ヨセフ


 荒涼たる風景が一面に広がる草木も疎らな痩せた土地。岩だらけの道端に男がひとり腰を下ろしてゐる。傍に僅かばかりの大工道具が入つた麻袋を置いたまま、男は身じろきもせず足許を眺めてゐる。随分長いこと動かない。地元の人間しか歩かない悪路で、人の通る気配もない。音もなく時が流れて行く。
 男は年の頃三十を過ぎたくらゐであらう、小柄で頑強な体と節榑立つた手を持つてゐる。身なりは質素で、靴も履き潰した惨めなものだ。しかし、髪は美しく、目は忍耐強い屈強な意志を湛へてゐる。固く結ばれた寡黙さうな口元は深い信仰と篤い義侠心を物語つてゐる。
 秋の終はりの風もない静かな昼過ぎは時間が止まつたかのやうだ。男は深い物思ひに耽つてゐる。眉間に寄せた皺は癖になつてしまつたのだらう、消えることのない面立ちの特徴として残つてゐる。男の家があるナザレは此処からはまだ遠い。夕刻迄に帰るには歩き始めなくてはならない時刻だ。しかし、男は姿勢を変へない。その顔には次第に苦悩が募るやうだ。
 足許の乾き切つた石塊や、群れを離れた蟻が忙しく通り過ぎる様を眺める男の視線は虚ろである。そんなだから、近付いてくる足音を気取つたのは、何者かの気配が身近と感じられる距離となつてからである。物憂い考へ事から覚め、男は漸く顔を上げた。傍に近寄つて来る人物を見遣つたが、それが誰であらうと男にとつてはどうでもいいことだつた。相手が声を掛けてくるとは露とも思はず、深い眠りから起こされた者のやうに不機嫌な表情を隠せなかつた。
「あゝ、矢張りヨセフでないか。暫く振りではないか」
 自分の名を呼ばれたヨセフはすっかり狼狽へてしまつた。そして、気分を取り直し、改めて間近に寄つて来た男をしげしげと眺めた。長身の堂々たる体躯に鋭い眼光を持つ男は、見事な禿頭で立派な鬚を蓄へてゐる。ヨセフはすぐに相手を察することが出来た。あゝ、ヤコブではないか、と嬉しさうに笑顔で返し、立ち上がると抱擁を交はした。ヤコブの年はヨセフと同じくらゐか少し上のやうで、二人は旧知の仲と思はれる。暫く振りの再会を噛み締めてゐるやうだ。ヤコブは余程嬉しかつたらしく、握つた手を離さずに感慨深げに言葉を継いだ。
「こんな処で会ふとは思つてもみなかつたよ。道具を持つてゐるところを察すると仕事の帰りかい? 何だかどうも疲れてゐるやうだね。君の姿を認めてから何時気付いてくれるかと期待しながら近付いて来たのだが、ひょっとすると寝てしまつてゐたのかね? ナザレに帰るところだらう? 早くしないと暮れてしまふぞ。うん、君はどうも顔色がよくないやうだ。今はどんな仕事をしてゐるのかね? さうか、山の向かふの仲間の手伝ひをしてゐるのか。それは大変だな。もうすぐ仕上がるのかい、それは良かつたね。体を壊さないやうに気を付け給へ。ところで聞いたよ、君は結婚したさうだねえ。おめでたう。お嫁さんの為にも病気などしてゐてはいけないよ。それに早く帰つてあげないと」
 かう云つて、ヤコブはヨセフを促し共に歩き始めた。
「うん、さうするとしよう」
 ヨセフはさう云つた切り、大工道具を担ひで重々しく歩を進めた。祝福を受けたヨセフの顔が思ひもかけず曇り、当然返つてくるべき応へが出て来ぬのをヤコブは見逃すことなく訝つた。二人は暫し無言のままであつたが、ヨセフは何かを恐れる如く、それ迄の態とは打つて異なり、滑稽なくらゐ性急にヤコブに話を振り始めた。
「ヤコブ、君はイェルサレムに行つてゐたのだらう? 法律を勉強してゐたとか聞いたよ。何だかとっても立派になつたぢゃないか。見違へたよ。何時返つて来たのかね」
 ヤコブはヨセフの一挙手一投足を不審さうに注意深く観察しながら応へた。
