戯曲『ヨセフ』

登場人物 コロス ナザレの女たちからなる
     ヤコブ 
     ヨセフ 大工、マリアの夫
場所 ナザレの近郊


〔ナザレの女たちからなるコロス登場〕
コロス 楽園を追われ立ち去る祖先らに
    地べた這う誘惑の影しのびより
    禁断の智慧の実食べた引換えに
    永遠にうしなわれたる生命の樹  (読み:生命=いのち)
    あまたるく狡智にたけた囁きで
    よこしまな蛇が選びし弱きもの
    男らを思いどおりにするわざを
    生まれつき身にそなえるそは女

コロスの長 ナザレでは道に外れたことを忌み嫌います。私たち女は常に気をつけて身持ちをよくしていないと、悪い噂にあっという間にのみこまれてしまいます。
コロス 誰かこちらにやってきます。おや、あれはエルサレムに法律を学びに行っていたヤコブではないでしょうか。
〔ヤコブ、登場〕
ヤコブ ようやく生まれ故郷のナザレが見えてきた。三年ぶりだ。何一つ変わっていなくても、心境が違うと見え方も違うものだ。
コロス おお、ヤコブよ、よく帰ってきました。故郷はあなたを温かく迎え入れるでしょう。
ヤコブ さっそく故郷の優しさにふれ、ナザレが変わっていないことに安堵した。
コロス 信心厚いナザレの衆は主の掟を厳しく遵守しています。
ヤコブ それは本当に良いことだ。ところで、私は旧友を訪ねよう思っているのだが。行い正しく邪な考えを持たない大工のヨセフという男で、私とは無二の親友だった。
コロス ああ、大工のヨセフがそなたの友とは。
ヤコブ あなたがた、ヨセフをご存知か。どうしてあなたがたは顔を曇らせたのか。ヨセフに何かあったのか。
コロス ヨセフは妻を娶ったのです。婚礼は四ヶ月前のことでした。
ヤコブ それは喜ばしい知らせではないか。すぐにお祝いを言ってあげたい。相手は誰なのだろう。私の知らない方なのだろうか。
コロス ナザレ一番の器量良しといわれ、白百合とほめ讃えられたマリアです。
ヤコブ 驚いた。マリアさんなら私も何度か見かけたことがある。とても美しい人だから、忘れようがない。それにしても無骨者のヨセフがあのマリアさんと結ばれるなんて想像がつかないな。意外と隅におけないものだ。だが教えてくれないか。何故、あなたがたはヨセフの名を聞いて、表情を暗くしたのか。
コロス マリアは身籠っているのです。大きなお腹は出産間近であることを告げています。
ヤコブ 先程、婚礼は四ヶ月前だと言ったね。すると、ヨセフは結婚する前からマリアさんと関係を持っていたということになるね。あの誠実なヨセフがそのようなことをするとは信じられない。もしかするとマリアさんが誘惑をしたのかもしれない。美しい女の誘惑に打ち勝つのは困難なことだからな。
コロス 私たちは噂を聞いたにすぎません。気紛れな翼を持った噂は、捕まえようとすると遠くへ飛び去って行きます。何ひとつとして真実はわからないまま。ああ、そういっている間にこちらにやって来るのはヨセフその人。
〔大工道具を担ったヨセフ、登場〕
ヨセフ ヤコブではないか。久しぶりだね。君はエルサレムに行って法律を勉強してきたのだろう。何だかとっても立派になったじゃないか。見違えたよ。いつ帰って来たんだい。
ヤコブ 今帰って来たばかりなのさ。君の言う通りエルサレムで三年間学んでいた。実はまだ志半ばなのだが、思うところがあって一旦故郷に帰って来たのさ。数日したらエルサレムに戻る積りだ。だから、君と会えて本当に良かった。ところで聞いたよ、結婚したそうだね。おめでとう。婚礼に列席できなくて本当に残念だった。君はあのマリアさんを娶ったというではないか。この方たちから聞いたよ。
