楽興撰録

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ベンノ・モイセイヴィッチ


シューマン:子供の情景
ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲
ムソルグスキー:展覧会の絵、他
[Naxos Historical 8.110668]

 玄人好みの大家モイセイヴィッチの復刻を丁寧に行つてきたNaxos Historicalによる復刻第1巻目。シューマンとブラームスの変奏曲は1930年の録音。子供の情景の冒頭の思はせ振りな躊躇ひは外連があり過ぎるが、全曲に亘つて御伽話のやうなロマンティシズムを匂はせた名演だ。同時期のコルトーの名盤に押されて全く話題にならなかつたらうが、これだけ個性的な演奏は滅多にない。ブラームスの変奏曲も素晴らしい。カデンツをじっくり聴かせる味はひ深い演奏だ。他に同時期の録音で作品119のインテルメッツォとラプソディーが収録されてゐる。モイセイヴィッチによるブラームスは重厚さよりも甘いロマンを聴かせる。ムソルグスキーは1945年の録音。スラヴ系の楽曲では安定した名演を聴かせてきたモイセイヴィッチだが、展覧会の絵では一風変はつた印象を受ける。ディミュヌエンドを多用し後ろ髪を引かれるやうな寂寥感を漂はせた非常に個性的な抒情豊かな演奏である。貴族的と云ほうか上品な仕上がりである。これはラヴェルを筆頭とする管弦楽編曲の影響を排除したピアニスティックな解釈なのだらう。この曲はホロヴィッツのものだが、全く異なるモイセイヴィッチの録音にも相応の価値はある。


小品録音集
フンメル/ベートーヴェン/ヴェーバー/シューマン/メンデルスゾーン/ヘンゼルト/リスト
[Naxos Historical 8.110669]

 第2巻。1925年〜1941年の録音から小品を編んだもの。過小評価されてゐるモイセイヴィッチだが、当盤を聴けばレシェティツキ門下の逸材であつたことを諒解出来る筈だ。フンメルのロンドは同門のフリードマンの名盤に匹敵する特級品だ。ベートーヴェンのアンダンテ・ファヴォリの熟成された語り口も絶品。ヴェーバーの舞踏への勧誘は珍しいタウジヒ編曲版による演奏で、華麗で装飾的な趣向が燦然たる技巧により見事に征服されてをり圧巻だ。メンデルスゾーンのスケルツォが物凄い。浮遊感を漂はせたルバート、情熱的な打鍵、突発的なクレッシェンドはフリードマン宛らの凄まじさ、目眩く速弾きの呆気にとられる巧さ。この曲の最高の名盤である。リストのハンガリー狂詩曲第2番やイゾルデの愛の死の編曲も無論素晴らしいが、モイセイヴィッチの切り札である「タンホイザー」序曲の編曲に止めを刺す。モイセイヴィッチにはこの曲を演奏した映像も残る。それはあらゆるピアノ演奏の映像の中でも最も驚異に充ちた感動的な記録である。演奏は勿論見事なのだが、旋律での飛び跳ねるタッチや強靭な低音への一撃など動作だけでも感嘆して仕舞ふ。そして、リスト自身が途中休憩を要したほどの大曲を血相ひとつ変へずに弾き熟す余裕。グランドマナーの大家の魅力が凝縮した1枚。


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、同第2番、悲しき歌
フィルハーモニア管弦楽団、他
[Naxos Historical 8.110655]

 第3巻。モイセイヴィッチはラフマニノフを筆頭にロシア・ソヴィエトの作曲家の作品を得意としたが、チャイコフスキーでも素晴らしい名演を残した。余白に収録された「悲しき歌」の熟成された味はひ深さにモイセイヴィチの最良の美質を聴く事が出来る。第1協奏曲は抒情と風格を重んじた玄人受けのする演奏だが、ホロヴィッツらが燃やした焔を聴くことは出来ない。技巧は確かなものの特徴は薄く、語り継がれるべき録音ではない。寧ろ滅多に演奏されることのない第2協奏曲にこそ当盤の価値がある。悠然とした曲想も打つて付けで、グランド・マナーの気高き伝統を具現したかのやうな名演だ。第2楽章の名残惜しい抒情、第3楽章の颯爽たる疾駆には賛辞を惜しまない。


ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番、同第2番、パガニーニの主題による狂詩曲
フィルハーモニア管弦楽団/サー・マルコム・サージェント(cond.)、他
[Naxos Historical 8.110676]

 第4巻。作曲者その人から御墨付きを頂戴した真打モイセイヴィッチによる協奏曲録音。第1番は決定的な自作自演盤に唯一肉薄或いは凌駕出来る録音である。鮮烈なピアニズムと優美なグランド・マナーで風格があり、何よりも呼吸が自然で、楽曲を知り尽くしたといふ信頼感がある。1948年の録音で、音の状態が良いのも好都合だ。競合盤の多い第2番だが、自作自演盤とジャニス盤に継ぐ名盤であると激賞したい。一般には特色の薄い演奏に聴こえるだらうが、作曲家自作自演盤と共にロシアの憂愁を聴かせた玄人好みの演奏なのだ。妥当なテンポ設定が全てを物語る。狂詩曲は随一の演奏と云へる。風雅で貫禄のある音色が自在に変化し、躍動に充ちてゐる。自作自演盤やカペル盤よりも上位に置きたい。しかし、第2番と狂詩曲は戦前の録音で、凡庸な管弦楽伴奏が珠に瑕である。


リスト:ハンガリー幻想曲
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番
グリーグ:ピアノ協奏曲
ロンドン・フィル、他
[Naxos Historical 8.110683]

 第5巻。協奏的作品で編まれてゐる。リストがモイセイヴィッチの本領を見せつける名演。冴え渡る技巧、見事に磨き上げられたタッチから生まれる音の美しさ。困難なパッセージで生命力を維持する力量が素晴らしく、後半の一気呵成に運ぶ昂揚には胸躍る。リストほどではないが、サン=サーンスも気品と情熱が融合した名演で、モイセイヴィッチがスラヴ系のピアニストだと云ふことを忘れて仕舞ふ凛とした情感が素晴らしい。競合盤が多いグリーグも美しい。技巧に溺れず、貴族的なリリシズムで聴かせる格調高い名演だ。清涼な趣を漂はせた弱音は特筆したい。しかし、厳しさには欠け、リパッティのやうな孤高の境地には至つてゐない。


ラフマニノフ:前奏曲集
メットネル:ピアノ・ソナタ第2番
カバレフスキー:ピアノ・ソナタ第3番
プロコフィエフ/ハチャトゥリアン
[Naxos Historical 8.110675]

 第7巻。ラフマニノフは自作の演奏においてモイセイヴィッチを高く評価してをり、当盤はそのことが偽りではないことを証明する名演が目白押しだ。前奏曲は自作自演に比肩する出来だ。モイセイヴィッチにとつて、境遇に共通点が多いメットネルの作品には愛着があつたことだらう。ピアノ・ソナタ第2番は郷愁豊かな佳演。この他、メットネルとの共演も微笑ましい。しかし、当盤で最も聴き応へがあるのがカバレフスキーのピアノ・ソナタ第3番だ。モダニズムが水際立つた技巧により浮かび上がる。余白は更に充実してをり、ハチャトゥリアン「剣の舞」も威勢のいい演奏だが、何よりもプロコフィエフ「悪魔的暗示」が鬼気迫る名演。いと物凄し。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、同第5番「皇帝」
フィルハーモニア管弦楽団/ロンドン・フィル/サー・マルコム・サージェント(cond.)/ジョージ・セル(cond.)
[Naxos Historical 8.110776]

