第六章
みどりが宍戸の生活を知って驚いたことは、アマチュア・オーケストラの練習が集中する休日は一分たりとも時間が空いていないことだった。反対に平日の昼間は全く仕事がなく、家でひたすらスコアの勉強をしていた。デートはみどりが有休を取った平日昼間にしかできなかった。
週末は宍戸の予定が完全に埋まっている。みどりは可能な限り宍戸の振るオーケストラに所属をしており、活動を監視している。しかし、それも無駄なことだった。現在は極めて品行方正で女の影はない。楽団員でみどりと宍戸が付き合っていることを知らぬ者はないが、練習中はお互いプライヴェートな会話をしないことを約束としているので休憩時に煙草を一緒に吸うのを目撃される程度だった。夜練習の後は一緒に帰り、遅い夕飯をとる。そのままみどりが望めば一緒に寝る。だが、宍戸からは求めてこないし、翌日の朝の予定が過酷な場合は断られる可能性すらある。みどりは予定を完全に把握しており、無理なく過ごせる日を選んでいる。その方が傷付かなくて済むからだ
みどりは絶望していた。宍戸の気持ちを自分に向けることは不可能なのではないかと。であれば過去を探っても無意味なだけだ。しかし、どうしても諦めきれなかった。有能で男の魅力を具えていたし、単に宍戸の経験が豊富だからかもしれないが身体の相性が良かった。こんなに執着心を抱いたのは初めてだった。
みどりにも自尊心があった。敗因もわからずに逃げ出すのは嫌だった。純粋に宍戸のことを知りたかったのだが、影のようにつきまといオルペウスの心を独り占めしている謎の女のことを調べることが先決だった。敵を知らなければ勝利はおぼつかない。しかし、宍戸が情報を封印していることもあって全くというほど手がかりがなかった。オーケストラ仲間から仕入れる情報は散漫すぎ、エウリュディケーが誰なのか意見がひとつとして一致しなかった。
付き合う前は熱心に後を追っかけ、側にいるようにし、あからさまに迫った。宍戸も悪い気はしていないようだが猾く立ち回り、自分からは一切動かなかった。一方で誘いにはほとんど応えてくれ、みどりが抱きついた時も密かに喜んでいたはずだ。生来の女好きは消すことができず、据え膳に手をつけないことはなかった。転機のあった頃を調べ回ったが、結局よくわからなかった。女が多過ぎた。ある時期を境にそれらの女との関係を清算した後はみどりをはじめ、片手で数えるだけの女が自ら志願して夜伽をしているだけとなった。宍戸は最初みどりを遠ざけるつもりで自分には複数名の女がいることを忠告したが、気にしないというから諦めた。他の女と違って泣き言をいうことが少ないから、みどりのことは気に入っていた。聞きたがり屋だが、機嫌を損ねるようなことはしてこないし、諦めもはやい。蒸し返すこともしないので、一番楽だった。
兎に角奇妙な関係であった。宍戸にしたら大して好きでもない女と居るのは面白くなかったが、ひとりで居るよりはよかった。女と居ると若返る気がする。会話も女を喜ばせることに長けており、いくらでも話せた。男とは競争心が働いてしまい疲れるのだ。女のことで困るのは嫉妬と被害妄想だ。女はいつの間にかこの悪い思考回路に陥り、男の無情を責める。女を宥めることにも手慣れているから苦もなく切り抜けてきたが、たまに感情が爆発すると手に負えず逃げ出したくなることもある。昔は数えきれないくらい女がいたから面倒臭い女とは手を切ることにしていたが、最近は都合の良い女しか付き合っていないので実に平和であった。
夜の練習が一緒だったのでみどりはせがんで都内のレストランでディナーを希望した。宍戸は常に饒舌だったが、ワインが入るとご機嫌だった。
「ねえ、次の曲、ブラームスに決まったんでしょう?」
「そうそう。一番だよ」
「団長たちは『ヒデオのイキガイ』をやりたかったみたいだよ。黒川さんも結構盛り上がっていたみたいだし」
「無理無理! リヒャルトなんて奴らには出来ないよ! あ、これはオフレコだぜ」
「うん、平気。あの人たちと音楽の話しないから」
