと反省した。妻には冗談でも話すことができない失敗を重ねてしまった。家に帰って見納めと掲示板をチェックすると、久しぶりに新しく問い合わせがきていた。年齢が三十五と著しく高く奇異に感じたが、真面目な木村は形式的に返事をすると、すぐに長文の返事が来て驚いた。凄く警戒心が強いようだが、これまでの女性とは全く違い、礼儀正しく知性も感じられるしっかりした文章を書いてきた。とても奥床しく謙遜した物言いに何か響くものを感じ取った。これまでになく熱心なやりとりを重ねることになった。相手の不信感を解こうと優しく安心させるよう丁寧に説明をした。そして次の金曜日の夜に逢う約束を急遽決めた。彼女は土曜がどうしても都合が悪く、金曜日なら仕事の後で必ず時間を作ると言ってくれた。再び妻を欺いて見知らぬ女性との逢瀬を計画したが、忘年会シーズンで助かったとつくづく思った。今度逢うkumiというIDを使用する女性に対して仄かな期待と執着を感じていた。これまでのやりとりで感覚の親近性を覚え波長の良さを感じていたからだ。しかし、不安要素もあった。未だ警戒心が強く、プロフィール写真は横顔の遠景でわかりにくかった。素性を隠したい表れだと思うが、雰囲気の良さは木村の好みに合致していた。
待ち合わせ当日になったが、職場で突発的なトラブルがあり、会社を出るのが遅れてしまった。メールで連絡をしておいたので安心だが、五分程度遅れてしまった。待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、細面で長い黒髪の美女に視線が吸い寄せられてすぐにわかった。木村の感情は思わず高揚した。遅れたことを詫びると、物腰柔らかに挨拶をしてくれた。お互いかしこまって自己紹介をした。彼女はID通り久美という名で、名字はまだ伏せていてもいいかと言ってきたので構わないと答えた。これまでメールで詳細は伝えているのでお互い実物に会っての品定めの場となった。
「あの、よろしければ作品の写真を見せていただけますか?」
木村は喜んでこれまでの作品を見せた。
「え! 凄い! 本当にこれ全部描かれたんですか?」
目を大きく見開いて紅潮しながら何度も木村と写真を交互に見た。
「私思い違いをしていました。プロでないと言っていたからこれほどとは思わなかったです。それにもっと近代的なタッチの絵を描く方だと勝手に思っていました。凄く精緻で品があって、私こういう絵好きです」
驚きと感動を伝える表情が嬉しく気分をよくした。すると、突然久美が不安そうに訊ねた。
「あの、本当に私でいいんですか? もっと若い子の方がいいんじゃないですか?」
木村は内面の美しさも重要で、落ち着いた大人の女性の魅力を描きたいと思っていること、それらを満たす女性が他にいないことを熱心に説いた。久美も描きたがっていることを感じ、ようやく納得してくれた。次に手順についての話に移った。木村の考えでは、常にキャンバスの前に立ってもらわなくてもよく、背景や調度品や衣服を描くときは写真で十分だった。一月に一回、数時間モデルになってもらい顔の表情と肌を描かせてもらえれば大丈夫だと伝えた。久美もその方法に理解を示し、月一回程度で合意した。木村の都合で土曜の午後を希望したが、久美の方がその時間帯は通常予定が入っているのだそうだ。だが、月一回なら何とかなると保証した。問題は場所だった。日中の明かりが取れ、誰にも邪魔されずにモデルと画家が専念できる場所は限られていた。おそるおそるシティー・ホテルの一室を提案したが、久美も同じことを考えていたらしく同意した。寧ろ部屋代を心配してくれた。報酬に関しては淡白で、部屋代もあるからモデル代は少なくてもいいとまで言い出した。しかし、お金のことは曖昧にしたくなかったので、明示した額を払うことを譲らなかった。こうして契約は成立した。初回の日にちを年末の土曜日で約束した。それまでにデッサンをしたいといってこの場で写真を撮らせてもらうことを懇願した。急に渋り出したが、契約まで進んだこともあり、誰にも見せないことを条件に了承してくれた。ポーズは要求しなかったが、自然とモナ=リザの構図になるようにして撮った。肖像画としては普遍的だからだ。二時間弱の逢瀬で必要なこと以外は話すことができなかったが有意義だった。
木村は撮影できた写真の想像を超えた美しさに有頂天になった。こっそり毎日何度も眺めた。誰かに覗かれたらどうしようと急にびくりと辺りを見回したりもした。デッサンは極秘に行った。絵画教室はしばらく休み、独自で制作を進めたいと先生に告げた。先生は残念がる様子もなく独り立ちを励ましてくれた。いつでも行き詰まったら来るようにと言ってくれた。木村は深く感謝をした。
