楽興撰録

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アルトゥーロ・トスカニーニ


アコースティック録音全集(1920年&1921年)
ベートーヴェン/ベルリオーズ/ビゼー/ドニゼッティ/レスピーギ/マスネ/メンデルスゾーン/モーツァルト/ピッツェッティ/ヴォルフ=フェラーリ
ミラノ・スカラ座管弦楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。1920年と1921年にスカラ座管弦楽団と吹き込んだ14曲はトスカニーニによる最初の録音である。電気録音以前の管弦楽録音は拙劣な音質で良識ある者の聴く代物でない。しかし、ニキシュとトスカニーニの残した録音だけは音の貧しさを超えて畏敬の念を与へてくれる数少ない記録なのだ。黄金期のトスカニーニによる音楽は躍動的な覇気に充ち、引き締まつた造形美が瑞々しく、現代の耳で聴いても神々しい―これは録音状態を度外視した誇張ではない。このスカラ座録音にはその後トスカニーニが吹き込まなかつた演目―レスピーギ、ピツェッティ、マスネの3曲を含んでをり珍重される。当盤はトスカニーニを愛好する蒐集家の為のものだが、決してそれだけの価値に終はるものではない。


ケルビーニ:「アナクレオン」序曲
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
ベートーヴェン:交響曲第7番、ミサ・ソレムニス
BBC合唱協会/BBC交響楽団、他
[BBC LEGENDS BBCL 4016-2]

 全てこのBBC LEGENDS盤が初出となつたお宝満載の2枚組。トスカニーニはBBC交響楽団との共演をいたく気に入り数々の名演を残したが、その最初の記録となつた1935年6月3日の記録、ケルビーニ「アナクレオン」序曲から極上の名演で、如何に引退前のトスカニーニが世界最高の指揮者と賞讃されてきたかが諒解出来るだらう。モーツァルトは1935年6月14日の記録、間断なく混入するトスカニーニの声が感興が乗つてゐることを証明する。さて、ベートーヴェンの交響曲は1935年6月12日の記録で、これまで発売されてきた音源―6月14日の記録とされる―とは別物である。演奏はほぼ同じやうに聴こえるが、混入するトスカニーニの声が違ふ。聴衆ノイズも異なるので別日の演奏である。内容は絶品で、これぞトスカニーニのベートーヴェン演奏でも最上位に置かれる名演だ。ミサ・ソレムニスは1939年5月28日の記録で、ジンカ・ミラノフ、キルステン・トルボルク、ニコラ・モスコーナらトスカニーニの薫陶を受けた大歌手らを添へ、晩年1953年のNBC交響楽団とのRCA録音をも上回る最上級の名演である。何よりも緩急自在なしなやかな歌が絶頂期のトスカニーニで、晩年の厳つい堅苦しさとは一線を画す。グローリアの熱気は圧巻。とは云へ、録音状態、合唱や管弦楽の精度を考慮するとこのBBC盤も万全とは云へないのだ。


ケルビーニ:「アナクレオン」序曲
ブラームス:交響曲第4番
ヴァーグナー:ジークフリートの死と葬送行進曲
BBC交響楽団
[West Hill Radio WHRA 6046]

 1935年6月、絶頂期のトスカニーニがBBC交響楽団に客演した際のライヴ録音を集成した4枚組。トスカニーニは創設間もないBBC交響楽団をいたく気に入り度々客演したが、その切っ掛けとなつた最初の共演記録である。1枚目。6月3日か5日の録音。ケルビーニが名演だ。弾力のあるリズムと軽快なテンポ。明るく歌ふ爽快さはイタリア人トスカニーニと作品の相性の良さを感じさせる。ブラームスは唸り声とも形容出来るトスカニーニの顫動する歌声が延々と聴かれ、演奏に激しく没入してゐることがわかる。熱いカンタービレが全曲を支配する演奏で、後年のどの演奏よりもトスカニーニらしい熱演である。一方で曲の陰鬱さはなく、むさ苦しい演奏とも云へる。得意としたヴァーグナーは流石の出来だ。常乍ら完成度の高い演奏だが、印象は案外残らない。


エルガー:エニグマ変奏曲
ヴァーグナー:「ファウスト」序曲、「パルジファル」より第1幕への前奏曲と聖金曜日の音楽
BBC交響楽団
[West Hill Radio WHRA 6046]

 4枚組2枚目。エルガーが6月3日、ヴァーグナーが6月5日の録音。BBC交響楽団は流石に英國の楽団だけあつてエルガーは格別に良い。トスカニーニはこの曲を得意とし、NBC交響楽団との録音も極上の仕上がりであつたが、このしなやかなBBC交響楽団との演奏の方が録音状態を考慮しても上位に置きたい。秘めやかで情感豊かな弦楽器、表現の幅の大きい管楽器や打楽器、曲への理解度の違ひだらうか、決まつてゐるのだ。バルビローリやモントゥーの名演と並べて絶賛したい。ヴァーグナーも素晴らしい。「ファウスト」はNBC交響楽団との演奏も見事であつた。他にアーベントロートくらゐしか名演がないので、トスカニーニが占める王座は変はらない。引退前のトスカニーニの柔軟性は敵なしで、「パルジファル」も雰囲気満点だ。後のNBC交響楽団との生硬な録音とは段違ひの素晴らしさだ。


ジェミニアーニ:合奏協奏曲ト短調作品3-2
ロッシーニ:「セミラーミデ」序曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
BBC交響楽団
[West Hill Radio WHRA 6046]

 4枚組3枚目。6月12日か14日の録音。ジェミニアーニが初出音源となる。この為に蒐集された方も多からう。祖国イタリアの栄光を歌ひ上げる格調高い演奏に姿勢を正す思ひがする。古楽団体らの上つ面を撫でたやうな、様式だけの演奏とは一線を画す真剣勝負の熱演だ。得意のロッシーニも素晴らしい。この曲はNBC交響楽団との壮絶な演奏があるので遜色あるが、動的でしなやかで演奏は黄金時代のトスカニーニの素晴らしさを窺ひ知れる記録なのだ。ベートーヴェンは時期としてもニューヨーク・フィルとの名盤との比較が重要だ。オーケストラの技量とセッション録音であることにより、精度はニューヨーク・フィルの方が上だが、当盤はライヴ特有の熱気があり、色気と感興では上回る。間断なく混入するトスカニーニの歌声が気分の昂揚を物語る。とは云へ、曲想として相応しいのは当盤の方と述べたいが、精緻さを兼ね備へたニューヨーク・フィル盤の優位は揺るがない。


ドビュッシー:海
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」より夜想曲とスケルツォ
ベートーヴェン:「プロメテウスの創造物」序曲
BBC交響楽団
[West Hill Radio WHRA 6046]

 4枚組4枚目。6月12日か14日の録音。ドビュッシーが極上の名演で、後年の演奏と比べても遜色ない。特にポルタメントをたつぷりかけたヴァイオリン独奏の官能的なエロスはシレーヌそのものだ。トスカニーニも絶好調で、震へる歌声が途切れなく混入してをり音楽に没入してゐるのがわかる。モーツァルトはニューヨーク・フィルの録音を超えるものではないが、大変な名演で、第3楽章トリオのしなやかな美しさはトスカニーニ絶頂期の良さを伝へる。イタリア風のセレナードである第2楽章も雰囲気が良い。得意としたメンデルスゾーンの瑞々しさは絶品だ。余白に収録された1939年のセッション録音であるベートーヴェンは格調高く一分の隙もない名演だ。