 第8巻。手広いレバートリーが仇となつたのか、モイセイヴィッチがベートーヴェン弾きの大家であつたことは余り認知されてゐない。当盤を聴けば弩級の名盤が埋もれてゐたことに驚かれるだらう。特にハ短調協奏曲が同曲屈指の名演である。端正なタッチで古典的な気品のある美しさを醸し出す一方、仄暗い情熱を秘めながら音楽が前進し、楽曲の核心に迫る。取り分け霊感豊かなカデンツァの演奏は見事だ。第2楽章の真摯な内省と貴族的な抒情も素晴らしい。更にサージェントの伴奏が生気に溢れてをり、この演奏の価値を倍増してゐる。加へて戦後の録音といふこともあり、録音が良いのも幸ひした。第3番に比べると戦前の録音である「皇帝」は音の芯が細く、感銘が落ちる。セルの手堅い伴奏共々立派な演奏だが、モイセイヴィッチ最後の録音となつたサージェントとのライヴ録音の方を推す。


ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、同第14番「月光」、同第21番「ヴァルトシュタイン」、アンダンテ・ファヴォリ、ロンド
スカルラッティ:パストラーレ
ヴェーバー:ピアノ・ソナタ第1番より第4楽章
[Naxos Historical 8.111115]

 第9巻。ショパンやラフマニノフの大家でもあり乍ら、モイセイヴィッチはベートーヴェン演奏の大家でもあるといふ稀有なピアニストだ。シュナーベルやフリードマンを輩出したレシェティツキ門下の逸材であり、強いアゴーギグを用ゐた王道とも云へる劇的なベートーヴェン解釈を聴かせてくれる。自在な緩急を付け、フレーズの終止を重んじ、頂点を目指す強靭な意志を音に表す。充分な技巧を誇るモイセイヴィッチだが、綺麗事に終始することなく、表現の為に野心的な挑戦をしてゐる。悲愴ソナタの第1楽章、月光ソナタの第3楽章、ヴァルトシュタイン・ソナタの第1楽章における曲想の抉りは凄まじい。これぞベートーヴェンの音楽で、3曲とも屈指の名盤だ。繊細かつ大胆な2曲の小品の演奏も見事。ヴェーバーで聴かせる鮮烈な速弾きは流石だ。


アコースティック録音集(1916年〜1925年)
メンデルスゾーン:ピアノ協奏曲第1番、他
ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団/ランドン・ロナルド(cond.)
[Naxos Historical 8.111116]

 第10巻。ショパン作品を除くアコースティック録音を集成してゐる。1916年から1925年にかけての録音で、演目は実に様々。器用さを示す反面、この雑多さ故に名声には災ひした。ラテンの古典作品、ラモー、ダカン、スカルラッティがあると思へば、ロシアのモシュコフスキ、ルビンシテイン、ムソルグスキーも弾き、更にはドビュッシー、ラヴェルまでも並ぶ。この辺りは当時の個性的な巨匠の録音に比べると差して強い印象は残さない。興味深く聴けるのは、終生拘泥はりを持つて弾いたパルムグレンからの3曲「鳥の歌」「海」「フィンランドの踊り」と、師レシェティツキ「練習曲形式のアラベスク」だ。スクリャービン「夜想曲」とドリーブ「パスピエ」も面白からう。さて、モイセイヴィッチの本領が発揮されてゐるのは王道であるドイツ初期ロマン派の楽曲だ。シューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、実に良い。特に憧憬に充ちたリスト編曲のシューマン「春の夜に」は絶品だ。そして唯一の大曲、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番が颯爽としてをり素晴らしい。音は貧しいが今尚語り継ぎたい名演だ。


ショパン:アコースティック録音集(1916〜1922年)
初期電気録音集(1925年〜1927年)
[Naxos Historical 8.111117]

 第11巻。モイセイヴィッチのレパートリーは幅広かつたがショパンは矢張り中核を成す。ショパン録音集の第1巻。機械吹込みの10曲と電気録音初期の9曲が収録されてゐる。収録曲はスケルツォ第2番、バラード第3番、ポロネーズ第9番、唯一のマズルカの録音で遺作の「エミール・ガイヤールに捧ぐ」、子守歌、ノクターン第19番、ワルツが別テイクを含めて4曲、エチュードが4曲、即興曲は第2番が2種類と第1番、前奏曲第20番、それにリスト編曲のいとしき娘だ。演目の中で唯一の録音となるのは子守歌、マズルカ、ワルツ全部、即興曲全部、エチュードのうち2曲、いとしき娘で大変貴重だ。技巧は万全で繊細な詩情を聴かせる理想的なショパンである。優れた演奏ばかりだが、特に印象深かつた名演は詠嘆激しいノクターン、渾身のスケルツォ、侘びしきマズルカだ。ポロネーズやエチュードも端正で素晴らしい。モイセイヴィッチは第一級のショパン弾きだ。