コロス 口さがない女たちのおしゃべりをどうぞ許して下さいね。
ヨセフ 構わないよ。隠しごとは良くないことだ。
ヤコブ 気を悪くしないで答えてくれないか。マリアさんは身重だそうで、間もなく出産というのは本当かね。
ヨセフ うん、その通りなのだ。あと一月もすれば臨月になるそうだ。私はそういうことには疎いからよくわからないけれど、産婆も医者もそう告げてくれたよ。
ヤコブ だけど、君がマリアさんと結婚して、まだ四ヶ月しか経っていないというじゃないか。君らは主の掟を守らず、結婚する前から淫欲に耽っていたのかね。さあ、答えてくれないか。君という人物を見損なっていたのだろうか。君は律法を厳格に遵守し、主の御心に違うようなことは絶対にしない男だと思っていたのだ。とはいえ、乙女を孕ませた責任を取ってマリアさんを妻に迎え、主の御前で正式に契りを交わしたのだから、君らの行いは赦されるはずだ。少なくとも私は君を赦し、君を親友として変わらず迎えたいと思っているのだ。
ヨセフ 違うのだよ。信じておくれ。マリアを孕ませたのは私ではないのだ。
コロス ああ、不吉な予感が。けれども落ち着いて話の続きを聞きましょう。
ヤコブ では、誰の子なのだね。まさか、彼女は何者かによって陵辱されたのか。長引く対パルティア戦争でローマの軍団が各地に駐屯しており、ローマ兵による同様の事件が多発していると聞いた。心優しい君のことだ、傷つけられたマリアさんを憐憫の情で引き取ったというわけかね。
コロス ああ、女にとって奪われた純潔は死に等しい苦しみ。
ヨセフ もしそうだとしたら、マリアは私に嘘を語ったことになる。そのようなことはなかったと思う。それに、襲われたのなら誰かしら異変には気づくはずだよ。
ヤコブ では、誰の子なのだね。そして、何故君は他の男が孕ませた女を妻に迎え入れるのかね。
ヨセフ マリアは不貞をはたらいたわけではないのだよ。マリアを身籠らせたのは聖霊の力なのだ。順を追って話すから、最後まで聞いて欲しい。私たちが婚約を交わした後、しばらくマリアは親戚の家を訪ねていたのだが、ナザレに帰ってきたその日に私の家を訪ねてくれて、マリアの身に起こった奇蹟について語ってくれた。天使ガブリエル様が御姿を現され、主の御子を宿したと御告げになられたそうだ。そして、その子は我らが待ち望んだユダヤの民の救世主となり、ダビデの王座を継承するものになるであろうと天使様はおっしゃったと言うのだ。マリアは主によって選ばれた乙女となり、処女のまま主の御子を身籠ったのだ。奇蹟の様子を語った時のマリアは神々しいばかりの後光に包まれ、正視できないくらいだった。
ヤコブ ああ、ヨセフ! 君はそれを鵜呑みにしたのかい。マリアさんの他にガブリエル様を見た者はいるのかい。私にはどうもわからないよ、マリアさんの話をどこまで信じてよいのか。
ヨセフ 君は何てことを言うのだ! 君は主の御業を信じないのかい。
ヤコブ 君の言葉を信じたい。奇蹟も信じたい。しかし、私はエルサレムに長く滞在し、見聞を広めてきた。我らがユダヤの民はこれまでもエジプトやバビロンやシリアの圧政を耐え忍んできたが、ユダヤを属州とし現在我々を支配しているローマはいささか質が悪い。我らの信仰を強く抑圧することはないとはいえ、享楽的で淫猥なローマの風習が忍び込むのを防ぐ方が厄介な問題なのだ。かてて加えて、悪いことには保身を第一とするヘロデ王はローマに取り入り、誠実なユダヤの民を蔑ろにしている。したたかな王は神殿を立派にすることで愚かな大衆の心を操ることに成功した。