ベートーヴェン:交響曲第4番、レオノーレ序曲第1番
モーツァルト:「魔笛」序曲
ロッシーニ:「絹のはしご」序曲
ヴェーバー:舞踏への勧誘
BBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。この全集から追加された音源で、かつて英BiddulphからWHL-008/9の品番で発売されてゐた内容と同じだ。これらは正規に発表されたBBC交響楽団とのセッション録音の全てである。ベートーヴェンの第4交響曲は爽快な演奏だが、トスカニーニならではの特徴が出た演奏とは云ひ難く、中途半端な印象を受ける。レオノーレ序曲は好演だが、1939年のNBC交響楽団とのツィクルス・ライヴにおける極上の名演には遠く及ばない。モーツァルトは主部が快速でトスカニーニ流儀だ。弾力のある音楽は最高で、後年の演奏では失つた柔軟性が聴かれる。知る中では最上の演奏かも知れぬ。ロッシーニは後年のNBC交響楽団とはセッション録音を残さなかつた演目なので非常に重要だ。演奏は軽快で理想的、決まつた名演だ。ヴェーバーは特徴が薄く印象に残らない。


ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」、同第1番
ブラームス:悲劇的序曲
BBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。この全集から追加された音源で、かつて英BiddulphからWHL-008/9の品番で発売されてゐた内容と同じだ。これらは正規に発表されたBBC交響楽団とのセッション録音の全てである。田園交響曲が極上の名演だ。溌溂とした音楽にはしなやかな弾力があり、繊細な表情で流麗に紡がれて行く飛び切りの名演。細部にも血が通ひ、特に第2楽章が滅多に聴けない美しさだ。冒頭から情感たつぷりで、小川のせせらぎが見事に表現される中、伸びやかな歌が溢れてゐる。これはトスカニーニが欧州の残した最上の録音である。晩年の猛り狂つた頑迷なトスカニーニ像は真の姿ではない。これが歴史を塗り変へたトスカニーニの骨頂なのだ。第1交響曲は勿論素晴らしいのだが、トスカニーニの他の録音に比べて飛び抜けて優れてはゐない。ブラームスは絶好調だ。マエストロのうち震へる歌声に伴はれて情念が湧き出た音楽が聴ける。


ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、同第8番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。エロイカは1939年10月28日の有名なツィクルス・ライヴを音源とする。創設から2年を経たNBC交響楽団との蜜月の頂点となつたツィクルスで、当日は「フィデリオ」序曲と交響曲第1番も演奏された。熱気が尋常ではなく、譬へるなら真剣勝負、聴く者を射竦める凄まじい演奏で、この演奏をもつてトスカニーニ最高のエロイカとする意見もあるだらう。RCA盤はマスター音源を使用してをり、放送を音源にした他社の商品とは次元の違ふ音質で鑑賞が出来、改めて強い感銘を受けた。とは云へ、1949年のセッション録音や1953年のライヴ録音の音質を上回ることはなく、演奏も厳し過ぎて余裕がなく寸詰まりの嫌ひがある。あとは好みの問題で、音楽の熱さなら当盤が随一だ。第8番は1939年4月17日のセッション録音で、これまた迫力ある熱演である。しかし、演奏は同年11月25日のツィクルス・ライヴ時の結晶し尽くした完成度の高さには僅かに及ばない。


ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲第3番
ヤッシャ・ハイフェッツ(vn)
アルトゥール・ルービンシュタイン(p)
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。20世紀に君臨したマエストロとヴィルティオーゾ2名が共演した大変有名な録音だ。ハイフェッツとの共演は1940年3月11日のライヴ録音。だうしたことか演奏は大人しく、ちつとも面白くない。何よりもトスカニーニが硬く、音楽に精彩がない。ハイフェッツも引き摺られて窮屈な演奏だ。後の録音で聴かれる妖艶で奔放な色気がない。録音も古く楽しめない演奏だ。ルービンシュタインとの共演は1944年10月29日のライヴ録音。こちらの方が聴き応へがある。ルービンシュタインが情熱的で華麗なピアニズムで魅惑する。トスカニーニも弾力のある棒で劇的な音楽で応酬する。但し、両者気合ひが先行して混濁してゐる箇所もあり絶賛は出来ない。


ブラームス:交響曲第1番、セレナード第2番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。交響曲は1941年のセッション録音。この曲の録音は夥しくあるが、当盤を最高とする方も多いだらう。極めて状態の良いセッション録音で、時代を考へれば水準以上の音質であるが、斯様なSP録音を持ち上げるのは歓迎されないかも知れぬ。しかし、この圧倒的な名盤を、凡百の下らない演奏とくだくだ比較する気にはなれない。恐るべきはトスカニーニの気魄で、徹頭徹尾覇気を漲らせ、隙のない音楽を燃え立たせる。NBC交響楽団との関係も良好で、後年のやうな四角張つた硬く老いた演奏ではなく、しなやかなカンタービレを聴かせる。終楽章コーダではコラールに怒濤のやうなティンパニを重ねてをり圧巻だ。無視されることの多いセレナードをトスカニーニは好んで取り上げた。交響曲同様に見事な演奏で、うち震へる歌声が随所に混入する。如何なる曲にも生命を吹き込み、鼓動させるのはトスカニーニだけの藝当なのだ。


シューベルト:グレイト交響曲
シュトラウス:死と変容
フィラデルフィア管弦楽団
[RCA 88697023312]

 創設から5年の蜜月を経て、トスカニーニとNBC交響楽団の関係は急速に悪化し、断絶宣言にまで至つた。その間の1941年から1942年にかけてトスカニーニは名門フィラデルフィア管弦楽団に客演し録音を残した。好敵手ストコフスキーのオーケストラを振つたといふ意外な面白みがある。フィラデルフィア管弦楽団との全録音を収録した3枚組。1枚目。得意としたグレイト交響曲が素晴らしい出来映えだ。特に終楽章コーダのハ音連打直前の燃え上がるクレッシェンドは圧巻だ。2曲ともNBC交響楽団との演奏に比べて、輪郭線の弱い柔らかなフレーズと幾分締まりのないリズムが特徴だ。即ちトスカニーニの趣向が徹底されてゐない所詮は客演の記録と聴くことも出来るし、NBC交響楽団との過激な硬さがない中庸の美を備へた演奏と聴くことも出来る。


ドビュッシー:海、イベリア
レスピーギ:ローマの祭
ベルリオーズ:「ロメオとジュリエット」よりスケルツォ
フィラデルフィア管弦楽団
[RCA 88697023312]

 3枚組。2枚目。トスカニーニが自家薬籠中とした作品ばかりで、充実した名演が繰り広げられる。とは云へ、手兵のNBC交響楽団とは違ひ、トスカニーニの鉄のやうな意志が貫かれてゐない恨みがある。特にレスピーギはNBC交響楽団との不滅の名盤があり、如何なる録音をもつてしても色褪せるのは詮方ないのだ。同様に、ベルリオーズ「マブ女王のスケルツォ」も厳格なアンサンブルといふ点でフィアデルフィア盤に価値を見出すことは出来ない。中では、ドビュッシーが色彩豊かで素晴らしい。管楽器の艶やかな音色と弦楽器の豊麗な合奏は、NBC交響楽団の締め付けの厳しいゆとりのない響きと比べて優位に立てる。取り分けイベリアが良い。


