楽興撰録

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イヴ・ナット


ベートーヴェン:創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80、ピアノ・ソナタ第1番、同第2番、同第3番
[EMI 0946 347826 2 3]

 ナット録音全集15枚組。1枚目。代表的録音であるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の他に、WoO.80の変奏曲が録音されてゐるのが嬉しい。そして、このナット盤こそがこの変奏曲の最高の名盤なのだ。ベートーヴェンの本領は変奏曲にあつた。変奏の過程で舞ひ降りた霊感が生み出す新境地こそがベートーヴェンの藝術の源である。ハ短調といふベートーヴェンの運命の調であるこの曲の価値は高く、緊張感のある劇的な感情がのたうち回つてゐる。華美を排した一徹さはベートーヴェンそのものである。同じハ短調の第32番のソナタとこの変奏曲の名演でナットの名は忘れてはならない。第1番は古色蒼然とした渋い演奏である。楽曲が持つ浪漫的な詠嘆を素つ気なく演奏するナットは品性を保つてをり、知情が一体となつた賢人の演奏である。終楽章の雄渾な演奏に心惹かれる。第2番と第3番は楽曲の隅々まで音楽的な処理を行き届かせた演奏で、転調や経過句に付けた表情の巧さに頭が下がる。しかし、第1楽章などの交響的な盛り上がりを聴かせる見せ場では、技巧的な綻びが見られ、残念だ。晩年の録音の為、全体的に艶のない演奏なのだ。それが、ベートーヴェンらしい剛健さを醸し出してゐるとも云へるのだが。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第4番、同第5番、同第6番、同第7番
[EMI 0946 347826 2 3]

 2枚目。名演は第5番ハ短調だ。変奏曲WoO.80と最後のソナタOp.111同様、ナットはベートーヴェンの運命の調性ハ短調において作曲家と同化したかのやうな名演を繰り広げる。焦燥感と闘争心が凝縮されるが、他のピアニストのやうに音楽が上滑りせず、外連のない荘厳さが備はつてゐる。黒光りする燻し銀のタッチから醸し出される熟成された渋い浪漫が漂ふ最高の名演である。第4番はナットの厳ついタッチが交響的な楽曲の壮大さに合つてゐるのだが、晩年の演奏の為に技巧的に苦しい箇所が散見される。綻びとなつて生彩を欠く場面があるのは残念だ。軽快さが要求される第6番ではナットの重厚な持ち味が活かされず低調だ。名曲第7番では思索的な第2楽章にナットの良さが出てゐるが、全体的に艶の少ない枯れた老人臭い演奏で詰まらない。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、同第9番、同第10番、同第11番
[EMI 0946 347826 2 3]

 3枚目。賢人ナットの演奏は常に渋い。悲愴ソナタの冒頭の曇つた響きはナットといふ音楽家の特性を端的に示す。劇的で浪漫的な表現で弾かれることの多い悲愴ソナタだが、ナットの演奏は無骨で色気の欠片もない。残念なことだが、技巧の切れがないので正直申して面白くない演奏だ。名演に恵まれない第9番が聴き応へがある。重厚なタッチはバックハウス以上で、低音部の支へが立派だ。不器用さがベートーヴェンの音楽に合致したのだ。第10番も素晴らしい。特に第1楽章展開部に熱い昂揚があり、聴き手に迫る。質実剛健とした無骨さは相変はらずだが、音楽が燃えてゐる。第11番も気宇壮大な名演だ。第1楽章展開部及び第3楽章中間部のずしりと重い熱情に頭が下がる。軽佻浮薄とは無縁のピアニズム。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番、同第13番、同第14番「月光」、同第15番
[EMI 0946 347826 2 3]