ショパン:24の前奏曲、4つのバラード、幻想即興曲
[Naxos Historical 8.111118]

 第12巻。ショパン録音集第2巻目は前奏曲集、バラード集、そして幻想即興曲だ。前奏曲は1948年から1949年にかけての録音。軽妙なタッチで一気呵成に弾いた印象を受ける。だうかすると雑然と聴こえる。美しい瞬間もあるが、前奏曲集ではモイセイヴィッチの良さは感じ取れなかつた。バラードが素晴らしい。第1番と第3番が1939年の録音、第2番と第4番が1947年の録音だ。壮大な技巧と風格のある気品によるグランド・マナーの演奏で、軽めの打鍵から飛翔するやうな広がりが生み出される。語り口も巧く、4曲とも完成度の高い演奏だ。1952年録音の幻想即興曲も申し分ない名演。


ショパン:舟歌(2種)、ポロネーズ第9番、ノクターン第2番、同第19番、スケルツォ第1番、同第3番、同第4番
メンデルスゾーン:真夏の夜の夢よりスケルツォ
[Naxos Historical 8.110770]

 第13巻。ショパン録音集第3巻目は舟歌とスケルツォが重要だ。舟歌は2種類あり、ひとつは未発表録音で貴重だ。終結部の解釈はやや外連を感じるが、この曲の最高の演奏のひとつだらう。スケルツォは電気録音初期に第2番のみ吹き込んだので当盤には収められてゐないが、一応全集として揃ふ。技巧に定評あるモイセイヴィッチだけに充実した名演ばかりで、特に第1番が絶品だ。ノクターン第2番は唯一の録音。非常に美しい名演だ。ポロネーズとノクターン第19番は再録音で、完成度が高く決定的名演だらう。余白にラフマニノフ編曲による「真夏の夜の夢」のスケルツォが収録されてゐる。これも極上の名演だ。


シューマン:幻想曲、幻想小曲集
ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ
[TESTAMENT SBT 1023]

 英TESTAMENTは活動最初期からモイセイヴィッチの復刻に熱心であつた。網羅的な復刻を行なつたNaxos Historicalも遠慮してか、これらの録音を収蔵しなかつたので重要だ。戦後1952年から1953年にかけての録音で、シューマンとブラームスの極上の名演を堪能出来る。レシェティツキ門下の奏者でこれらの曲の演奏が悪からう筈はない。幻想小曲集は珍しく技巧の綻びも散見され、詩情も平板で特記すべきことのない演奏であるが、幻想曲は奔流のやうな浪漫が押し寄せる稀代の名演で、頭抜けた演奏が少ないこの曲の第一等に挙げて良い名盤だ。ブラームスも素晴らしい。ヘンデル変奏曲はお気に入りの演目のやうで、1930年にも録音がありNaxos Historicalから復刻があつたが、格段に音質の優れた当盤を採るべきだ。凛とした古典的な佇まいから湧き上がる気品に陶然となる。但し、この曲の決定盤の栄冠はナットに帰すべきだ。


シューマン:ピアノ協奏曲、ロマンス第2番、預言の鳥
グリーグ:ピアノ協奏曲
パルムグレン:揺り籠のリフレイン、西フィンランドの踊り
フィルハーモニア管弦楽団/オットー・アッカーマン(cond.)
[TESTAMENT SBT 1187]