メンデルスゾーン:真夏の夜の夢(7曲)
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
フィラデルフィア管弦楽団
[RCA 88697023312]

 3枚組。3枚目。十八番である「真夏の夜の夢」は独唱・合唱を加へた本格的な録音で、客演としては特例の企画だ。何れの曲も小気味良いリズムが水際立つてをり見事。後年の録音と比べても遜色ない出来だ。得意とした悲愴交響曲も素晴らしい出来だが、第3楽章などは矢張りNBC交響楽団との録音に比べると穏健に聴こえて仕舞ふ。フィラデルフィアでの録音は幾つかの悪条件が重なつて音質が捗々しくなかつたのだが、当盤は原盤からリマスタリングが施されてをり、以前のBMGによる大全集盤に比べて音質改善が図られてゐる。愛好家なら是非とも手元に置いてをきたい。


スメタナ:「売られた花嫁」序曲
マルトゥッチ:交響曲第1番
リスト:「オルフェウス」
ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲、他
NBC交響楽団
[Naxos Historical 8.110818]

 1938年11月26日の実況録音を全て収録。スメタナの「売られた花嫁」序曲は、ライナーの完全無欠な録音に匹敵する豪快な名演。粗暴なきらいはあるが、常に音楽が鼓動し、緊張感を孕んでゐる。マルトゥッチはトスカニーニが使命感を持つて取り組んだ作曲家で、この交響曲第1番は代表的な名演。沸点を越えた情熱に威圧される一方、郷愁豊かなカンタービレにはトスカニーニのうち震へる声が混入してゐる。この演奏唯事ではない。リストの「オルフェウス」は、霊感には不足するがエスプレッシーヴォで壮麗な名演。ラヴェルの「ダスニスとクロエ」第2組曲も熱い演奏で、宛ら決壊寸前の激流のやう。


シューベルト:交響曲第2番
ヴァーグナー:「パルジファル」より
NBC交響楽団
[Naxos Historical 8.110838]

 1940年3月23日の放送録音。トスカニーニはシューベルトの第2交響曲を偏愛してゐたやうで、何と録音が3種も残る。断言するが、第2番に関してはトスカニーニの演奏が最高であり、他の如何なる指揮者の録音も聴く意味がないとすら云へる。兎に角圧倒的な名演で、畳み掛けるやうな快速のテンポで疾駆しながら、ヴァイオリンがあらゆる難所をいとも易々と征服する様には胸がすく。明るいイタリアのシンフォニアのやうな雰囲気を保ちながら豪快で強靭なリズムが躍動する決定的名演である。演奏会後半は「パルジファル」の第1幕前奏曲及び聖金曜日の音楽に加へ、場面転換の音楽とクリングゾールの園が接続され、演奏時間約50分と抜粋の範疇を超えた充実した内容である。凄まじい気魄にたぢろぐ壮絶な演奏で、神秘的な情感には乏しいが、トスカニーニの特色が出た名演である。


ヴァーグナー:「ファウスト」序曲
シューマン:交響曲第2番
マルトゥッチ:追憶の歌
トマジーニ:ヴェネツィアの謝肉祭
ブルーナ・カスターニャ(Ms)
NBC交響楽団
[Naxos Historical 8.110836-37]

 1941年3月29日の実況録音を全て収録。ヴァーグナーの珍品をトスカニーニは好んで取り上げてをり、ここでも雄渾な名演を聴かせてゐる。シューマンはトスカニーニにとつて最も縁遠い作曲家であらう。詩人の夢想は何処を探してもない。凄まじい熱い気魄が漲つた筋肉質の音楽で、己の感性を信じた潔い名演と云へる。第2楽章の旋風は圧巻だ。全曲通じて独自の改変が行はれてをり、トランペットの追加等で最早別物の感が強い。さて、後半のプログラムが興味深い。マルトゥッチのパリアラの詩による全7曲の連作歌曲集は絶妙な浪漫的管弦楽法で瞑想的なメッゾ・ソプラノの歌を包み込む名品である。トマジーニの珍曲はパガニーニが変奏した「ヴェネツィアの謝肉祭」を元に豪華絢爛な管弦楽曲にしたものだ。かういふ曲ではトスカニーニは圧倒的に巧い。


チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」、ピアノ協奏曲第1番
ヴラジミール・ホロヴィッツ(p)
NBC交響楽団
[Naxos Historical 8.110807]

 1941年4月19日の放送音源。トスカニーニは悲愴交響曲を得意とし、録音も数種残る。何れも名演揃ひだが、中でも最高の名演は当盤ではなからうか。トスカニーニがまだ矍鑠としてをり、熱いカンタービレと弾むリズムを保持してゐた頃の演奏である。第1楽章第2主題の郷愁豊かな歌は絶品で、トスカニーニがsentimentalとは無縁だと思ひ込んでゐる方には是非聴いて頂きたい。そして、当然だが第3楽章の凄まじさに圧倒される。小細工なしの王道を行く演奏で、統率力と熱気は無双だ。第3楽章終了後に拍手が起こるのは、アメリカの聴衆だからといふだけではあるまい。トスカニーニの偉大さを素直に喝采しよう。協奏曲はRCAより発売されてゐる2種の録音よりも古い3種目の音源だ。この演奏の翌月にセッション録音が為されてをり、もう1種は演奏、録音ともに最高である1943年のライヴ録音だ。当盤は細部の傷も然程気にならず、白熱した演奏を鑑賞出来る。特に1943年盤では乱調だつた第2楽章が上出来で、美しさと奇想が一体となつた名演である。但し他の2種と比べると音質が若干劣り、強奏部で音が混濁気味なのが残念だ。


ロッシーニ:「チェネレントラ」序曲
シュトラウス:ドン=キホーテ
ベートーヴェン:交響曲第5番
エマヌエル・フォイアマン(vc)
NBC交響楽団
[Guild Historical GHCD 2223]

 1938年10月22日の放送録音。NBC交響楽団との初期の演奏記録に当り、古今東西を通じて最高のオーケストラ演奏を聴くことが出来る。この日の演奏は特に感興が素晴らしく、巨匠トスカニーニの伝説を確認出来る。最初のロッシーニから凄い。晩年の硬化したテンポや和声感覚の乏しい打撃音はなく、リズムが躍動してゐる。底力のあるロッシーニ・クレッシェンドは圧巻だ。フォイアマンとのシュトラウスは大変有名な演奏で、度々商品化されてきたが、音質の良い当盤でこそその凄みを堪能出来る。豪快な演奏は作曲家の意図とは異なるかもしれぬが、圧倒的な情熱の前に呆然となる。ベートーヴェンが物凄い。トスカニーニによる第5交響曲は1939年のツィクルス・ライヴの演奏が最高かと思つてゐたが、当盤はそれを遥かに上回る。怒濤のやうな気魄と火傷しさうなカンタービレ。殊に第4楽章における勝利の進軍は圧巻だ。フルトヴェングラーの最高の演奏を暫し忘れることが出来る唯一の演奏だと誉め讃へよう。


シューベルト:未完成交響曲
シュトラウス:ドン=ファン
ハイドン:協奏交響曲
レスピーギ:パッサカリアとフーガ(バッハ原曲)
NBC交響楽団
[Guild Historical GHCD 2202]