 4枚目。第12番が最も素晴らしい。色気のない実直なピアニズムが第3楽章の葬送行進曲で絶大な効果を発揮してゐる。荘重な情趣が見事だ。終楽章の無骨な仕上げも良い。この曲の代表的な名演だらう。他の3曲も同様の演奏だが、楽曲の性質上面白みが薄いと云はざるを得ない。特に第13番は幻想曲として形式に嵌らないScherzandoの要素が欲しい。ナットの演奏は踏み外しが少なく、技巧の派手さがないことも感興が弱い原因だ。月光ソナタも真面目な演奏だ。浪漫性を打ち出すことなく、燻し銀の演奏に徹してゐる。終楽章は矢張り技巧の切れがないので物足りない。田園ソナタは訥々とした演奏で、素朴な良さはあるが渋過ぎる。伸びやかな牧歌が聴こえてこず、何とも無愛想な演奏になつて仕舞つてゐる。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第16番、同第17番、同第18番、同第19番
[EMI 0946 347826 2 3]

 5枚目。初期と中期を繋ぐ作品31の3曲の演奏は低調である。ナットのソナタ全集は、巧言令色とは無縁の無骨さがベートーヴェンの本質に迫つてゐるのだが、晩年の録音である為に、技巧の切れが悪く打鍵も鈍重で、指の縺れが随所にある。最も脂の乗つた作品31の曲集では演奏効果が欲しい。素朴な第16番と軽妙な第18番は特に細部の綻びが気になる。若々しさが欲しいのだが、枯れた老人の演奏である。幻想的で感情が優先される第17番はなかなかの名演だ。殊に瞑想的に彷徨ふ楽想では暗い情熱が表出されてをり素晴らしい。第19番が最も良い。平易な曲なので、哲人ナットの想ひが出尽くされてゐる。感傷的な躊躇ひが美しく演奏されてをり名演だ。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第20番、同第21番、同第22番、同第23番「熱情」、同第24番、同第25番
[EMI 0946 347826 2 3]

 6枚目。中期傑作群でのナットの演奏は俄然輝きを帯びる。アパッショナータが素晴らしい。この暗い情熱の噴出は如何ばかりだらう。切迫したクレッシェンドの効果も絶大で、第1楽章では稀有な劇性を表出してゐる。この有名曲は技巧にものを云はせて壮大に弾かれることが多いが、大抵は空虚な演奏が多い。ナットは技巧の切れはないのだが、内に秘めた熱情を聴き手に届けて呉れる数少ない演奏家である。ヴァルトシュタイン・ソナタは生気のある名演で、沸立つテンポ感は絶妙だ。しかし、技巧面で頼りない箇所が気になつて仕舞ふ。指向する所が素晴らしいだけに技が追ひ付いてゐない点が残念だ。第22番は面白くない。コーダの盛り上げが詰まらないからだらう。第24番は良い演奏だと思ふが、感銘の少ない凡庸さも感じる。第25番が屈指の名演だ。特に第2楽章の寂寥感はぞくりとするほど美しい。第20番が極上の名演だ。簡素だが一分の隙もなく実に立派な仕上がりだ。ソナティネとして軽視される曲だが、ナットの演奏で聴くと堂々たる趣がある。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番「告別」、同第27番、同第29番
[EMI 0946 347826 2 3]

 7枚目。哲人ナットの良さは後期作品群で如実となる。静かに瞑想し、沈鬱な気分と甘美な幻想の波間に揺れるピアノの音色は渋く気高い。苛立ちや苦悩の表現も浮薄な感はない。告別ソナタの冒頭の詠嘆はさり気ないだけに臓腑に染み渡る。主部に入つても浮き足立たず一徹な演奏を貫く。終楽章も同様で、最後で聴かせる回想的な溜息も流石だ。特に素晴らしいのが第2楽章で、寂寥感が惻々と胸に迫る様は痛切の極みだ。シュナーベルと共に最右翼に位置する名演だ。第27番も滅多に聴けない見事な演奏だ。第1楽章の溢れる焦燥感の表出が狂ほしく、闘争に力尽きる情感も素晴らしい。朗らかな第2楽章の味はひも良い。首位に置きたい名演だ。第29番が偉大な名演だ。第3楽章の深い表現はソロモンの名盤に肉迫する。第4楽章の気魄も充分で全曲を通じて完成度が高い。最高峰の名演のひとつだ。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番、同第30番、同第31番、同第32番
[EMI 0946 347826 2 3]