「うむ。つい二日前にナザレに帰つて来たばかりなのだよ。君の云ふ通りイェルサレムで三年間法律を学んでゐた。実はまだ道半ばなのだが、思ふところがあつて一旦故郷に帰つて来たと云ふ次第さ。慌ただしいが、あと半月もしないうちにまた出発する積りだ。だから君と会へて本当に良かつたよ。しかし、君の婚礼に列席出来なくて本当に残念だつた。盛大に挙げたのかね?」
「いや、君も知つてゐる通り私は貧しい大工だ。婚礼は内輪だけで行つた。申し訳程度のものだよ」
 ヨセフが返答を考へ考へ選んでゐることをヤコブは見て取つた。そして、ヨセフが何かを隠さうとしてゐることに気付いた。ヨセフが結婚の話を切り止めたいと願つてゐるのを感じ取つたが、ヤコブは街で聞き知つた幾つかの噂のことを確かめたい衝動に駆られてきた。ヤコブはこの寡黙な友が嘘をつけない男であることを知つてゐる。自分が悪意で聞くのでないことも解つてくれると信じた。結婚といふ人生の大事を聞いてはいけないといふ道理はあるまい。敢てヨセフの表情に読まれた陰には気付かない振りをし、ヤコブは話を続けることにした。
「ヨセフ、君はあのマリアさんを娶つたといふではないか。マリアさんのことなら私だつて覚えてゐるよ。大層美しくて評判の娘だつたからね。私も何度か祭の際に見たことがある。でも確か、私がイェルサレムに出立する少し前にマリアさんは母親を亡くして身寄りがなくなつたと記憶してゐる。まだ若いのに可哀想なことだ。だから、マリアさんが君のやうなしっかり者と結ばれたといふのは本当に結構なことだ。それはさうと君のやうな無骨者があんな器量良しをどうやつて振り向かせたのかい? 意外と君も隅に置けないぢゃないか」
 ヤコブは快活に高笑ひをした積りだが、ヨセフの顔が浮かないどころか、この場から逃げ出したがつてゐるやうな苦悶の表情に変はつていくのを見て、神妙な心持ちに引き摺り込まれた。
「ヨセフ、君はひょっとして仕合はせではないのかい?」
 ヨセフは慌てて決然と否定した。ヤコブは友の心中が計り知れなくなり、堪らず言葉を継いだ。
「ならばよいのだが。いや、実は街で君とマリアさんのことをいろいろ小耳に入れたのだよ。気を悪くしないで応へてくれないか。何でもマリアさんは身重ださうで、間もなく出産といふのは本当かね」
 ヨセフは最早ヤコブの面を見据ゑることが出来なかつた。顔を背けるやうに頷くのが精一杯であつた。そして途切れ勝ちな声でぼそりと応へた。
「うん、その通りなのだよ。あと一月もすれば臨月になるさうだよ。私はさういふことには疎いからどういふものかよくわからないのだが、産婆もさう云ふし、医者もさう告げてくれた」
 ヤコブは街で吹き込まれた噂が真実なことを聞かされ、よもやと思つた我が友の犯した罪を当人から告白されたことに、云ひ知れぬ憤りを感じて、力を落とし打ち拉がれた痛々しい友の姿を情状することなく、抑へ難い叫びを発した。
「だって、君、をかしいではないか。君がマリアさんと結婚したのは半年も昔のことではないだらう! 確かまだ四ケ月くらゐしか経つてゐない筈ぢゃないかね? 一体どういふことなのだね。君たちは婚前交渉を重ねてゐたといふことかね。君らは主の掟を守らず、淫欲に耽つてゐたといふのかね。さあ、答へておくれ。私は君といふ人物を見損なつてゐたのだらうか。君は律法を厳格に遵守し、主の御心に違ふやうなことは絶対にしない男だと思つてゐたのだよ。しかし、君が誘惑に負けたのなら天国への道は狭まつたとは云へ、君はマリアさんを妻に迎へ、主の御前で契りを交はしたのだから、君らの行ひは赦される筈だ。君は乙女を孕ませた責任を取つたのだから、少なくとも私は君を赦し、君を変はらず親友として迎へたいと思ふよ」
 ヤコブは激昂した興奮を抑へることが出来ず一気呵成に吐き出すと、ヨセフを追ひ詰めてしまつたことに気付いて心を暗くした。しかし、自分の寛容に幾分の矜持を覚え、友の助けにならうとする意を芽生えさせた。

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