 1939年10月14日の放送録音。NBC交響楽団との蜜月時代の記録で、この直後に伝説的なベートーヴェン・ツィクルスが行はれた。統一感のないプログラムだが、トスカニーニだけの視点を聴くことが出来る。シューベルトが思ひの他名演だ。弾力を失つてゐない1930年代の演奏で音楽に張りがある。実に美しい演奏でトスカニーニ最良の姿がある。シュトラウスも壮麗な名演だ。ハイドンは良くない。独奏陣の調子が悪く―特にヴァイオリン―精度不足の演奏だ。当盤の目玉はバッハの原曲をレスピーギが魔術的な管弦楽法で編曲したパッサカリアとフーガだ。色彩的な一方、トスカニーニの厳格さが絡み壮大な名演が楽しめる。


ベートーヴェン:交響曲第9番、「レオノーレ」序曲第3番
アレクサンダー・キプニス(Bs)、他
テトアロ・コロン管弦楽団と合唱団/ニューヨーク・フィル
[Guild Historical GHCD 2344]

 1941年7月24日、南米ブエノスアイレスのテアトロ・コロンに客演した際の伝説的なライヴ録音である。トスカニーニの残した第9交響曲の記録は当然であるがどれも傑出した出来映えである。その中でもこの演奏は一種特別な狂乱の印象を受ける。一聴すればわかるが、ティンパニが異彩を放つてゐるのだ。トゥッティの響きを突き抜けて暴れ回つてをり、弱音時の音量から考へるにマイクの位置に問題があるのではなく、尋常ならざる太鼓叩きが登場したものと思はれる。第1楽章が凄まじい。ティンパニが冒頭から圧倒的な存在感を出す。展開部に入ると乱れ打ちが過激の一途をたどり、再現部冒頭は雷鳴轟かすゼウスの仕業と云へよう。実に雄弁で表情豊かなのだ。ティンパニが大活躍する第2楽章も圧巻だ。太鼓一色で演奏は終始した感があり、聴衆の熱狂を見事煽つてゐる。しかし、演奏全体としては2年前の1939年のツィクルス・ライヴの方がトスカニーニの意図に最も近い演奏で、当盤は解釈こそほぼ同じとは云へ、精度に欠けるのと、お祭り騒ぎの空虚さが付き纏ふ。余白に1936年4月26日、ニューヨーク・フィルとの序曲第3番が収録されてゐる。貴重な記録だが音が古く演奏も冴えない。


1945年11月13日ガラ・コンサート
ハイドン、レスピーギ、シベリウス、ヴァーグナー、ヴェーバー
ニューヨーク・フィル
[Guild Historical GHCD 2368]

 トスカニーニは1927年から1936年迄ニューヨーク・フィルの常任指揮者であつた。この期間こそがニューヨーク・フィルの黄金期であり、世界最高の管弦楽団の栄誉も戴冠されてゐた。残された録音はその輝きを余す事なく伝へて呉れるものばかりだ。一度は引退を決意し、ニューヨーク・フィルを勇退したトスカニーニだが、NBC交響楽団が用意され、尚も伝説が継続されたことはよく知られてゐる。そのトスカニーニが再びニューヨーク・フィルを指揮した記録が残つてゐる。1945年11月13日、年金基金の為のガラ・コンサートであり、ニューヨーク・フィルとの最後の共演記録となつた。演目はハイドンの交響曲第101番「時計」、レスピーギ「ローマの松」、シベリウス「トゥオネラの白鳥」、ヴァーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、ヴェーバー「オイリアンテ」序曲だ。この多様性に富んだプログラムは1926年1月14日にトスカニーニが初めてニューヨーク・フィルに登場した時のプログラムと全く同じなのだ―レスピーギは米国初演だつた。粋な計らひである。神格化された老マエストロとの再共演といふ一期一会の特別な思ひ入れが込められたのか、演奏は全ての曲が入魂の出来だ。特にレスピーギが圧巻で、終曲の壮大さはNBC交響楽団盤と甲乙付け難い。次いでハイドンが良い。ニューヨーク・フィルとの最初のセッション録音にも選ばれた曲で、トスカニーニが最も愛好したハイドンの曲だらう。当盤の演奏の方が実演ならではの感興があつて素晴らしい。


メンデルスゾーン:スコットランド交響曲、イタリア交響曲、宗教改革交響曲、ヴァイオリン協奏曲、他
ヤッシャ・ハイフェッツ(vn)
NBC交響楽団、他
[Guild Historical GHCD 2358/9]

 トスカニーニがメンデルスゾーン作品を振つた録音を集成した2枚組。唯一の音源であるスコットランド交響曲、フィンガルの洞窟、弦楽五重奏曲第2番第3楽章の編曲が貴重だ。スコットランド交響曲はトスカニーニらしい余情のない強引な演奏で、カンタービレは楽曲に相応しくなく暑苦しいばかりで暴挙に等しい。フィンガルの洞窟は大変素晴らしい演奏で、引き締まつた推進力のある合奏は圧巻だ。五重奏曲は切ない歌が惻々と迫る名曲で、トスカニーニの思ひ入れに咽び泣ける名演だ。美しきメルジーネは2種類ある音源の1947年録音の方で、一気呵成に音楽を運んだ名演だ。真夏の夜の夢から序曲と妖精の合唱は1947年11月1日、RCA盤の3日前の記録である。序曲が凄まじい。低弦の豪快な疾走に呆然となる。宗教改革交響曲は1942年の録音で、1953年のRCA盤と比べると熱気としなやかさで僅かに上を行くが、音質のことを考慮するとRCA盤を凌ぐ価値はないだらう。イタリア交響曲は1954年2月28日の演奏会記録。RCA盤はこの録音と前2日間の録音を編集して作られてゐる。従つて当盤の内容はRCA盤と殆ど同じだが、修正なし一本勝負の迫力がある。トスカニーニ引退直前の総決算とも云ふべき名演。さて、この2枚組の最高の名演はヴァイオリン協奏曲である。兎に角ハイフェッツが巧い。全盛期の輝きに溢れてゐる。目眩がするやうな快速テンポで駆け抜けるが、音色と表情は千変万化し、リズムはしなやかだ。高らかな歌は神々しく、ハイフェッツ最良のメンデルスゾーンであり、他の録音は全く問題にならない。奇蹟的な演奏。


ドビュッシー:イベリア、牧神の午後への前奏曲、海
NBC交響楽団
[Guild Historical GHCD 2271/2]

 1953年2月14日の放送録音。往時ドビュッシーだけでプログラムを組めたのはトスカニーニかアンゲルブレシュトくらゐだらう。最晩年の巨匠による渾身の演奏で、完成度の高さに圧倒される。何よりも録音状態が良いのが有難い。これは録音会場がカーネギー・ホールであることも一役買つてゐる。特に十八番であつた海は最高の演奏のひとつだらう。精緻な合奏と繊細な表情とが張詰めた緊張感の中で持続した奇蹟的な演奏なのだ。当盤は2枚組なのだが、1枚と3分の1、何と90分以上も演奏会前日2月13日に行はれた海のリハーサルが収録されてをり、極度の集中力をもつて臨まれた名高いトスカニーニの練習の様子が窺へる。常に全力で挑む老マエストロが熱気のあまり度々癇癪を爆発させてゐるのが一興だ。