宍戸は指揮台に立っている時は立派な紳士で、ひとりも傷付けないように腐心していたが、みどりの前では誇張もあったが悪口を垂れ流した。一緒に笑える相手かどうかをしっかり見極めてのことで、食事を美味くする為のおかずのつもりだった。
「しかし、英雄の生涯とは大きく出たよ! 黒川では吹けないよ。今の状態だったらマーラーも僕は反対するかな。それにヴァイオリン・ソロをどうするんだ」
「本田くんじゃ無理?」
「論外だ。僕が知っている範囲で弾ける奴はいないよ」
「でも昔はよく振ったんでしょう?」
「ああ、十八番でね。誰にも負けない自信がある。でもしばらくは封印しようと思っている」
「どうして?」
「ソロを弾けるコンミスが来るのを待っている。理想の演奏をしたいんだ」
引っかかる点があったが、敢えて踏み込まないようにした。
「ブラームスにもソロがあるし丁度いい。浮つかずに勉強して欲しいから僕はブラームスの方を推したのさ」
宍戸は更に奏者らのダメ出しを続けたが、それが愛情の表現であることをみどりはわかっていた。下手な奏者を降ろそうとはしたことはないし、休憩中は個別に声をかけて面倒まで見てやっていることを知っているからだ。
食事の後はホテルに直行した。たっぷり愛してもらった後、ベッドでありきたりな質問をした。
「ねえ、私のこと好き?」
「ああ、勿論」
「世界で一番?」
「また始まったね。前に聞かれたときにも答えたけれど、みどりは一番にはなれないよ」
そう言って煙草に火を付けた。
「一番は誰? 私の知っている人?」
「前にも言ったけど僕の女神はミューズで、人智を超えた存在だよ」
「どうやったら私近づけるかしら」
「近付こうなんて考えてはいけない」
宍戸が遠い目をして煙を吐き出すのを恨めしく睨んだ。
「ねえ、大ちゃんは平日の昼間は何をしているの?」
「スコアの勉強だよ」
「それだけ? 私見たのよ。スーツケースに手書きの楽譜が束ねてあるのを」
「ああ、あれか。あれはね、作曲をしているんだ。でもこれはあまり言いふらさないで欲しい。まだ全然出来ていないのと、いろいろ手を出し過ぎていると批判されることもあるからね」
「ふうん、知らなかった。作曲するんだ? ねえ、どんな曲? 教えて欲しいな」
「すまない、それはまたにしよう。もう少し形になってからだ」
みどりは残念そうな顔をした。
「あと、美術館にもよく行っているでしょ? 私知っているんだから」
「参ったな、何でも知っているんだな」
「スーツケースに図録があったのをみたんだから。あんな大きな本を入れていたらすぐにわかるわ」
「そうか、平日は空いているからいいんだ。昼間はどうせ暇だから」
「誰か女の人と行っているんじゃない?」鋭い視線でみどりは問いかけた。
「いや、絵はひとりで観たい。真剣にね」
「絵が好きなんだ」
「いや、まともに見出したのは数年前からだ。音楽の幅を広げるためにね」
みどりは思い出していた。そういえば最近の練習では絵画的な表現を充実させてきているようだった。誰かが宍戸が指揮すると色彩的になると評していたのを思い出した。
「絵が音楽に関係するの?」
「研究中だ。僕が発見したのは絵画では光と影を隣接させることによってより明暗を付けているんだ。僕たちは普通明るいところに暗いものは描き込まない。だけど画家はコントラストを付けるために細かく陰影を描き込んでいるんだ。そうしないと明るくも暗くも見えないんだ。これは音楽でいう長調短調の関係そのままだと思う。交錯していた方がより明暗が浮かび上がることに気付いたんだ」
「ふうん、そんなことを考えていたんだ」
尊敬の眼差しに変わったみどりはもっと話して欲しいとせがんだ。
「今は調性の性格を別の表現で伝えられないかと考えている。調性を色で表現したら面白いと思うんだ。ハ長調は白、ニ長調は金、変ホ長調は赤、ヘ長調は黄、ト長調は青、イ長調は橙、変ロ長調は緑。こちらは明るい色合いで、短調は全体的に濃く黒っぽくなる。ハ短調は赤、ニ短調は銅、ホ短調は青、嬰ヘ短調は稀だからヘ短調にするけど血の赤かな、ト短調は緑、イ短調は灰、ロ短調は銀。どうだい、平行調とはほぼ整合性もあるだろう?」
「そんなこと考えていたんだ。凄いな指揮者って」