かの地ではファリサイ派の連中が厳格な律法遵守を叫び立てているが、一方で似非預言者や偽救世主が現れて民衆をかき乱している。かつての預言者らの言葉も次第に風化し、民衆はついぞ来らない救世主に痺れを切らし始めた。ヨセフ、君の話を信じたい。しかし、私を含め多くの人が突拍子もないことには胡散臭いまなざしを向けてしまうのだ。ユダヤの善良な民は救世主を待ち望んでいるとはいえ、我らの内に真の奇蹟を見た者はひとりもなく、こともあろうに奇蹟を売り物にした詐欺師ばかりが横行し、誰もがうんざりしているのだ。堕落がじわじわと心弱き人たちを蝕み、主の示された掟から遠く隔ってしまってきているのを私はこの目で見てきたのだ。よく考えて見給え、どうしてマリアさんの言葉を素直に受け取られよう。天使のように美しい娘さんだが、マリアさんだってひとりの人間だ。神の子を宿すなんて、人間の為せる業ではないよ。本当は君とマリアさんの子供なのだろう。君らがひた隠しにしたいのもわかる。しかし、主はお見通しだよ。むしろ君たちは偽証罪を上塗りしてしまっているのだよ。罪を言い繕うことをしたら罪を重ねるだけだ。親友だから、こうしてはっきり忠告するのだ。マリアさんと共謀して詐欺師紛いの作り話をしないでおくれ。君を嘘つきと思いたくないのだ。敬虔なナザレの人たちに真実を語るのは確かに勇気のいることだ。でも、ガブリエル様の作り話なぞ通用しないからやめておくれ。ナザレの人たちだって誰も信じていないに違いない。
コロス 淫欲の牢獄に繋がれたあなたを責めはしません。乙女を孕ませた責任を取って妻として正式に迎えたのですから。けれども、偽証は罪を重くするだけですよ。都合の悪いことを闇夜の帳に隠したい気持ちは察します。けれども、あなたは嘘に嘘を重ねて邪な道へと逸れてしまっている。主の御業を騙って暗き罪をまぶしい奇蹟にすりかえようというのですか。いと高き御方はけっしてお赦しになりませんよ。
ヨセフ ナザレの人たちにはガブリエル様の奇蹟のことは話していない。皆が蔭で君の言うようなことをこそこそと噂していたことは知っている。でも、誰も疑念をぶつけてくる者はいなかった。私のことを皆が避けるようにしていた。銘々が勝手にあらぬことを想像しているみたいさ。実は奇蹟の話ははじめて話すのだよ。私は嘘をひとつも言っていない。主に隠れてマリアと快楽に耽ったことなど断じてない。私にとってマリアは余りにも美しく、余りにも清らかで、結婚してからも床を一緒にできやしない、それほどの娘なのだ。天使に祝福されたマリアが私の許に来て奇蹟の成就を告げた時、私はマリアの言葉をそっくりそのまま受け入れるしかなかった。マリアは特別なのだ。天使の御姿を拝むこともできようし、神の子を宿すこともできるのだ。凡庸な人間である私はそう信じるしかないのだ。
ヤコブ 君の気高い愛には頭が下がる。そこまで言うのなら、お腹の子は君の子ではないと信じよう。では、現実に身籠っているマリアさんを孕ませたのは誰なんだ? ここまで話したのだから、うやむやにするのはよそう。真実から目を逸らしてはいけない。もちろん知らなかった方が仕合わせなこともあるだろう。だけど、君は幾許かを知ってしまっている。君の先程からの顔つきを見ていればわかるよ。本心に嘘をつくことは良くないことだ。いずれはっきりすることから一時しのぎで逃れ、自分や周囲を欺き続けるのは卑怯なことではないのかね。真実を見据えるのだ。君は知っているかい。海の向こうのギリシアの人間らは真実だけを捉えようと虚妄と戦ってきた。その結果、ペルシア人の大帝国を滅ぼし、その偉業を継ぐローマ人らは地中海を制圧したのだ。強く生き給え。真実から目を背け、過酷な現実を臆病に避けていては、何も得ぬまま終わってしまう。何も為さぬままいるのは怠惰というのではないのかね。筋道を立て、真実に近づこうではないか。そして、最も良き処し方を考えよう。今より少しでも良く生きることが我々にできる最上の生き方ではないのかね。さあ、逃げないで私の問いに正直に答えておくれ。この人たちの前で嘘はつけないだろう。この人たちと一緒に正しい判断を下そうではないか。
