ピュグマリオーンとオルペウス

 

第五章


 木村は目に焼き付けた久美の印象を一心に再現しようと試みた。写真も大いに役立った。肌の下地はこれまでの模写で培った手法で慎重に進めた。背景や服はごく簡素に調子を揃えた。油絵は最初の職人的な作業に時間がかかる。そして、この作業が雑か丁寧かで仕上がりが大きく左右されるので、手を抜く訳にはいかなかった。第二回目の逢瀬が決まったが、何とか下地が付いた段階だった。その日は少しでも肌の感触をつかめればと思っていた。
 久美はその日は落ち着いたグレーのコートでやってきた。部屋に入り近況の雑談をした後、キャンバスを見せた。肌にはほとんど緑が残っており、まだ下塗りが終了しただけだと説明したが、意外にも満足げにキャンバスの変化を感心して眺めていた。コートを脱ぐと、クリーム色のブラウスに黒いスカート姿であった。これも大変似合って美しかった。
「先生、服はやっぱりこの前のに着替えた方がいい? 一応持ってきました。作品も前回の服でイメージされているみたいだし」
 今日の服も素敵だが、絵画では決まった雰囲気がありがたいとお願いすると素直に着替えてくれた。そして、意気揚々としてモデルを始めた。椅子の位置もポーズも良く憶えてくれていた。制作中は視線を窓の外にやったり、部屋の豪華な調度品に注いだりしていたが、時にじっと見つめる木村の視線に対してはまだ気詰まりなようで目を合わせなかった。たまにポーズや向きのことなどで一言二言交わすことはあったが、制作中はふたりとも無言だった。途中休憩の時間はふたりともリラックスできる時間だった。真冬の午後に温かい紅茶で和み、久美が買ってきてくれた甘いものが花を添えた。まだぎこちない関係だったが、少しずつ会話もほぐれてきた。
「久美さんはどんなお仕事をされているんですか?」
「私は会計事務所で秘書をしています」
「そうなんですね。でもそんな感じがします」
「先生のお仕事は?」
「僕は資格試験予備校に勤めています。とはいっても総務系の仕事をしていますが」
 久美との会話はあまり深い展開を見せないのが特徴だった。一気に距離が縮まることはなかったが、会話は途切れることがなく淡い時間が流れていった。だが、ある境界線より進むことはできないという印象が強く残った。意外な拒絶があったのは、休日は予定がたくさんあるようだけど、どんなことをしているのかという質問に対してだった。
「ごめんなさい、それは答えなくてもいいですか?」
 急に冷たい態度が表れたので恐縮してしまった。気安く聞いてしまった自分を責めるとともに素性へ対する興味が掻き立てられた。然程忙しくない仕事をきっちりこなす毎日で、一時間かかる通勤が嫌なこと、甘いものも辛いものも好きで食べ歩きが趣味なこと、運動は苦手で疲れやすく体調を崩すことが多いこと、読書や絵画などインドアの趣味が多いことがわかったが、休日の過ごし方や恋人の存在などは杳として知れなかった。しかし、会話は楽しかった。そして楽しんでしまっていることに罪の意識を感じていた。制作は順調に進んだ。写真も都度撮って、より多角的に作業を進めた。
 回数を重ねるにつれ、次第に気を許すようになってくると久美は内面の弱さや不安定な面を見せるようになった。春の嵐が吹く頃、嫌なことがあったのか久美の様子がおかしいときがあった。そういう時は表情も硬く、気持ちがほぐれるまでモデルにならないのだ。
「ちょっと嫌なことがあって……、ごめんなさい」