「いや、こんなのは当たり前だ。常に新しい発想をもって臨まないと音楽が硬直する。いつも新鮮な音楽を奏でるには同じところに留まっていてはいけないんだ」
「調性のことは深く考えたことなんてないな。いつも正しい音程で弾くことだけを考えていたから。ねえ、もっと聞かせて」
「奏者が調の性格をよくわかって演奏をしてくれたら、トゥッティは色彩豊かになるだろう。僕は今それに取り組んでいる。少しずつだが成果も見えてきている。例えばハ長調。ジュピターの調だ。性格は明朗で快活、堂々として野卑だ。勝利を表現するラッパと太鼓の調だ。ベートーヴェンの一番、シューベルトのグレイト、シューマンの二番がある。ベートーヴェンにはヴァルトシュタイン・ソナタやラズモフスキー四重奏曲もある。メンデルスゾーンの結婚行進曲もそうだね。」
「面白そう。他の調も話して」
「ニ長調は全ての楽器が最も良く鳴る調だ。恐らく最も沢山の曲がある調だと思う。ヴァイオリンが輝かしく鳴り、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの協奏曲がある。パガニーニも。ベートーヴェンとブラームスの第二交響曲がある。Dは神の頭文字と意識されて、神々しく壮麗で祝祭的な性格を付与された。宗教曲の多くがニ長調で書かれている。変ホ長調はエロイカの調だ。ホルンをはじめとして全ての管楽器に良い調だ。気宇壮大で攻撃的だが、痛ましさもある。英雄と皇帝があり、モーツァルトやブラームスのホルン曲、ブルックナーのロマンティック、シューマンのラインやピアノ五重奏がある。ヘ長調は爽快で開放感があり、愚直な美しさある。ホルンに良い。ベートーヴェンには田園があるが、寧ろ八番の方が性格的だ。弦楽四重奏曲の一番と十六番がヘ長調だ。ブラームスの三番もある。ト長調は素朴だが高貴な調だ。管楽器には相性が悪く、弦楽器に良い。室内楽的な雰囲気を持つ。ブランデンブルク協奏曲の三番やベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番、マーラーの四番だ。イ長調は激しい緊張感がある調で輝かしい。ベートーヴェンの七番があり、クロイツェル・ソナタがある。イタリア交響曲もある。クラリネットの調でモーツァルトは協奏曲と五重奏を書いた。変ロ長調は管楽器の調だが、弦楽器の柔らかさも引き出せる調だから壮麗で気品がある響きになる。ベートーヴェンの四番、シューマンの春、ブラームスのピアノ協奏曲第二番がある」
「ねえ、短調も教えて」
「ハ短調はベートーヴェンの運命の調だ。情熱と悲哀が凄まじいエネルギーで迫る調だ。闘争と敗北を表す。第五交響曲、コリオラン、ピアノ協奏曲第三番、悲愴ソナタに最後の三十二番、弦楽四重奏曲の四番、まだまだある。ブラームスの一番、ブルックナーの八番もある。ニ短調は全ての楽器に良く立派な響きがする。厳粛で敬虔だ。信仰心を秘めているが深い哀しみがある。第九交響曲がある。モーツァルトやフォレのレクイエムがある。死と乙女がありシューマンの四番がある。ブルックナーは三つも交響曲を書いた。フランクの交響曲やメンデルスゾーンの宗教改革もある。ホ短調は悲哀だ。メランコリーで甘く嘆きがはなはだしい。涙の調だ。ブラームスの四番がある。メンデルスゾーンやショパンの協奏曲がある。新世界、チャイコフスキーの五番、ラフマニノフの交響曲第二番がある。嬰ヘ短調の曲は少ないからヘ短調に代わってもらう。陰鬱でやりきれない調だ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番があり、有名なアパッショナータがある。エグモントもそうだ。チャイコフスキーの四番がある。ショパンに協奏曲があり、素晴らしきバラード四番やファンタジーがある。ト短調はモーツァルトの疾走する哀しみだ。たった二つの交響曲がどちらもト短調で書かれた。五重奏曲もある。哀しみを湛えた調だが、慟哭することなく耐え忍ぶ調だ。ショパンのバラード一番、ブルッフの協奏曲があり、悪魔のトリルもそうだ。イ短調は上品な憂鬱を示し、共に哀しみ優しく慰めてくれる調だ。シューマンとグリーグの協奏曲があり、スコットランド交響曲がある。ロ短調は絶望的な暗さだ。溜め込んで気晴らしがなく憂鬱で救いがない。バッハのミサが有名だが、チャイコフスキーの悲愴やシューベルトの未完成が代表的だ。ドヴォジャークのチェロ協奏曲があり、リストのソナタもそうだ。わかるかな? 短調でフラットが多くなると慰めが加わり哀しみに堪えられ反抗や闘争もできる。でもシャープが増えると押しつぶされ泣き叫ぶようになる」