コロス この智慧ある人に従いましょう。思慮深く魂を導きましょう。どんな立派な船も風と波の変調を素早く見抜く船長がいなければ、海の藻屑となるのですから。
ヨセフ 君の言うことが正しいのだろう。偽らないで答えよう。
ヤコブ では聞こう。君とマリアさんはいつ婚約したのかね。
ヨセフ 婚約したのは九ヶ月前だ。
ヤコブ 確か来月にはマリアさんは臨月になるだろうと言っていたね。
ヨセフ そう言われただけで、私には断言できない。
ヤコブ よろしい。ところで、婚約後にマリアさんは親戚の家に行っていたと言ったね。それはどのくらいのことなのかね。
ヨセフ 大体三ヶ月間だ。エインカレムに住んでいるエリザベツという親戚の家に行っていたのだそうだ。エリザベツはもうかなりの年なのだが、今まで子供を授からなかったのが今年になって奇蹟が起こって身籠り、マリアは身重のエリザベツの身の回りの世話をすることになったのだ。
ヤコブ よろしい。さて次はとても重要な質問だ。いつマリアさんはナザレを離れエインカレムへ赴いたのかね。
ヨセフ 婚約して四日後だ。
ヤコブ それでは婚約後すぐに君らは遠く離れて暮らし、それが三ヶ月続いたと言うのだね。来月が臨月と言うことは、ちょうどマリアさんがナザレにいない時期に懐妊した可能性が高い。エインカレムに行っていた時こそ疑惑の期間となる。
コロス ああ、恐ろしい真実が明らかにされようとしている。
ヤコブ 懐妊を知ったのはマリアさんがナザレに帰ってきた時のことだと言ったね。ガブリエル様が現われて受胎をお告げなさったのはいつなのかを知っているのかい。
ヨセフ ナザレを出発する日のことだったそうだよ。実は私はマリアと婚約を交わした日の翌日から一週間の間、仕事でナザレを離れなければならなかったのだ。ナザレに帰って来たらマリアは既に旅立っていたのだ。
ヤコブ なんだかひどい話ではないか。待っていてくれてもいいだろうに。それに話が都合良くできすぎている。
ヨセフ うん。しかし、マリアの出発日は迎えの人の予定で変更できないものだったし、私が仕事で見送りに行けないと嘆いたら、かえって別れの時に辛い思いをさせなくて済むから好都合だと諭してくれたのだ。
ヤコブ それで、マリアさんがナザレに帰って来た時にはもうお腹の中に子供を宿していたというのだね。その間、マリアさんから妊娠について一切知らせがなかったのかね。
ヨセフ うん、そうだ。
ヤコブ 随分ひどい話じゃないか。マリアさんの行動には怪しいところが多すぎるよ。憶測だが、こういうことではないのかね。恐らくマリアさんはナザレを離れている間に男を持ったのだ。もしかすると既に情夫がいて、ナザレを離れて夜伽をする計画があったのかもしれない。
コロス しかし、ヨセフと婚約したのはナザレを離れる前のことですよ。情事に耽ろうとした女が婚約をするものでしょうか。