 しおらしく謝るのを優しくいたわって何とか表情を取り戻すことができたが、以来機嫌を損ねないように気を配るようにした。ところが、不思議なことにそれが魅力に思えた。最初の頃は礼儀正しさや節度ある物腰に隙のない完璧な女性だと思ったが、人間味を感じるようになると、自分だけに見せる特別な面かもしれないと思ってしまうのだ。否定してもしきれない感情はあった。あの美貌に惑わされない男なんているのかと自問自答した。いけないと思いつつ妄想に走ることがあった。久美が少しずつ好意を募らせていて、木村がそれに応えてしまうという空想は、月に一回とはいえホテルの一室でふたりきりで過ごしているのを考えれば致し方ないことだった。作品は桜が散る頃には色も濃淡も決まり、ほぼ絵画として完成したかに見えた。だが、画家の仕事はこれからなのである。ほんの僅かだが全体を変えうる一筆があるのだ。同じ時間をかける作業でも、これからの数ヶ月で行う加筆は作品の真価を決定する重要な行程なのだ。遠目で見ても二時間の作業で目立った変更点はわからない。だが、画家の目には格闘の痕跡が刻まれているのだ。久美は回を重ねるにつれて化粧を薄くしてきて、ほとんど下地だけで来ることもあった。本来の肌の美しさを描きたかったので、寧ろそれを有り難く思った。久美の肌はそれに応えられる真珠や絹のような光沢を放っていた。唯一気になったのは左顎の下に硬化した黒ずみがあったことだ。それまでは化粧によって気付かれなかったものであり、途中から気になり出したものだ。話題にしていいものか迷ったが隠す素振りもなさそうなので問うと、「ああ、これね。気になるのなら隠します。ごめんなさい」と全く意に介さない風だった。これほどの肌のきめこまかな女性なのに無頓着だったのには少し驚いた。
 久美は嫌がらずに最初に着ていた秋冬物のブラウスとスカートになってモデルを続けてくれた。制作中に視線が合うのを楽しんだり、急に笑顔で返したりしてくれたが基本的には無言であった。そこで木村はこんな提案をした。
「退屈ではありませんか? どうでしょう。音楽でもかけませんか? 静かな音楽なら邪魔にならないでしょうから」
「あら、構いませんよ。でも、私のことなら心配しないでください。それより先生の気が散らないといいのですけど」
 そう言ってくれたのを嬉しく思ったが、音楽で優雅な空間と時間を作り出し一層リラックスしてくれたらという狙いがあった。音楽を流し始めると、すぐに反応したので少し驚いた。
「モーツァルト……」
「そうです。よくわかりましたね。クラリネット協奏曲です。お気に召しませんか?」
「いえ……とっても好きな曲です。嬉しいです。あの……先生、もしよかったら次は私が曲を選んでもいいですか?」
「勿論です。僕はそんなに詳しくないので……お任せします」
「嬉しい!」久美の笑顔で部屋全体が明るくなったようだった。
 次の回に本当に音楽を持ち込んできた。木村の知らない曲ばかりだったがどれも美しく、制作の霊感になるような音楽ばかりだった。その都度曲名を教えてもらいメモをした。シューマンの室内楽、シューベルトのピアノ曲、フランクの室内楽、フォレのレクイエム、モーツァルトの様々な協奏曲。高雅な雰囲気の中で表情も自然とほぐれ、これまで以上の美しさを発散しだした。休憩中は木村よりも饒舌におしゃべりを楽しむようになった。次第に話題を拡大し始め、これまで恐れて触れてこなかったものも含んでいたので、寧ろどう解釈していいかわからなくなってきた。
「そういえば、先生がこれまで描いてきた絵はほとんど女性ね。先生はどんな女性が好みなのかしら?」
 まさにあなたのような人だと告白しそうになったが、気まずい雰囲気になったら困るので、ありきたりな回答でその場をやり過ごした。最初こそ美貌に浮かれていたが、数ヶ月間画布へ向かって久美のことを一心に想って絵筆を動かしていると、情念が乗り移ってきた。何度となく筆を置いて指で画布の肌をなぞることもあった。
 写真をもとに背景や調度品や服などの細部を描いてきたが、新緑の頃になるとほぼ完成し、めざましい進度はなくなってしまった。表情を付ける月一回のホテルでの制作が重要となった。喜んでもらいたくて夢中で頑張り過ぎ、制作が予想以上に進んでいたのだ。妻からも今年は本当に熱心ねと嫌味を言われていたが、それすらも気付かないほど我を失っていた。