 8枚目。誉れ高いナットのソナタ全集を聴くなら後期3大ソナタからをお薦めする。偉大なる哉ナット、かくも深い瞑想と哀しき憧憬、厳しい克己と清らかな諦観を音で表現した音楽家はさうはゐない。最後のハ短調ソナタが大書特筆すべき名盤だ。これはナットのソナタ全集の頂である。冒頭の減七の和音がこれほど痛切に鳴つた演奏があらうか。強烈な打鍵と残響を排したペダリングで切迫感を醸す。主部に突進してからは更に壮絶な闘争の音楽となり、偉大な敗北の舞踏を奏でる。これはナットが最も重要視した曲に相違あるまい、完全に血肉と化した感があり、難曲であり乍ら完璧な演奏だ。第2楽章の描き分けも大胆で創意に溢れてをり、躍動感は振り切れたやうで感動的だ。シュナーベル盤と共にこの曲の最高峰であり、忌憚なく云へば他の演奏は全く問題にならない。他の曲も極上の名演だ。第30番は矢張りシュナーベルに肉迫する別格の演奏。ひとつひとつの音に熱い血潮が流れてをり意義深い。また、沈思した時の高貴な語り口は絶品だ。第31番は最高のひとつだらう。嘆きの歌を支へる和音の表現を聴けば碩学ナットの偉さが解る。終結のフーガの壮麗な昂揚も天晴。第28番も浪漫的な抒情と哀感を漂はせた極上の名演で、この曲屈指の名盤だ。後期作品群の出来はナットが一頭抜きん出てをり、バックハウスもケンプも後塵を拝す。


シューベルト:楽興の時
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番、幻想曲、舟歌、ワルツ第14番
ブラームス:2つのラプソディーOp.79
[EMI 0946 347826 2 3]

 9枚目。ナットの全録音中でショパンが、ドイツの巨匠バックハウスと同様に異色と映じるのだから、実に困つたことだ。最初期のSP録音であるワルツを除いて全て最晩年の録音である為だらう、重く厳ついショパンである。詩情に乏しいが、底から湧き上がる情熱が見事だ。しかし、技巧の危ふさも散見され、決して賞讃出来る演奏ではない。珍品の類ひである。シューベルト作品では楽興の時が唯一の録音だが、仄暗い深遠を彷徨ふ極上の名演だ。重厚なタッチと虚飾のない佇まひによる静謐な音楽は、物悲しさとなつて惻々と胸に去来する。ナットの残した名盤のひとつだ。このやうな格調高い音楽を聴けることは滅多になく、他に録音がないのが残念である。得意としたブラームスは如何なる訳か、落ち着きのない演奏で余り面白くない。


ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ、3つの間奏曲Op.117
シューマン:クライスレリアーナ、3つのロマンス
[EMI 0946 347826 2 3]

 10枚目。録音されたナットのペレルトワールを俯瞰すると、ベートーヴェンとシューマンの次にブラームスが多いことに気付く。フランスのピアニストとは思へぬ趣向だ。定めし洒脱なブラームスであらうと早合点してはならぬ。質実剛健にして幻想溢れる演奏で、ブラームスの懐奥深くに踏み込んだ稀代の名演なのだ。ヘンデル変奏曲はソロモンやケンプやモイセイヴィッチも名盤を残してゐるが、古典的な格調高さと渋みのある情感が一体となつたナットの録音の前には光彩を失ふ。特にフーガの巨大な昂揚は圧巻だ。この曲最高の名盤と云ふのみならず、ナットが残した録音の白眉でもある。間奏曲も見事。得意としたシューマンは勿論素晴らしいが、晩年の演奏なので色気や愛らしさに欠けるきらひがある。クライスレリアーナならコルトー盤を上位に置きたい。