「凄くわかりやすかった。ねえ、恋人たちの愛し合う調は何?」
「ホ長調かな。真夏の夜の夢の序曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ三十番と、ブルックナー七番があるね。そしてドン・ファンだ。愛の調だけど愛の苦しみも表現しているよ」
「あ! 憶えている? ブルックナーは私たちの出会いの曲よ!」
すまなさそうに目をつぶって困ったように思い返していた。
「やっぱり憶えていないか……。私が大学三年生の冬の演奏会の曲だった。大ちゃんに一目惚れしたあの日が忘れられない……。でも今こうして隣にいるから仕合わせ。私だけを見ていて欲しいの」
「見ているさ」
「嘘、女神がいるでしょう」
宍戸は目をそらして物思いに耽った。みどりは虚無感に苛まれたが、このまま宍戸が戻ってこないことを一番に恐れた。
「いいの、私。求め過ぎないことにする。大ちゃんは自由よ。いつでも女神のところに行ってもいいの。ただ、今は私のものよ」
宍戸は虚ろな声で呟いた。
「僕は何をしているのだろう……。全てを捨ててハンガリーに行くべきなのに。だけど彼女を置いて行きたくはない。僕はどちらを愛しているのだろう。ああ! ホフマン的狂気だ!」
そう発作的に言い残してベッドから飛び出しシャワーを浴びに行ってしまった。みどりは突如錯乱した宍戸に困惑したが、それ以上に謎の言葉の解釈に困窮した。だが、瞬時に下した結論はこうだった。宍戸は二人の女の間で揺れている。どちらも選べない。だからどちらとも失っているのだ。ひとりはハンガリーに居て、ひとりは日本に居ると思われる。日本ではこれまで調べてもわからずじまいだったが、ハンガリーなら特定出来るはずだ。
新しい手がかりをもとに聞き込みを開始した。すると、拍子抜けなくらいに女を特定することができた。なんと現在みどりが所属をしている団体で前代コンミスを務めていた門倉玲美という女だった。みどりが入団する三年前にハンガリーのリスト音楽院に留学をするために退団したという。何でも大変な美人で人目をひいたそうだ。宍戸が放っておくことがないタイプであり、多分特別な関係にあったということだ。コンミスだからということもあるが宍戸と話し込む光景は普通ではなく、また門倉にだけは音楽的に厳しく接していたのも不自然に思えたそうだ。門倉はヴァイオリンの技術が素晴らしかった一方、生真面目な性格で宍戸からは色気がないとか誘惑するようにとか注文されていたという。コンミスという役割も性格的に向いているとは言えず、悩んでいるようだった。それが、留学前に急に一皮むけて見違えるように明るく魅力的になり、その僅か数ヶ月間の演奏は奇蹟だったという。瞬く間に声がかかって留学が決まったらしい。ちょうどその頃は宍戸での演奏会がなく、門倉の変化は宍戸の影響ではないという。何故なら、門倉がいなくなって宍戸は消沈しており、初めて彼女の重要さを知ったという態だったという。これまで捜査線上に浮かび上がってこなかったのは門倉が宍戸の女であるという確たる証拠を誰も持っていなかったからだ。
みどりは様々な推測をしたが、門倉が宍戸の運命の女のひとりであることは間違いなかった。遠くハンガリーで活躍中の女の面影を追っているのだ。日本に戻ってくると厄介だが、もう二年以上が経っている。このまますれ違いが続けば風化するはずだ。だが、問題はもうひとりの女だ。放っておけない女の方がより強敵だ。結局みどりの不安は解消されないままだった。
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