宣言一つ


 文学は死んだ。誰が殺したのかと言へば、20世紀の大衆が殺したのである。文学は万人の為にあるのではない。文学は望んだ者のみが手にすることができ、望まぬ者にとつては虚構に溺れた狂気の沙汰である。かつて文学が力を持ち、武器ともなつた時代があつた。文学は知識を意味し、知識こそが力であつたからだ。一時は剣の前に倒れても必ずや文学は勝利を治めてきた。王や貴族や有産市民たちも、己の性癖に逆らつてまで文学を手元に置かうとしてきた。文学は権力を握る手段であり、富を得る手段であり得たからだ。ところが、文学は専門化された知識によつて領土を次々と失ひ始めた。かつては政治学も経済学も文学と親戚にあつたが、やがて袂を分けた。それでも文学は芸術として気高いに地位にあり、文学者といふ知識階級が輩出され、19世紀には最盛期を迎へた。しかし、20世紀になると、社会が急速に変化してきた。科学の発展が物質文明をもたらし、複製技術の向上は知識の情報化をもたらした。大衆社会を生んだのは溢れる物と情報である。大衆にとつての幸福は物と情報を大量に消費することによつて得られる快感にある。そのために必要な金と時間に最大の敬意が払はれ、新たな神となつた。知識階級の特権は失はれ、文学は高等遊民の慰み物と見なされた。さらに大衆が生み出した大量殺戮兵器の前に文学は何の効力も持たず、アドルノによつて「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」とさえ言はれた。文学は死んだのである。

 わが国においても同様である。日本文学は維新以後、社会変革の一翼を担ふ存在たり得た。しかし、震災と不況と軍部の台頭には抗へなかつた。敗戦後、アメリカに占領されたことは、大衆社会の頭領に占領されたことを意味する。だから、この占領は今もつて続いてゐると言へるのである。日本といふ国家にとつて、ソヴィエト共産主義ではなくアメリカの大衆社会によつて戦後の再建がなされたことは幸運であつたが、文学にとつてはどちらにしろ不幸な運命が約束されてゐた。高度成長期に誕生した日本の大衆たち―件の定義によれば今や国民の全てが大衆とすら言へる―の文学への見解は、それまでとは根本的に異なるものとなつた。文学は娯楽となつたのだ。理解するのが面倒な作品は公然と避けられるか、神棚に上げられ飾りとして埃を被る光栄に浴した。替はつて解りやすく、刺激的な作品が喜ばれた。大衆は退屈を最も恐れるのだ。

 戦後社会において大層読まれた作品だつてある。活字離れが危惧されても、それ以上に活字は繁殖してゐる。作家や評論家といふ職業も立派にある。しかし、戦前の文学とは似て非なるものとなつた。大衆の大衆による大衆のための文学に欠けてゐるのは何か。それは、哲学である。即ち真・善・美の探求が欠けてゐるのだ。古の時代、全ては神話より始まり、神の摂理を語るため、真理を語るため、哲学も文学も誕生した。本来、真理は哲学に語らせるものであるが、抽象が過ぎて十分に語り尽くせないことがある。文学は哲学の命題を芸術の蓑を着て演じ、具象をもつて真理を示すことができる。文学は哲学の使者であるが、主よりも巧みに目的を果たすことが出来る。文学は哲学と比較して、不純で卑俗な面を持つが、芸術的に昇華されれば哲学以上のカタルシスを生むのだ。しかし、時代が下るにつれて、哲学も文学も権威を失つた。神秘とされた宇宙や人体の謎が科学によつて解明されたのと、社会が複雑になり真理は必ずしもひとつではないと考へられるやうになつたからだ。哲学はアポリアの無限地獄に陥り、文学は複雑多様化した社会に迎合するやうなり、登場人物の会話だけで物語を連綿と綴るだけの作品を生産するやうになつた。文学の衰退は人間の退化を意味しないだらうか。唯始まりと終はりがあるだけの作品しか読まない人と『ファウスト』を読む人の間には何の隔たりもないと言へるだらうか。

 現代においても大衆文学ではない作品が書かれなかつたわけではない。優れた文学作品はあり続けたが、大衆文学の洪水に押し流され、霞み、その価値を広く遍かしめる前に消えて行つた。だから、大局を言へば文学は死んで、暗黒時代が訪れたのだ。暗黒時代が到来したのは50年、もしかしたら10年も前のことではないはずだが、現代の10年50年は近代以前の100年500年に相当する。大衆は溢れる物と情報の中で溺れ、哲学なき文学が横行して真の文学が死んだことに無関心であつた。 恐らく文学の死は宿命であつて、それに逆らつてまで再生を試みるのは愚であらう。否、愚であらうと時代錯誤であらうと手をこまねいて見過ごすのは義ではない。

 宣言しよう。再び古典古代の黄金時代を取り戻す為に、新たなルネサンス運動を始めることを。古きをたずねて新しきを知る。一度失はれた価値観だからこそ現在に新鮮な息吹を送り込むことが出来る。規範を古典に求め、古代へ回帰をすることで、再生運動の手始めとし、新たな文学を創設する原動力とするのだ。その文学とは、真・善・美を含んだ全きものでなくてはならない。言葉は真理を語り表すために綴られるべきであり、高貴な芸術として厳しく律された作品を完成させるべきであり、人文主義、芸術至上主義および精神的貴族主義に基づいてゐなくてはならない。更に情報化された知識を人格化する啓蒙運動も含むべきだ。

 かくも抹香臭い前時代的な堅苦しい文学観こそ当の文学を駄目にする黒幕であると反駁する者もゐよう。しかし、文学が転落の一途を辿つたのは、平易な語り口や刺激的な展開を取り込んでゐつたのと期を同一にしてゐないだらうか。この運動は、斯様に考へ文学の死を憂ふ有志によつて推進されるべきもので、大衆文学の牙城を崩し一角を占める勢力を築くことを目的とする。多くの無関心を他所に、それより先の社会運動にまで発展するかどうかは運動の力そのものが決定するものであるから、それを預言することは不遜なことに違ひなく、差し控えよう。それといふのも我々全てが最早大衆であり、この運動が社会への反逆行為に繋がる危険性も含んでゐるからである。限られたよき物とよき情報で満足することが出来た時、我々は大衆を脱却できる。果たしてそのやうなことは我々に可能か否か?

 文学の在り方に憂慮する同志よ、文学の為に集結しようではないか。


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