ヤコブ では、次のように考えれば最もうまく説明がつくのではないか。マリアさんはこの地である男と関係を持ち、図らずも妊娠してしまったことに気づいた。その男とは結婚をすることができないとわかり、困窮したマリアさんは一計を案じた。信仰心篤い君ならば奇蹟の話を信じると踏んで、君を丸め込んだというわけだ。しかも用意周到に三ヶ月間の空白を設けて、奇蹟に荘重さが加わるように演出までしたのだ。奇蹟が身近に起こってはありがたみがないからね。マリアさんは一見とても貞淑そうに見える。しかし、あれだけ美しい人だ。世の中の男どもが放っておくわけがない。私もマリアさんが何某から求愛を受けたとかいう話を少なからず聞いた気がするよ。これまで聞き知った経験で話すのだから怒らないでおくれ。男にちやほやされる美しい女は程度の差はあるだろうが、男の気を引くことに興味を抱いてしまうものなのだよ。だから、自分に無関心な男が現われると腹をたてるのだ。男が自分の美しさに魅了されないはずがないとね。しかし、これは男にも責任がある。男の哀しい性で、美しい女を邪見には扱えないのさ。自分をからかっていると知りながらもひどく喜んでしまうのだからね。君のようにマリアさんを高嶺の花と思い込む純朴な男を手玉にとるのはたやすかったろうよ。マリアさんの愛に骨抜きにされ、マリアさんの言うことなら何でも信じる。君ほど都合のいい男はいないのだ。それにしても、何だって君はマリアさんと大人しく結婚したんだい? 結婚したにもかかわらず、君は未だにマリアさんと寝たことがないのだろう。ひどい話だよ。私はいいように騙されている君が哀れで仕方がない。
コロス かわいそうなヨセフ。マリアはあなたの純粋さを利用したのです。けれども智慧ある人よ、この哀れな心優しいヨセフをこれ以上追いつめないで下さい。真実を正視することは正義に適うこと。しかし、ときに勇気を必要とします。この朴訥とした男に絶望を呈示することは、本当に良いことなのでしょうか。
ヨセフ いいや、良いのだよ。本当のことを話そう。ヤコブ、君の語ったこと全てを私は既に通ってきたのだから。全てを疑った。一度ではない。私はマリアの言葉を全部疑った。信じたくても、ただのひとつだって信じられなかった。最初、見た目には妊娠しているのかわからず、私をからかっているのかとさえ思った。しかし、次第に大きくなりだしたお腹がもはやそのような気休めを受け入れる余地を奪った。何を信じればよいのかをあてどもなく探した。人間の女が主の御子を身籠るということが一番信じ難いことだった。人間は自分に理解できる範囲でしか物事を考えられない。人智を超えた事を目の当りにして、人間は無力なのだ。私も聞いたことがあるのだが、ローマの神々というのは人間と同じ姿をしているそうじゃないか。それと同じで、人間は何でも自分の領域に引きずり降ろして、わからない言葉もなじみのある言葉で置き換えてしまい、何とか方便をつけるのだ。そうでなければ、我々人間は何も知り得ることができないだろう。私だって子供がどうやってできるかくらいは知っている。神の御業なら生まれてくる子供は人間ではないのではないか。考えれば考えるだけ、荒唐無稽な思弁を繰り返すことに嫌気がさしてきた。結局同じところをぐるぐる回るだけで、言葉を変えてわかりかけたものも、最初の考えから一歩も動いていないことを空しく証すだけだった。私は小賢しい考えを捨て、無心にマリアの言葉を信じようとした。しかしその都度、もうひとつの内なる声が襲いかかってきた。君は私の本心の全てを話してくれた。マリアは美しい。どこに行っても言い寄る男が後を断たないはずだ。マリアは心ならずも陵辱されたのかもしれない。あるいはナザレを離れていた間に男を持ったのかもしれない。もともと旦那がいて、夜伽をしていたのかも知れない。いや、君の推測したように、ナザレを離れる前から男を持っていたとするのが最も無理のない当たり前の考えだった。今思えば、マリアに良くない噂があったのは事実だ。