シューマン:ピアノ協奏曲
フランク:交響的変奏曲
ブラームス/リスト/ストラヴィンスキー
ウージェーヌ・ビゴー(cond.)、他
[EMI 0946 347826 2 3]

 14枚目。初期録音集で、最初の録音は1929年に吹き込まれたリストのハンガリー狂詩曲第2番とストラヴィンスキーのペトリューシュカだ。極めて開明的で知性を感じさせる演奏は、面白くはないが如何にもナットらしい。ナットの録音といふとベートーヴェンとシューマンが支柱だが、最初期の録音はフランス人の典型的なレペルトワールから出発してゐるのが興味深い。それにしても、自作を除けば純粋にフランス人作曲家の作品をひとつも録音してゐないことには驚きを通り越して呆れる。1933年録音のシューマンの協奏曲は録音が古く管弦楽も冴えない。コルトーの名盤に比べると理性が働き過ぎ、淡白な演奏に聴こえる。フランクの作品についても同様のことが云へる。ブラームスの間奏曲が名演だが、この曲には再録音がある。


ナット:ピアノ協奏曲、小さな音楽の為に、5つのメロディ
イレーヌ・ジョアシャン(S)
ピエール・デルヴォー(cond.)、他
[EMI 0946 347826 2 3]

 15枚目。フランスの賢人ピアニストであるナットの全録音の中でも初復刻を含む自作自演集は愛好家感涙の逸品である。ピアノ協奏曲は1954年のライヴ録音で、デルヴォーの伴奏である。ラヴェルの協奏曲を想起させる色彩豊かな楽曲で、ベル・エポックの薫り高くも物憂い情感が漂つてをり、聴き応へがある。特に第2楽章の洒落た詩情は繊細で美しい。1929年のSP録音「小さな音楽の為に」は郷愁溢れる愛らしい作品で、エスプリの粋を感じる。更に貴重なのは、1943年に録音された高雅なる名ソプラノのジョアシャンとの「5つのメロディ」で、最初の3曲はナットのピアノ伴奏、残る2曲はミュンシュの指揮による管弦楽伴奏である。最後の曲の詩はナット自身によるもので、多才振りを堪能出来る。2つのインタビューも貴重で、渋みのある肉声はナットの音楽と一致する。


ショパン:ピアノ・ソナタ第2番/シューマン:幻想小曲集/ドビュッシー:仮面/レヴィ:前奏曲第1番/シャブリエ:5つの遺作、ハバネラ、バレエの歌、即興曲、楽しき行進曲
イヴ・ナット(p)/ラザール・レヴィ(p)/マルセル・メイエ(p)
[Tahra TAH 591]

 ピアノ・アーカイヴ第1集。仏Tahraが発掘した稀少録音集だ。フランスの高名なピアニスト3名の貴重な録音が揃ひ踏みする。まず、ナットによるショパンの葬送ソナタだが、初出音源なのだ。1953年3月17日のシャンゼリゼ劇場におけるライヴ録音。ナットのライヴ録音は大変珍しく、久々の新規音源であり、存在だけでも価値がある。ショパンのソナタはこのライヴ録音の直前にセッション録音を残してゐる。当盤は実演だけに瑕も多いが、暗い情熱が爆発してをり聴き応へがある。レヴィによるシューマンは1955年2月のワルシャワでの録音。硬質のピアニズムが聴ける。有り難いのは1929年、グラモフォンへの録音でドビュッシーと自作自演が聴けることだ。シューベルトに接近した詩情豊かな自作が美しい。メイエによるシャブリエは何と初出音源で、1955年、ローマRAIスタジオでの放送録音だ。シャブリエはメイエの十八番で、当盤で聴ける9曲全てをディスコフィル・フランセに録音に残してをり、重複するのだが、愛好家にとつては値千金である。演奏はえも云はれぬ抒情的な逸品である。



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