現代日本語美文序説

序文

 日本語が乱れてゐるといふ。恐らくさうであろう。巷には日本語についてや言葉についての書籍が溢れてをり、一様に正しい日本語を使ひませうといふ目的の為に書かれてゐる。テレビでも誤つた言葉の用ひ方を指摘する番組がある。流行り廃れはあるものの言葉の問題は何時でも惹起され、考察の対象になつてきた。それは言葉が人間が生きる上で欠くことの出来ない重要なものであるからに他ならない。

 私はこれから日本語の何が乱れてをり、何処を直さねばならぬなどと野暮なことを述べる積もりはない。社会が多様化し言葉も目紛しく変化してゐる。用ゐる言葉の何が正しく、何が正しくないかを決めることなぞは暴挙に等しい。言葉は人々が使ふことによつて成り立つものであるから、人々が使ひやすい形へ姿を変へることは、止めることの出来ぬ言葉の生理である。言葉といふものは生き物であつて、絶へず変化するものである。言葉が変容することを止して仕舞つたら、人々がその言語を使はなくなつたことを示すもので、却つて危惧しなくてはならぬことなのだ。過去に使用してきた言葉遣ひと異なるものを誤りとするか否かは人によりけりであるから、騒ぎ立てることは寧ろ大人げないことだらう。多様化し複雑になつた日本語が受容をはみ出して氾濫してゐるから、日本語が乱れてゐると感じるだけなのである。巷間交はされてゐる言葉は刹那に閃き、露のやうに儚く消える。便宜のみを足す為の言葉が荒々しく駆け巡る。何ぞ鞍を着け御すことを望もうか。

 思ふに乱れてゐると感じる原因には、言葉自体にはなく言葉を使う人々にある。日本語が乱れてゐると感じる方は、日本人の言葉への感覚が乱れてゐることを感じてゐる人である。言葉は相手に伝へたいことが伝はればよいと考えてゐる人々は多い。然り。正しく伝はらねば言葉の用は成されたとは云へない。だが、言葉はそのやうな実用主義に基づく道具ではないはずだ。さうでなければ世界で最も通用する英語を話せばよい。斯様な極論が罷り通らないのは、言葉とは立ち現れであり思考や感情の発露であるから、用便だけで片が付く仕儀ではないのだ。我々は余りにも唯言葉を遣ふだけであり、よい言葉を遣ふといふ配慮を怠つてゐないであらうか。日本語が失ひつつあるのは美しい日本語を用ゐようとする心遣ひである。便宜のみが先んじ、日本語の本質などに配慮することなく、漫然と用ゐてゐないだらうか。さうでなければ言葉は記号として生命を失ふ。

 私の論旨は次の一言に集約される。

 美しい日本語こそが正しい日本語である。

 これから美しい日本語とは如何なるものかを熟熟と述べよう。再度述べるが私は日本語の使用方法の誤りを指摘する為にこの頁を書いてゐるのではない。美しい日本語を提示し、失はれつつある日本語の美への感覚を取り戻そうとしてゐるのだ。

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