既に何人もの男を知っているとも小耳に挟んだが、私は嫌らしい中傷だと取り合わなかった。婚礼の時にマリアの懐妊を見抜いた人たちは、蔭で私たちを忌むような目で見ていたそうだ。そればかりではない。浮いた話がひとつもなかった私の気弱さから、婚前交渉をして女を孕ませるような男ではなく、お腹の子の父親ではないと推測する者までいたそうだ。父なし子の親になり、寝取られ亭主をかって出たと私を憐憫の目で見る者たちもいた。マリアを不義姦通の罪で世間に訴え、石打ちの刑を要求することも私にはできた。私たちは婚約した間柄なのだから、真実がはっきりわからなくともマリアの罪は瞭然としている。君の言う通り私が告発しないことにマリアは賭けたのかもしれない。自分を孕ませた男に捨てられたマリアに残された道は、私を騙すという選択しかなかったのだ。私のように女とは縁遠く、禁欲にも堪えられる男ならば、目を盗んでどんな行ないでもできると考えたのかもしれない。いや、実にその通りなのだ。思惑通り私はマリアと結婚してからも臥所をともにすることができずにいる。私のことを意気地なしと思ってもらって構わない。私の苦しみはつまらない優しさに起因するのだ。私は愚弄されているのだ。平気ではいられないさ。でも、マリアの非を問い正し、罪を咎めることなどけっしてできなかった。私が侮辱や裏切りによる一時の憤りで相手を害し、復讐による代償で満足をえる男ではないといったら嘘になる。だが、私は思うのだ。罪は永遠に消え去りはしない。だから、断罪することは人間の思いあがった行為だと思うのだ。人間が人間を断じることは、犯された罪の解消を暗に意味することになるのではないか。刑罰を行使することで人は赦し、刑罰を受けた人はそれで罪が消えたと考えてしまう。それは間違いだ。罪の意識を消失することで罪がなくなるとは考えたくない。罪は代価で償えるものではなく、生涯背負い続けるものだ。そうでなければ人間に徳性は生まれない。改悛の念こそ徳を生み、永遠に罪の意識を抱き続けることこそ、再び罪過に陥らない唯一の道であるはずだ。だから、私はマリアを責めなかった。真相を追究しなかった。仮にマリアが罪を認めたとしたら私の歎きは決定的なものになるし、本心を欺いてマリアを赦してもマリアの罪は厳然と残る。どちらにしても私はマリアをけっして赦すことはないだろう。徳の最上位に置かれるものとして寛恕を唱える人たちがいる。だが、それはごまかしでしかない。他人が罪の償いを手伝うことはできないのだから、余計なことなのだよ。己の永続する改悛のみが人生を救う唯一の道なのだ。でも正直に告白すると、一時はマリアとの婚約を解消しようと思ったこともあった。マリアが不義密通を犯したのなら、私は世にいう寝取られ亭主、愚弄された亭主で、救いようのないお人好しということになる。もうすぐ赤子も誕生する。私以外の男の様相が次第に刻印されて育つ子供を愛する振りをしなくてはならない。私を騙し遂せたと思い込むマリアへの憎しみも消えることはないだろう。今は過ちを咎めないことができても、次第に増大する怨みを恐れたのだ。主の御前で結婚を誓う前のことだから、婚約解消は正当な行ないのはずだと心に言い聞かせた。逃げ出したら忘れられるかもしれないとまで考えた。しかし、私は美しいマリアを前にすると何もできなかった。私はそれほどマリアを愛してしまっていたのだ。一層のことマリアが私を捨ててくれればよかったのにと何度考えたことだろう。やがてマリアのお腹が大きくなり始めて、このままの状況を続けて行くことはできないと思うようになった。婚礼前にマリアは出産をしてしまう。世間が取り沙汰する前に私が庇ってやらねばならないと考え、私はすぐに婚礼を挙げようと提案した。その時のマリアの嬉しそうな表情は私の救いであった。マリアは私を永遠の夫として選んでくれたのだ。私は自分の選択が正しかったとは思っていない。だが、間違ってもいない。私には定められた宿命を全うするしかなかったのだ。これは私に課せられた試練だと思っている。