 情熱があり余ってしまった木村は募る情念に狂わされて悪魔の試みに取り憑かれてしまった。密かにもう一枚肖像画を描き始めたのだ。しかも、今度は想像で着手した裸婦像であった! 現在制作している肖像画を「着衣のマハ」とするならもう一枚を「裸のマハ」と位置付け、左を正面にした「着衣」とは対になるように右を正面にし、かつて模写したティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を構図としてベッドに寝そべる久美を描き始めた。何度もデッサンをしたし、逢瀬の度に撮り溜めた写真も豊富にあり、目蓋の裏に美しい顔をくっきりと思い浮かべることができる。想像で描いたのに生き写しのように見えた。実は前回のモデルの時に気を許し始めた久美はずっと同じポーズで椅子に静止しているため、休憩中は思いっきりリラックスするようになり、遂には部屋のベッドに乗って足を伸ばしたのだった。軽く足を組んだ時の構図がヴィーナス像に近かったため、許可をもらうことなくすばやく撮影をしてしまった。久美は笑いながら嗜めた程度で咎めはしなかった。その写真は気怠い官能的な表情を捕えており、またとない霊感を与えてくれていた。丁度一ヶ月間熱病に浮かされたように裸婦像に筆を入れ、傑作の予感がする状態にすることができた。次の逢瀬に深く考えることなく二つのキャンバスを持ち込んでいた。勝手に想像で描いた裸婦像をどう受け止めるかなんて考えていなかった。この絵も完成させるには今から始めなくては間に合わない、急がなくてはいけないという考えに脅迫されていた。これほどの傑作を描き通さずにいられようか! 自信があった。着衣の作品も渾身の出来だが、敢えて言えば裸の作品は奇蹟といえた。久美がこの作品の完成を願わないはずはないと信じた。それなのに奇妙にも、ただ制作続行を許可してくれればよく、服を脱いで欲しいという発想とは何故か結びついていなかった。この新しい着想は全て自分の為であり、展覧会に出品するつもりがないことを話すつもりだった。この作品は秘めた愛の結晶であり、芸術の為せる純粋な神秘としたかった。木村はそわそわしていたが、いざ久美を部屋へ迎え入れ制作を開始すると真剣になった。前半の時間で着衣の方の加筆を進めた。いよいよ目のまわりや口元の細部へ筆を入れる段階だったが、裸の作品で得た霊感から、もっと美しさを引き出せる可能性があると思い、まだまだ仕上げまでは進まず、ぼかしを慎重に行って余地を残したままにした。休憩に入って紅茶を味わった後、木村は思い切って告白した。
「あの、実はお見せしたいものがあるんです」
 久美は目を大きく見開いてにこりと笑顔で応えた。
「え? もう一枚? いつの間に? 見せて! まあ!」
 木村が袋からキャンバスを取り出し、着衣の替わりに裸の久美をイーゼルに乗せた。着衣が縦長で左を正面とし、椅子に座った構図なら、裸が横長で右を正面とし、ベッドにもたれた構図であった。絵を見た久美は言葉を失ってずっと無言であったが、何の心配や不安も感じなかった。木村の少し前に立って画布を見つめる身体が感動で小刻みに震えているようで、ちらりと見える横顔も激しく紅潮し法悦の喜びに浸っていると確信できたからだった。
「先生、素敵……」そうつぶやいた切り言葉を継げなかった。
「お願いがあるんです。この作品はどこにも展示しません。僕と久美さんだけの知られざる傑作とします。お願いです。この作品を完成させたいのです。いけませんか?」
 久美はしばらく動けなかった。ようやく振り向き潤んだ視線を一旦投げかけてからベッドの方に歩んで行った。ベッドの前で立ち止まってブラウスのリボンを解くと、震える声で言った。
「描いてください。芸術に奉仕させてください。でもひとつだけお願いです。私に触れることはしないでください。何だかその瞬間にモデルとしての役割を失ってしまうような気がして……。私にできることを出し切りたいと思います。だからお願いです。私の全てを見て全てを描いてください」