 アッカーマン指揮フィルハーモニア管弦楽団と共演したシューマンとグリーグの協奏曲は、1953年のアビー・ロード・スタジオでの録音で、モイセイヴィッチの重要な戦後の大曲録音だ。グリーグは戦前の1941年にも録音してをり再録音になるが、シューマンは唯一の音源なので貴重だ。モイセイヴィッチらしいスノビズムに貫かれてをり、感情に溺れることなく過度な表現をせず取り澄ました上品振つた趣なので、蒐集家以外には凡庸な演奏に聴こえるだらう。技巧にも覇気がなく、アッカーマンが熱意のある情趣豊かな伴奏をするので余計にモイセイヴィッチが平板に聴こえる。しかし、非常に美しく、往年の余裕あるグランドマナーを知る縁となるだらう。シューマンの小品2曲とパルムグレンの小品2曲は1941年の録音で、Naxos Historicalからも復刻があつたので割愛する。


ベートーヴェン:アンダンテ・ファヴォリ、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、同第14番「月光」、同第21番「ヴァルトシュタイン」、ロンド
[APR 5530]

 英APRはモイセイヴィッチの復刻に熱心に取り組んでゐたが、Naxos Historicalが一気呵成に体系的な復刻を進めて仕舞つてからといふもの影が薄い。だが、未発表録音を丁寧に拾つてきたのは流石APRで、今もつて価値を減じてゐない商品もある。当盤もそのひとつで2つの未発表録音を含む。ひとつは悲愴ソナタの第3楽章の別テイク、もうひとつはロンド作品51-1の別テイクだ。他は全てNaxos Historicalでも聴ける。正直な所、別テイクなので印象が殆ど変はらず、優れてゐる訳でもない。蒐集家以外にはだうでもいいことだらう。


ベートーヴェン:アンダンテ・ファヴォリ、ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」、ピアノ協奏曲第3番
ヤッシャ・ハイフェッツ(vn)
フィルハーモニア管弦楽団/サー・マルコム・サージェント(cond.)
[APR 5610]

 モイセイヴィッチの体系的な復刻はNaxos Historicalによつて行はれてゐる。アンダンテ・ファヴォリも協奏曲にも復刻があり別項で述べたので割愛する。さて、モイセイヴィッチの唯一の室内楽録音であり、ハイフェッツとの共演で有名なクロイツェル・ソナタだが、このAPR盤に収録されてゐるのは巷間よく知られた1951年盤ではなく、未発売の1949年盤なのだ。このお蔵入りになつた旧録音だが、一説ではハイフェッツが録り直しを要求したらしい。新旧両盤を聴き比べると何となく理由も解る。ハイフェッツはクロイツェル・ソナタをブルックス・スミスとも録音してゐるが、主従がはっきりし過ぎてゐてバランスが悪いとされ、互角の演奏をしたモイセイヴィッチとの共演盤が高く評価されてきた。しかし、1951年盤もよく聴くとピアノがマイクから遠く輪郭も判然としない。内容もジプシー風の情熱を前面に出したハイフェッツが優位にある。だが、1949年録音盤ではピアノの音がよく録れてをり、モイセイヴィッチの演奏も絶好調で主導権を握つてゐる。老巧な表情付けはレシェティツキ門下の奥義に他ならない。逆にハイフェッツは端正で大人しい。実に皮肉なことだが、総合的にはこの旧盤の方が優れてゐると思ふ。


実況録音集(1954〜60年)
ショパン/バッハ/シューベルト/リスト/ストラヴィンスキー
[ARBITER 120]

 モイセイヴィッチのライヴ録音は殆ど商品化されてゐないので大変貴重だ。ショパン作品はバラード第2番、スケルツォ第2番、ノクターン第12番、前奏曲から2曲で、品格あるグランドマナーの典型のやうな名演ばかりだ。強音で聴かせる火を噴くやうな激情と弱音における繊細な気品には感服する。ライヴ故に酷いミスタッチや誤摩化しがあるが、斯様な傷を相殺出来るほどのショパンの懐に入り込んだ名演なのだ。特にバラードとスケルツォに胸打たれた。ショパンと並んで素晴らしいのが切り札としたリスト編曲のヴァーグナー「タンホイザー」序曲で、気宇壮大な交響楽的音響の創造には圧倒される。バッハ「幻想曲とフーガ」は途中欠落があるのが残念だ。ストラヴィンスキーの練習曲における技巧の切れも見事だ。余白にラフマニノフの思ひ出を語つたインタヴューが収録されてをり、愛好家必携の1枚だ。