シューベルト:交響曲第2番、4手の為のピアノ・ソナタ「大二重奏曲」D.812(ヨアヒム編曲)
NBC交響楽団
[TESTAMENT SBT 1370]

 圧倒的な名演である第2交響曲は1940年3月23日の放送録音で、Naxos Historicalから発売された音源と全く同じであり割愛する。当盤では大変貴重な記録となる「グランド・デュオ」の録音に注目したい。4手の為のピアノ・ソナタハ長調D.812を、大ヴァイオリニストで作曲家でもあつたヨーゼフ・ヨアヒムがオーケストレーションを施したといふ珍品である。トスカニーニは如何なる曲にも全力をもつて熱い血潮を通はせる。だから、無名の曲、駄曲そして編曲の負ひ目がある曲などでも堂々たる演奏をし、名曲と遜色ない出来映えにする。これはトスカニーニのもっと語られてよい特異な才能である。シューベルトの抒情が交響的に昇華された名演だ。特に終楽章の燃焼は原曲では味はへない魅力がある。


メンデルスゾーン:フィンガルの洞窟、スコットランド交響曲
シューマン:交響曲第2番
NBC交響楽団
[TESTAMENT SBT 1377]

 トスカニーニはメンデルスゾーンを敬愛してをり、様々な作品の録音を残してゐるが、スコットランド交響曲の録音は1つしかない。トスカニーニらしい余情のない強引な演奏で、カンタービレは楽曲に相応しくなく暑苦しいばかりだ。トスカニーニはメンデルスゾーンの古典主義者としての側面を高く評価してゐたのだらうが、この演奏は暴挙に等しい。だが、1945年11月に演奏されたフィンガルの洞窟は大変素晴らしい演奏で、引き締まつた推進力のある合奏は圧巻だ。シューマンはトスカニーニにとつて最も縁遠い作曲家であらう。詩人の夢想は何処を探してもない。1941年3月に演奏された第2交響曲は熱い気魄が漲つた筋肉質の音楽で、己の感性を信じた潔い名演と云へる。


ヴェルディ:「シチリア島の晩鐘」序曲、「ラ・トラヴィアータ」第3幕の前奏曲、「オテロ」バレエ音楽
ロッシーニ:「絹のはしご」序曲
チャイコフスキー:ロメオとジュリエット
ムソルグスキー:展覧会の絵
ミラノ・スカラ座管弦楽団
[La Scala BookStore LSB 0094072]

 トスカニーニ没後50年の2007年に登場したスカラ座管弦楽団とのライヴ録音集。4枚組1枚目。1951年8月8日の記録よりヴェルディ「シチリア島の晩鐘」と「トラヴィアータ」第3幕の前奏曲、1948年9月16日の記録よりロッシーニ「絹のはしご」、ヴェルディ「オテロ」バレエ音楽、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」、ムソルグスキー「展覧会の絵」を収録。ヴェルディの3曲は血飛沫が上がりさうな生命力漲る演奏で、乱れはあるが、躍動感がありNBC交響楽団との演奏と比べても遜色ない。正規録音のないロッシーニは貴重だ。白眉はチャイコフスキーで、噎せ返るやうなカンタービレが尋常ではなく、怒濤のやうな愛の情景には感動を禁じ得ない。録音状態は悪いが、最高の演奏として推挙したい。問題はムソルグスキーだ。編集時のしくじりで全トラックに空白を入れて仕舞つてをり、attacaでは音が断絶される。イタリア人の出鱈目な仕事振りには殆呆れる。それに、この曲にはNBC交響楽団との完璧な演奏があるので、当演奏に大して価値はない。


シュトラウス:死と変容、ドン・ファン
スメタナ:モルダウ
ケルビーニ:「アナクレオン」序曲
ヴァーグナー:「マイスタージンガー」第1幕前奏曲
ミラノ・スカラ座管弦楽団
[La Scala BookStore LSB 0094072]

 トスカニーニ没後50年の2007年に登場したスカラ座管弦楽団とのライヴ録音集。4枚組2枚目。シュトラウス「死と変容」が1946年7月の記録で、スメタナ「モルダウ」、シュトラウス「ドン・ファン」、ケルビーニ「アナクレオン」序曲、ヴァーグナー「マイスタージンガー」第1幕前奏曲は全て1949年9月10日の演奏記録である。録音状態は何れも良くないが、迫真の演奏ばかりで愛好家には喜ばれよう。民族色とは無縁だが情感溢れる音楽が滔滔と流れる「モルダウ」、雄渾な「マイスタージンガー」も良いが、白眉はケルビーニだらう。スカラ座の軽妙なアンサンブルが自在で胸がすく。更に2曲のシュトラウスが素晴らしい。標題を意識しないトスカニーニの棒から噎せ返るやうな色気が立ち上る。


ベートーヴェン:交響曲第1番、「エグモント」序曲、「レオノーレ」序曲第2番
ヴァーグナー:「ローエングリン」第3幕への前奏曲、「タンホイザー」序曲とバッカナール
ミラノ・スカラ座管弦楽団
[La Scala BookStore LSB 0094072]

 トスカニーニ没後50年の2007年に登場したスカラ座管弦楽団とのライヴ録音集。4枚組3枚目。1946年7月7日の演奏会を収録してゐる。音質は乏しいが、演奏は溌剌としてゐる。ベートーヴェンの交響曲第1番はNBC交響楽団の演奏とは違ひ、落ち着いたテンポで風格のある仕上がりだ。管弦楽も良く反応してをり、若々しい音楽を奏でてゐる。「エグモント」序曲と「レオノーレ」序曲第2番も見事だが、NBC交響楽団との名演には及ばない。得意としたヴァーグナーの「ローエングリン」第3幕への前奏曲と「タンホイザー」序曲とバッカナールも熱演だが、NBC交響楽団との名演があるので殆ど魅力はない。


ヴァーグナー
ミラノ・スカラ座管弦楽団
[La Scala BookStore LSB 0094072]

 トスカニーニ没後50年の2007年に登場したスカラ座管弦楽団とのライヴ録音集。4枚組4枚目。伝説的な1952年9月19日のヴァーグナー演奏会で、スカラ座との最後の演奏会としても忘れ難い記録だ。収録演目は「森のささやき」「ジークフリート牧歌」「ラインへの旅」「聖金曜日の音楽」「前奏曲と愛の死」「ヴァルキューレの騎行」だが、「マイスタージンガー」と「葬送行進曲」が欠けてゐる。残念だ。別のレーベルより完全な形で発売されてゐるので、当盤の価値は殆どない。古巣スカラ座との黄金時代の記憶を取り返した、全てが凡庸ならざる名演の連続だ。トスカニーニは最高のヴァーグナー指揮者であつた。


ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、同第1番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 トスカニーニRCA録音全集84枚組。初回プレス品ではエロイカがクレジットされてゐる1949年セッション録音のものではなく、29枚目と同じ1953年ライヴ録音で誤編集されてゐたが、無事目出度く良品と交換した。さて、1949年盤エロイカはトスカニーニが残したベートーヴェンの録音の中でも一際優れた名盤だ。基本的にトスカニーニの演奏はNBC交響楽団との初期の演奏の方が素晴らしく、1939年のライヴ・ツィクルスはRCA盤全集よりも断然音楽が上等であつた。だが、このエロイカに限つて云へばこの1949年盤の完成度が高く、状態の良いセッション録音といふ音質の面でも絶対的に優位である。冒頭の凛々しい和音から熱が漲つてをり、全楽器が全身全霊を込めて力強い音楽を奏でる。これこそ交響曲の醍醐味だ。一度として緊張が途切れることなく雄々しき大熱演が貫かれる。偉大なマエストロの凄みが聴ける代表的名演だ。第1番も同様の名演だが、やや一本調子で、件の1939年ライヴ録音の方が音質を差し引いても躍動感があり緩急の差が新鮮なのだ。


ベートーヴェン:交響曲第7番、同第2番、「エグモント」序曲
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。第7交響曲は1951年、第2交響曲は1949年及び1951年、エグモントは1952年の録音だ。音質は最上級で、半世紀以上前とは思へない臨場感で鑑賞出来る。トスカニーニが最も得意としたベートーヴェンの交響曲は第7番だ。これは最後の総決算とも云へる録音で、激しい燃焼を聴くことが出来る。その一方、直線的な硬い演奏で晩年のトスカニーニに見られる特徴が顕著だ。音は古いがニューヨーク・フィルとのしなやかな演奏を推す向きが多いのも同意出来る。第2番も同様のことが云へる。音は貧しいが1939年のライヴ・ツィクルスでの演奏の方が内容は優れてゐる。エグモントもさうだ。だが、音質の良い当盤の感銘は総合的には勝る。噎せ返るやうなカンタービレは減退したが、熱い合奏の連続に興奮を禁じ得ない。


ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」、同第4番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。田園交響曲は1952年、第4交響曲は1951年の録音。録音状態がモノーラル録音としては完成の域に達してをり、録音会場も8Hスタジオからカーネギー・ホールを使ふやうになつて、トスカニーニの藝術を求め得る最上の状態で鑑賞することが出来る。演奏は晩年の特徴で、筋肉質で厳しい鉄壁のアンサンブルと磨き抜かれた音色による高次元の完成度だ。だが、激賞される一方で、米國の機械文明そのものと嫌厭する聴き手も増えたのも事実だ。正直申せば、たとへ録音が古くても1930年代の演奏の方がしなやかで、色気と情熱があり、噎せ返るカンタービレがあつた。massiveを要求される演目では晩年の方が絶対的な録音を残したが、田園や第4番では整然とした力強い演奏といふ以上の感銘は受けなかつた。


ベートーヴェン:交響曲第5番、同第8番、「レオノーレ」序曲第3番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。第5交響曲はトスカニーニの数多く残る同曲の録音の中で最も不出来な演奏だらう。1952年の晩年の記録で音質は良いが、音楽が硬く、叩きつけるやうなリズム処理、余韻のない和声進行、音の劇的高揚を一切伴はず、精緻な合奏だけが取り柄の演奏なのだ。数へ切れないほど演奏してきた曲で、完璧とも云へる仕上がりなのだが、全く面白くなく、NBC交響楽団もただ音を出したに終始する。戦前のライヴ録音で聴けた正体を失ふやうな感激がこの演奏にはない。同じく1952年の録音だが、打つて変はり第8番は最高級の出来栄えだ。全ての楽器がくつきり聴こえ、常軌を逸した熱血演奏を繰り広げる。特に第1楽章の熱量は流石トスカニーニだ。第2楽章の豪快さも天晴れ。この曲の屈指の名演である。序曲は1939年の高名なライヴ・ツィクルスの録音だ。序曲第3番の演奏は特色が薄く、常套的な演奏に聴こえる。


ベートーヴェン:交響曲第9番
アイリーン・ファーレル(S)/ジャン・ピアース(T)、他
ロバート・ショウ合唱団/NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。トスカニーニには第9交響曲を指揮した録音が幾つも残つてゐるが、1952年3月31日と4月1日にセッション録音された当盤こそが発売を正式に許された正規盤である。確かに凝縮された手堅い名演で、冒頭の6連符の水際立つたアンサンブルの精度を筆頭に、緊張感の途切れることのない剛胆な合奏の連続だ。合唱が最高で、流石はロバート・ショウ、これほど厚みのある統率された合唱は滅多に聴けまい。だが、私見ではこれはトスカニーニ最上の第9交響曲ではない。トスカニーニは1930年代には絶頂期を終へ硬化が始まつた。第9交響曲の最高の演奏は1939年のライヴ・ツィクルスのものだ。1時間と僅かで駆け抜け乍ら緩急自由自在に歌はせた演奏にこそトスカニーニの神髄があつた。比べると当盤はテンポ、リズム、強弱、カンタービレ、全ての面でしなやかさや溌剌さを失つた老人の演奏である。丁寧に聴くと管楽器は全体に乱調で、特にトランペットは酷い。


ブラームス:交響曲第2番、ハイドンの主題による変奏曲、悲劇的序曲
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。交響曲は1952年の録音。一分の隙もない堂々たる演奏で、マエストロが残したこの曲の録音ではフィルハーモニア盤と双璧となる名演だ。総じて明るく、情感豊かなカンタービレ―取り分けヴァイオリン―が煽情的なのが特徴的だ。反面、瞑想するやうな沈思はなく、彷徨ふような幻想の趣はない。だが、トスカニーニの棒で聴くならイタリア風の明朗な田園交響曲として第2交響曲を鑑賞するのが通と云ふものだ。変奏曲も1952年の録音。ニューヨーク・フィル時代から録音を繰り返してきたお得意の曲だ。全体的に推進力のあるテンポを採用し活気に充ちてゐる。一方で、第3変奏ではホルンが先導して揺蕩ふようなルバートを用ゐるなど情感たつぷりな場面もあり素敵だ。悲劇的序曲は1953年の録音。この序曲でも数々の名演を残してきたが、当盤の演奏が最上だ。第2主題の前後で絶妙なルバートがあり、ポルタメントを伴ふ情感を込めたカンタービレで聴かせるのは実に感動的だ。中間部も遅めのテンポで神秘的な響きを作つてをり絶品だ。決定的名演。


ハイドン:交響曲第88番、同第94番、同第98番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。トスカニーニの残したハイドンの録音は高水準の名演ばかりだ。第88番での快速調の第1楽章主部の心地良さは如何ばかりだらう。少々速過ぎる気もするが、細部まで血が通つてをり全ての声部が明瞭だ。一転、第2楽章は遅めのテンポで美しい歌がある。一分の隙もない終楽章の合奏は細部の表情も豊かで完璧。屈指の名演だ。驚愕交響曲は個性が全開だ。第1楽章はこれまた速い。間合ひの妙はないが、決して退屈することはない。生命の塊だ。手抜きなしで演奏された第2楽章も堂々たる名演。最も特徴的なのは疾走するメヌエットで、異常な速さだ。恐らく史上最速だと思ふが説得力がある名演だ。第98番はトスカニーニ盤を決定盤にしても良からう。第1楽章の緊迫した合奏の素晴らしさは別格だ。第2楽章の格調高い情感も立派だ。第4楽章の多彩な表情も最高だ。