コロス 何という痛ましい想いを内に秘めていたことでしょう。過ちを犯した女を受け入れたあなたの強さに圧倒されます。
ヨセフ しかし、この苦しみももうひとつの苦しみに比べれば、ものの比ではないのだ。私は二重の苦しみに堪えているのだ。それは、私の恐ろしい懐疑に潜む不信心という悪魔だ。もし、マリアの言葉が全て本当のことだとしたら、私は主の御業を疑ったということになる。神に選ばれた乙女の言葉を疑い、主の奇蹟を疑った私はもはや天国から閉め出された男だ。けっして主はお赦しになるまい。信仰心まで試されたガブリエル様の話は実に見事だったよ。あなたの新しいヨブにどうして私を選び給うたのかと、主を何度も恨んださ。私は悪魔が仕掛けた罠にうまうまと落ち込んだのだ。あろうことか、愛するマリアの言葉を疑い、偉大な御方の奇蹟を疑った。慌てて私は無心に信じようとした。しかし、その時点で空しい抵抗だったのだ。何度も己が懐疑の矛先をすりかえようとした。私の懐疑は、いと高き御方の奇蹟を否認することとは同一ではないとね。だが、その都度、己の欺瞞に嫌悪を催したよ。私が婚約を破棄せず、身重のマリアと婚礼を挙げた真意はそこにあったといってもよい。マリアとの婚約を解消し、マリアを捨てるようなことをすれば、主の奇蹟を疑ったと表明することになるからね。しかし、それも甲斐なきことさ。疑いを抱いたその時から私の罪は確定していたのだ。いや、君がどう庇ってくれてももう駄目なのだ。真実から目を逸らすなと言ったね。その通りなのだよ。マリアを疑うことは主を疑うことと同じなのだ。私の罪過はこの上なく大きい。気休めはいらないよ。私に与えられる劫罰のことは覚悟しているのだ。懐疑は何の救いももたらさなかった。懐疑に落ち込んだ私は信仰まで失ったのだ。けれども、私は君の言葉を信じるよ。今より少しでも良く生きることが我々にできる最上の生き方だという言葉をね。人の罪を断じることで簡単に満足してしまう人間ではありたくない。そういう人間は自分の罪悪感も持ち続けることはできないだろう。常に苦しむ人間こそが良く生きる方法を見つけて行くはずだ。苦しみから逃げては堕落する。私は永遠に地獄の炎に焼かれながら心に忍び寄る悪魔と対峙し続けるのだ。
コロス ああ、主よ、この義人を憐れみ給え。
ヨセフ ローマ総督殿が人口調査を行うとお触れを出したね。身重のマリアを連れてベツレヘムまで行かねばならない。早くしないとマリアの出産が始まってしまうから、今の仕事の片がつき次第すぐに出発するつもりだ。一週間後にはもうナザレにはいないと思う。だから、君と会えて本当に良かった。君の友情は決して忘れないよ。君のように私の本心を理解し、言葉にならなかった私の懐疑の奥底を引き出してくれたのだから。勇気のなさと逡巡するだけで固まらなかった覚悟を君のお蔭で捉まえることができたよ。私は捨て去ることのない懐疑とともに苦しみながら、主が与え給うた試練を粛々と受けるつもりだ。さあ、すっかり日が暮れてしまった。マリアが待っている。もうこれで行くよ。君は私の一番の親友だ。さようなら。
〔ヨセフ、退場〕
コロス 行ってしまわれた。底なしの闇が瞬く間に呑み込んだように姿はもう見えない。天使に祝福されて光り輝くマリアと同じように、あの哀れな男にも陽が当たることがあるのでしょうか。弁舌優れたるヤコブよ、あの男が最初に主張したように、ただ無心に主の御業を信じることしか救いの道は残されていないのでしょうか。 