 声を詰まらせながら言い切ると、上着を脱ぎ真っ白な腕を露にした。すると、急にミニバーに設置してあるブランデーを開けてぐいと飲んでから戻ってきて、背を向けた格好で素早く服を全部脱いだ。夢を見ているようであった。自分の絵画が及ぼした影響に信じられない思いだった。だが、女神の背筋が現に目の前に現れているのだ。久美は最初の時のように怯えていた。ベッドのカバーで隠すようにしながらベッドの上でポーズをとった。
「これでいいかしら……」
 動転しながらも厳格に頷くだけだった。久美は先ほど僅かに絵を見ただけで自分の取るべきポーズを理解していた。芸術の不可思議な力によって美を究極の形で理解することができていた。最初は恥ずかしがって隠そうとしていた胸も動作の中で隠し通すことなどできなかった。それでもまだ腕で胸を覆っていた。木村は構わず絵具を融き筆を動かし始めた。燃えるような真剣な眼差しを向けて肌の色を乗せていくと、いつしか久美も腕を外し胸を露にした。驚くことに想像で描いたフォルムと寸分違わぬ曲線美が目の前にあった。久美が絵と同化し、身体の線を合わせたかのようだった。胸や腰のラインだけは少し曖昧に描いておいたのもよかった。この日の加筆で全体の構図が決まった。ぐったりして筆を置いた木村はいつもより時間が過ぎてしまっていることに気がついた。久美は作業が終ったのを感じると素早くシーツで身を隠し下着を身に付けだした。背中を向けたまま久美は小さな声で言った。
「写真は撮らないでください。この場だけでお見せします」
 服を脱いでから一言も発していなかった木村もようやく言葉を発した。
「勿論です。さあ、見てください」と画布へと誘った。
 服を着終わっておそるおそる木村の隣に立ちキャンバスを覗き込んだ。そこにはあらゆる男の魂を滅ぼしてしまいそうな女の美があった。理想化された絵画のようであったが、やはり自分自身に違いなかった。
「先生、私はこんな風に見えているんですか?」素直に発した問いだった。
「ええ、神々しく美しいです。自分でも不思議な感覚です。僕は久美さんの全てをありのままに描きたいと思っているだけなのですが、それだけでこんなに美しく描けるものなのかと。崇高な美しさが一体どこから来るのでしょうか。それと、この絵はとても音楽的な感じがします。休憩前にかけてくれたタイースの瞑想曲のような音楽が聴こえてくるようです」
 久美は複雑な気持ちだった。しかし、それ以上に自分の心と身体、そして運命がこの絵によって開かれていく気がして恍惚となっていた。木村がいみじくも感じ取ったようにエロスが崇高さへと変容する一瞬が捕えられているようだった。
 木村もまた魔界の扉を叩いてしまった戦きを感じていた。久美の火照った顔と熱い呼吸が手の届くところにあり、発作的に抱きしめてしまいそうだった。しかし、女神の掟によって触れることを禁じられた画家は煩懊に身悶えしながら自分を律した。ふたりは名残惜しく部屋を後にした。久美の方から次は新しい作品だけの時間にしましょうかと提案をしてきた。木村も同様の考えだった。着衣のマハはあと一時間か二時間の加筆で仕上げにしてもいい。裸のマハはまだ誕生したばかりだ。これからの一ヶ月間をシーツやベッドの描き込みに費やすとして、写真のない肌を描き込む時間は限られている。次の逢瀬は最も大事な回になるだろうという同じ想いを抱いてふたりは別れた。次に会う時は大分日が長くなっていることだろう。
 木村はひとりになると喜びにうち震えた。久美の一挙手一投足が夢幻の神話のように脳裏に再現され、官能を疼かせ麻痺させた。芸術と愛が抱き合って昇天する感覚に全身が焼け尽くされた。倉庫に立ち寄りキャンバスをしまう時にもう一度裸の久美を眺めた。暗闇に浮かび上がる肌が湖面に映る月光のようでうっとりとした。この姿に生命を与え、愛したいという倒錯に駆られた木村は自らをピュグマリオーンに重ねた。

 

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