ハイドン:交響曲第101番、同第99番、協奏交響曲
NBC交響楽団、他

[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。トスカニーニは時計交響曲を得意とし、録音も最初期から行つてゐた。晩年の録音である当盤は集大成とも云ふべき名演かと思ひきや感銘が弱い。良くも悪くもNBC交響楽団は老いて行くトスカニーニの硬い音楽に染まり過ぎて威圧的で、ハイドンの音楽から優美さや微笑みが消えて仕舞つた。実はこの曲ではニューヨーク・フィルとのセッション録音とライヴ録音の方が断然良いのだ。第99番が名演だ。特に第2楽章での情感の豊かさは美しい。全楽章熱量もあり、音楽が邁進してゐる。ミッシャ・ミシャコフやフランク・ミラーなどの首席奏者を据ゑてのコンチェルタンテは独奏者に然程魅力を感じることは出来ないのだが、トスカニーニの棒の下、表情豊かな演奏を繰り広げてをり、全体的には面白く聴ける。


モーツァルト:「フィガロの結婚」序曲、交響曲第35番「ハフナー」、ファゴット協奏曲、ディヴェルティメント第15番
レナード・シャロウ(fg)
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。モーツァルト作品を集めた1枚。序曲は力技で押した演奏だ。騒々しく落ち着きがないので良くない。ハフナー交響曲はマエストロお得意の曲であり、何種類も録音が残る演目だ。1946年録音の当盤の演奏は硬く強面の演奏だ。第3楽章トリオなど柔和な雰囲気もあるが、全体として余裕がない。矢張りしなやかなリズムが健在してゐたニューヨーク・フィルとの颯爽とした演奏が音の古さを超えて一番良い。ファゴット協奏曲は名手シャロウの独奏。正直申して凡庸だ。何故世紀のマエストロが伴奏をしたのか理解に苦しむ演目と演奏である。ディヴェルティメントも何故録音まであるのか不思議な演目だが、お気に入りの曲だつたのだらうか、このK.287のみ2種類も録音を残してゐる。当盤の中でこれが一番面白く聴けた。イタリアのセレナードのやうに情緒豊かで甘い雰囲気が漏れ出てくるやうだ。古典派の軽妙な作法とは異なるが楽しめた。


モーツァルト:交響曲第39番、同第40番、同第41番「ジュピター」
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。トスカニーニによるモーツァルト演奏の評判は頗る芳しくないが、三大交響曲を通して聴けるこの1枚には毀誉褒貶あるだらう。最も良くないのは第39番だ。冒頭から落ち着きのないテンポと響きで強引に押し捲る無慈悲な演奏だ。第2楽章は気品の欠片もない。第3楽章と第4楽章も余裕がなく、即物的で感興は皆無だ。第40番は幾分控えめに演奏され、悲劇的な情感を漂はせることに成功してゐる。疾風のやうなトスカニーニの流儀は聴かれるが、間合ひもあり悪くはない。とは云へ、名演と称賛するのは憚られる。ジュピター交響曲だけが良い。これは壮麗極まりない名演だ。力感が申し分なく明朗さも備へてをり、実に神々しいのだ。構へ過ぎない第2楽章の淡白さも好感が持てた。フーガの圧倒的な合奏力は品格云々を超えて迫る説得力がある。正統的な演奏ではないが、トスカニーニのジュピター交響曲の演奏は特記すべき名演である。


シューベルト:交響曲第5番、グレイト交響曲
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。第5番1953年の録音。畳み掛けるやうな気迫で筋肉質に仕上げた名演で、ヴァルターの情緒豊かな演奏とは対極的だ。快速のテンポで余情はないが、ケルビーニの交響曲での名演に通ずるイタリア風の乾いた古典的な造形が見事だ。NBC交響楽団の磨かれたアンサンブルが美しく聴き応へ充分だ。グレイト交響曲は数種録音が残るが、これは1947年の録音だ。鋼のやうなリズムと雄大なカンタービレが一体となつたグレイト交響曲は、ドイツ系の指揮者とは趣が異なるが、トスカニーニがしなやかさを完全に失ふ前の演奏で堂々たる名演だ。


シューベルト:未完成交響曲、グレイト交響曲
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。未完成交響曲は1950年、グレイト交響曲は1953年の録音。未完成交響曲はトスカニーニの透徹した音楽創りが結晶した高次元の名演だ。勿論、ドイツの巨匠らが奏でた仄暗い浪漫の発露ではなく、立体的な交響作品として、美しい歌が溢れた曲として聴かせる。グレイト交響曲はトスカニーニが得意とした曲だ。疾駆するやうな速いテンポが凄まじい。熱気で火傷しさうだ。特に第4楽章の熱血振りは尋常ではなく比類のない名演だ。一方、第2楽章は速過ぎて余韻が欠けてゐる。流れるやうなカンタービレは美しいが、小躍りするやうなテンポには違和感が拭へない。第1楽章は速いが強靭で、第3楽章も最速だが歌心に満ちてゐて良い。好き嫌ひは分かれるだらうが、現代の古楽器による演奏を先取りした名演だ。


ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
モーツァルト:交響曲第40番
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。エロイカは1953年12月6日、カーネギー・ホールにおけるライヴ録音。本邦で行はれたXRCD24のマスタリングが使用されてをり、驚異的な音質で鑑賞出来る。残響の少ないことで悪名高い8Hスタジオでの収録でないこともあるだらう、これはトスカニーニの録音の中でも最高級の音質だ。演奏も素晴らしく、最晩年のトスカニーニが残した極上の名演だ。ライヴとは考へられないほど完璧な演奏で、乱れを指摘出来る箇所はひとつもない。1949年のセッション録音とは甲乙付け難いが、臨場感では当盤が断然上だ。但し、この演奏には引退期のトスカニーニならではの硬直化を感じる―無論、強靭な響きと引き締まつたリズムこそがトスカニーニの真骨頂なのだが。若干息苦しく、即物的に傾斜した当盤よりも1949年盤を僅差で好む。モーツァルトは1950年3月12日の録音。猛々しい演奏で曲想からは乖離してゐる。トスカニーニ流儀の謹厳な演奏だが、この曲の理想的な演奏とは云ひ難い。


ヴァーグナー:「神々の黄昏」(抜粋)、「ジークフリート」より森のささやき
ヘレン・トローベル(S)/ラウリッツ・メルヒオール(T)
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。トスカニーニは20世紀最高のヴァーグナー指揮者のひとりであり、ヴェルディ以上に本領を発揮したと断言したい。独墺系以外の外国人として初めてバイロイト音楽祭に招聘されたのもトスカニーニである。米国楽壇で神の如く君臨したトスカニーニの元には、フラグスタートに唯一引けを取らなかつたトローベルと、ジークフリートの権化メルヒオールが顔を揃へた。偉大な二重唱が聴ける「ラインへの旅」の場面は望み得る最高の録音と云へる。勿論クナッパーツブッシュなどの悠然として気位が高く呼吸の深い演奏と比べると含みは少ない。畳み掛ける管弦楽の気魄が凄まじい一方で、他の指揮者からは得られない弱音部での芯の通つた美しさがトスカニーニの美質である。