ヤコブ ああ、義なる人ヨセフよ。私は自分の無力を感じる。私は自分の独善と偏狭を恥じた。真実を包み隠さずに知ることは正しいことではないのか。私は動揺している。君が言うように、人が人を断罪することでは罪を軽減することはできないし、ましてや罪を帳消しにすることなどできやしない。その点では、我らユダヤの律法もローマの法も無力である。罪が消えないのなら罰に何の意味があろう。それは愚かな人間たちが考えついた復讐の形であり、強者が自分たちの安寧を守るために考え出した保身の形だといえるかもしれない。ひょっとすると、法律とはわかりやすい形をとることで永劫に続く罪の意識から衆人を遠ざけ、絶え間ない覚醒の苦しみから解放してやるための偽善であったのか。怠惰な衆人をひとりでも多く救うために、理由も教えずに掟を守ることだけを諭して民に厳しい真実を隠すためにつくられたものなのか。そうであったとしても、一生涯罪を背負い償いの勤行を続けられる人間ははたしているのだろうか。覚醒したまま、己を過ちから遠く隔て、余人に対しては怒りを抱かないような全き人などどれだけいるのだろうか。君の底なしの懐疑が君に新たな道を示したように、今、この胸中に感じる動揺は私を奮い立たせる。私の信念は、虚妄に惑わされず真実をありのままに見ることであった。ギリシアの哲学者たちのように真実を覆う虚偽の幕を取り去ることであった。私はユダヤの律法を学んできたが、細かい解釈の対立に疑問を呈するようになり、各派の柵にとらわれることなく、客観的な真実を求めるようになった。そんなとき、ギリシアやローマの先進的な思想に触れ、密かに取り入れることを思いついた。そして私はファリサイ派らの限界に気づき、いまにもあらゆる真実を手に入れることができると思い込んだ。だが、君は私を支えてきた信念を揺るがした。智慧の果実が楽園からの追放しかもたらさなかったように、真実を追求して人間が得るものは絶望だけなのかもしれない。だとしたら、真実とは何と残酷なのだろう。だが、そうだとしても私は自分の選んだ道を後には引けないのだ。懐疑に陥り、先に進むことをやめてしまったら何が残るのだろう。智慧は絶望を希望に小賢しくすりかえるだけにしか役立たないかもしれないが、己の信念を貫くしかない。ヨセフ、君のように人間の法を超えた境地に達することはできないかもしれないが、より良く生きるために私もまた内なる偽善と闘い続ける。ヨセフよ、君のような強い人間はこの世から隔絶しているのだ。君は謙遜して自分を凡庸な人間だと称した。しかし、君の人知れぬ闘いのお蔭で我らの子孫はマリアの奇蹟をほめ讃えることになるだろう。我らの時代のヨブよ、君こそ主に選ばれし人であったのだ。君の悲劇的な敗北は偉大な勝利の礎となるであろう。君がいなければマリアの奇蹟は成就されなかったのだ。ああ、義なる人ヨセフよ。
〔ヤコブ、退場〕


コロス 閨の鍵いと高き主に明けわたし
    底なしの暗き嘆きにひしがれる
    義人たる大工の受難かたりつぎ
    とこしえに我らの歌を伝えよう
    後に来る子らの眼であかすのだ
    偉大なる奇蹟の御業舞い降りて
    百合香る処女が宿す主の御子が
    待望の救世主か否かその果てを  (読み:救世主=メシア)
〔コロス、退場〕

※新教出版社「福音と世界12月号」より転載

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