ひとりになれる場所を選んで土曜の午後を制作に費やした。模写と違ってどう進めていいのか困ることもあったが、モナ=リザを基調にデッサンを幾つも試した。気に入らなかったらすぐに別の方法を試した。構図を決めるのが最も難しかった。色彩は得意とする方面で不安はなかったが、人物や調度品をどう配置するかが悩みだった。久美の美しさに魂を奪われていたので、シンプルに椅子に座った全身像を描こうと決めた。そうこうしているうちに年の瀬となり最初の写生の日が来てしまった。妻にはいつものように絵画教室と偽って家を出た。画材は個人ロッカーに移動済みだ。都内の有名な高級ホテルの一室を取ってある。出費は大きいがそのために小遣いを切り詰めてきた。ロビーに現れた久美は髪を綺麗に結って、真っ白なコートに身を包んでいた。木村はこれから始まる二人切りの時間を思って卒倒しそうになった。再会後、堅苦しく挨拶を交わした後、ふたりは言葉少なく部屋に向かった。部屋に入って外の景色を眺めて雑談を交わしてから、久美はコートを脱いだ。清楚で可憐な女性美を感じさせる淡いピンクのブラウスと濃いワインレッドのスカートが現れると、そんなつもりはなかったのに木村は気分がおかしくなりそうだった。
「あの、どんな服で来たらいいのかわからなかったのですけど、一番お気に入りのにしました。これでよかったでしょうか? 違ったのがよければ次は変えてきますけど……」
「いえ、とても綺麗です。似合っています。できればこの服装で描いていきたいと思っています。いつもこの服装でお願いできますか?」
「あら、違うのもお見せしたいわ……。いつも同じだなんて」
慌てて言い繕って、着替えてくれるならいろいろ試して構わないと提案して納得してもらった。
「それで、私どうしたらいいでしょうか?」
木村は写真をもとに試行錯誤したデッサンを見せた。
「わあ! 凄い! 先生、これ私よね? 嬉しい。こんな風になるのね。モナ=リザに似ているのね」
上半身はモナ=リザ風にポージングしてもらいたいが全身像を描きたいと伝えた。久美は素敵と言ってアンティーク調の椅子に腰掛けた。その時自然に出来たポーズに刹那の美を見出した。そのままの格好でいて欲しいと頼み込むと、写真を撮って記録した。それからキャンバスの位置を決めてデッサンを開始した。久美は気恥ずかしいのと同時に自分を見つめる視線に心地良さを感じた。もっとよく見て欲しい。褒めなくていいから見つめていて欲しいと感じるのだった。女性は不思議なもので見られることでより美しさが増していくのだ。夢中になって木村は写生した。今日まで腕が痛くなるほどデッサンをしてきたから手が勝手に動くのだ。これまで描いてきたことと何も変えることはなかった。いや、次々と新しい発見があり、加筆することでより美しさが増していくようだった。一時間して休憩を取った。久美はキャンバスを観てまたもや感嘆した。
「先生、凄い。言葉にならない……」
「先生はやめてくれないかな、恥ずかしいよ」
「いいえ、私にとっては先生です。ねえ、先生、お茶いれますね。お飲みになるでしょう?」
美女が入れてくれた紅茶をホテルの一室で味わって休憩をしていることを想像できただろうか。自分が妻帯者であることを危うく忘れるところだった。久美はいつから絵を描き始めて、どうやって上達したかを聞きたがった。また、プロの画家になるつもりはないのかとも訊ねた。木村は照れながら自分の先生の足下にも及ばないし、プロを目指す気はなく、気侭に趣味で描き続けるつもりだと述べた。それから、自我が目覚めたころから抱いてきた絵に対する情熱を語ると熱心に耳を傾けてくれた。今度は木村が質問をした。一番の謎であったどうしてモデルに応じてくれたのかを聞くと、ためらいがちに言葉を選んで語り始めた。
「先生の募集のことは少し前から見ていて応募しようか迷っていたんです。モデルの登録なんてしたことないし、通用するなんて思っていませんでした。年齢も皆若くて私みたいなのはひとりもいないし。だけど、先生の募集も変わっていました。私興味本位で覗いてみただけだったんですが、先生の募集だけはどうも気になって……。何と言うか今こうしている情景もその時見えたような……、運命を感じたんです」
木村もまた運命を感じていた。正直に三名のモデルとの失敗談を語り、最後に突如現れた久美に救われたことを語った。全てが奇蹟に思えた。そして、これから思いもよらない展開をするかもしれないという予感も感じていた。
「ひとつだけ聞いてもいい? 何故モデル募集のサイトを覗いてみたのかな?」
言いたくなさそうだったが、気まずさを察した木村が口を挟もうとする前に告白し出した。
「私、自信を失っていたんです。誰にも見てもらえていなんじゃないかって……。しっかり私のことを見てもらいたかったんです。私の素顔を、心の奥まで見てくれる人に見てもらいたかったんです……。さ、早くしないと暗くなってしまいますよ。続きを始めましょうか」
謎掛けのような告白をどう解釈していいかわからなかったが、神秘的な女であることには違いない。彼女は秘密を持っている。それを解き明かすのはいつのことだろう。今のすべきことは彼女が望むこと、見つめることだった。一時間もするとすっかり日が落ちた。一緒にホテルを出て、年明けに次の予定をメールで伝えあうことを約束して二人は別れた。
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