ヴァーグナー:「ローエングリン」「マイスタージンガー」より第1幕と第3幕への前奏曲、「パルジファル」より第1幕への前奏曲と聖金曜日の音楽、「ファウスト」序曲
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。ヴァーグナーの録音では歌ひ手を伴つたものに価値があるが、世界最高の交響楽団と共に奏でた前奏曲や序曲の演奏もまた巨匠の真価を伝へる優れたものばかりである。特に「ファウスト」序曲を雄渾極まりない名曲の域まで引き上げたのは、トスカニーニの持つ尋常ならざる才能と云へる。次いで感銘深いのは「ローエングリン」第1幕への前奏曲で、研ぎ澄まされた美しさが崇高だ。第3幕への前奏曲における終結部の編曲は悲劇を予見したもので大いに支持したい。得意の「マイスタージンガー」における壮麗な力強さも比類がない。しかし、「パルジファル」ともなるとドイツの指揮者のやうな霊的な瞑想が稀薄で物足りなく感じる。


ヴァーグナー:「タンホイザー」序曲とバッカナール、「神々の黄昏」〜夜明け・ラインへの旅・葬送曲、他
NBC交響楽団
[RCA 88697916312]

 RCA録音全集84枚組。「タンホイザー」のバッカナールこそは、トスカニーニが生涯最後の舞台で、記憶が混乱して途中で棒が止まつて仕舞つた曲である。神のやうな暗譜能力の伝説が崩れ、マエストロが引退を決意した因縁の曲だ。最後の公演の2年前である当録音は沸き立つ生命力と妖し気な官能を融合した屈指の名演である。次いで「神々の黄昏」の名場面が素晴らしい。晩年の演奏ながら録音状態が良いこともあり、トスカニーニの圧倒的な気魄が伝はる。他に「ローエングリン」第1幕前奏曲、「トリスタンとイゾルデ」より愛の死、「ヴァルキューレの騎行」が併録されてゐるが、何れも直情過ぎて最上の演奏とは云ひ難い。


ベートーヴェン:交響曲第8番
ヴァーグナー:「タンホイザー」序曲とバッカナール
ヴェルディ:「運命の力」序曲
NBC交響楽団
[Tahra TAH 624-625]

 2つの公演を収録した2枚組。仏Tahraの驚異的なリマスタリングで世紀のマエストロの音楽を目の当たりに聴くことが出来る。斯様に迫力ある音質でトスカニーニを聴けることは得難い体験だ。1枚目は1952年11月8日の記録で、十八番の演目だけで組まれた興奮間違ひなしの名演の連続。ベートーヴェンは第1楽章の提示部繰り返しを間違へた奏者がゐても何のその、熱気沸騰の名演だ。弦楽器内声の細かい音符が浮き立つ脅威の合奏には完全脱帽だ。1939年のライヴ・ツィクルスに匹敵する極上の名演。ヴァーグナーは嵐のやうな激しさで圧倒されるが、息苦しく手放しでは賞讃出来ない。ヴェルディは流石に巧く、理想的な仕上がりだ。


ベルリオーズ:「イタリアのハロルド」、「宗教裁判官」序曲、「ロメオとジュリエット」より愛の情景、ラコッツィ行進曲
ウィリアム・プリムローズ(va)
NBC交響楽団
[Music&Arts CD-4614]

 プリムローズは数多の指揮者と「イタリアのハロルド」を演奏して録音を残してゐるが、ミュンシュ盤と並びこのトスカニーニ盤の価値が高い。エスプレッシーヴォ極まりないヴィブラートで官能的な生彩を放つ独奏は、トゥッティに埋もれることなく堂に入つた見事なものだ。しかし、恐るべきはトスカニーニの激情で、畳み掛けるやうに圧倒して全体を専横するが、熱い想ひに胸打たれる名演となつてゐる。秘曲「宗教裁判官」序曲でも手抜きをしないトスカニーニの姿勢は偉とすべきだ。駄曲に繁吹き上げる血潮を流し込み、有無を云はせぬ説得力を持たせる藝当は古今無双である。トスカニーニは名盤として誉高い「ロメオとジュリエット」の全曲録音―私見では至高の名演だ―を残してゐるが、愛の情景こそ自家薬籠中とした曲で、当盤の演奏もそれは感動的なものである。


最後の演奏会(1954年4月4日)
ヴァーグナー:「タンホイザー」序曲とバッカナール、他
[Music&Arts CD-3008]

 世紀の大指揮者トスカニーニの余りにも有名な生涯最後の演奏会。気力の限界を感じたトスカニーニは引退を念頭に演奏に臨んだ。恐ろしい集中力で聴き手を圧倒した全盛期の録音と比べると、腑抜けた寂しい演奏ばかりだが、実験的に行はれたステレオ録音によりトスカニーニ藝術の神髄が聴けるといふ意見も尊重したい。特に「ローエングリン」第1幕への前奏曲における透徹した美しさには息を呑む。しかし、「森のささやき」「ラインの旅」は合奏に覇気が感じられず、絶賛は出来ない。そして、問題の「タンホイザー」は曲頭から危ふい演奏で、崩壊寸前の箇所も散見される。トスカニーニ不調の気配を演奏会前に察知した放送局は、予めブラームスの第1交響曲の録音を用意してをき、バッカナールで異変があると差し替へ放送を行つたといふ。尚、当盤は編集されてをり、中断なく演奏されてゐる。終演後、トスカニーニの引退が告げられた。


ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
ドビュッシー:海
エルガー:エニグマ変奏曲、他
ブルーノ・ヴァルター(cond.)/シャルル・ミュンシュ(cond.)/ピエール・モントゥー(cond.)
シンフォニー・オブ・ジ・エア
[Music&Arts CD-1201]

 1957年1月16日、偉大なるトスカニーニが大往生した。1954年にマエストロが引退して柱を失つたNBC交響楽団はシンフォニー・オブ・ジ・エアと改名して活動をしてきたが、2月3日にトスカニーニ追悼演奏会を執り行なつた。マエストロが得意とした楽曲で演目が組まれてゐるのが心憎い。ヴァルター指揮のエロイカは亡きマエストロ張りの雄渾な名演として頓に有名であり何度も商品化されてきたが、当盤は更にミュンシュとモントゥーによる演奏も収録した追悼演奏会の全容である。指揮台の英雄を讃へ葬送行進曲の意味を込めたエロイカの演奏は、随所にヴァルターらしい溜めが入り情念豊かな演奏に仕上がつてゐるが、全体としては覇気漲る直截的な演奏である。剛直過ぎず温和過ぎないエロイカの代表的な名演が誕生した。語り継がれるのも故無き事ではない。トスカニーニが特に愛した海をミュンシュの情熱的な指揮で聴ける。これは完全にミュンシュの海で細部の綻びに頓着せず熱気溢れた演奏を繰り広げる。モントゥーのエルガーが別格の名演だ。モントゥーはエニグマ変奏曲を得意としたが、情操豊かなオーケストラの力量もあり極上の仕上がりとなつた。余白にトスカニーニ引退後に指揮者なしで録音をしたチャイコフスキー「胡桃割り人形」組曲、ベルリオーズ「ローマの謝肉祭」、ヴァーグナー「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲が収録されてゐる。これらはトスカニーニが引退してから半年後、シンフォニー・オブ・ジ・エアとして再出発した公演で披露した演目であり―もう1曲、ドヴォジャークの新世界交響曲があつた―、公演に先立つこと1ヶ月前にセッション録音されたものである。難曲であるベルリオーズを筆頭に指揮者なしとは思へない鉄壁のアンサンブルに驚かされる。NBC交響楽団が世界最高のオーケストラであつたことは疑ふ余地がない。面白い演奏ではないが、指揮者なしで出来る次元を超えてゐる。



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