ディーリアス:ピアノ協奏曲
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲、ピアノ協奏曲第2番
BBC交響楽団/サー・マルコム・サージェント(cond.)、他
[Guild Historical GHCD 2326]

 ディーリアスとラフマニノフの狂詩曲は1955年のプロムスにおけるライヴ録音である。ディーリアスの協奏曲のセッション録音は決定的名盤として繰り返し発売されてきた。英國に帰化したモイセイヴィッチが滔滔とディーリアスの抒情を奏でる。確かな技巧から生み出される音色の美しさと含蓄のある語り口は絶品で、ライヴ録音での感興も乗つてゐる。何よりも名指揮者サージェントの伴奏が立派で、セッション録音よりも遥かに素晴らしい。同様にラフマニノフの狂詩曲もサージェントの指揮の御蔭で格段に仕上がりが良い。セッション録音は戦前の録音だつたので、当盤の価値は高い。モイセイヴィッチの出来は甲乙付け難いが、より自在で多彩な表情を聴かせた当盤を推したい。狂詩曲の演奏では最上位に置きたい極上の名演である。ラフマニノフの第2協奏曲はHMVへのセッション録音で、Naxos Historicalなどから復刻がされてゐる。別項で述べたので割愛する。


ベートーヴェン:アンダンテ・ファヴォリ
ショパン:エチュード(5曲)、ピアノ・ソナタ第3番、舟歌、幻想即興曲
ムソルグスキー:展覧会の絵
[Pearl GEMM CDS 9192]

 当盤が全て初出となる大変貴重な1961年1月から2月にかけてのライヴ音源集2枚組。最晩年の記録だ。アンダンテ・ファヴォリはモイセイヴィッチが得意とした演目で録音も3種類以上ある。セッション録音を超える出来ではないが格調高い名演だ。ショパンのエチュードは作品10から3曲、作品25から2曲で、ヘ長調Op.10-8、ヘ短調Op.10-9、ヘ短調Op.25-2は唯一の演目で貴重だ。だが、モイセイヴィッチはエチュードの録音自体少なく、得意としてゐなかつたのか、しくじりが多い演奏ばかりだ。ライヴとは云へ完成度が低く満足出来る内容ではない。唯一の音源となる大曲ロ短調ソナタが重要だ。エチュードとは違ひ曲を手中に収めてをり、グランド・マナーを聴かせて呉れる名演だ。無造作に弾いてゐるやうだが、深い詠嘆が聴こえてくる。渋い美しいがを秘めた名演なのだ。舟歌と幻想即興曲は素晴らしいセンション録音があるが、緩急の差が大きい当盤も見事だ。ムソルグスキーにもセッション録音があるが、当盤の演奏は極めて自由自在、多彩な表情で聴かせる。ライヴ故の細部に綻びはあるが、全体としては起伏の大きい刺激の多い名演と云へる。


シューマン:交響的練習曲、クライスレリアーナ、謝肉祭
パルムグレン:西フィンランドの踊り
[Pearl GEMM CDS 9192]

 当盤が全て初出となる大変貴重な1961年1月から2月にかけてのライヴ音源集2枚組。2枚目はシューマンの大曲が収められた重要な1枚だ。小品や抜き出し録音が幾つかある程度だつたのが、晩年の1961年にライヴとは云へ大曲の記録を残せた。この他にも子供の情景やアラベスクも残したので、主要曲の録音はほぼ揃ふことになる。有難い。シューマンはモイセイヴィッチにとつて非常に相性の良い作曲家である。ムラっ気がある点でテンペラメントが共通するのかも知れぬ。実演だけにミスタッチも散見されるが溢れ出る情念が上塗りする。焦り、憧憬、苛立ち、期待、夢想、諦観、万華鏡のやうな表現が凝縮しては拡散する。これぞシューマンだ。3曲とも絶品だが、特に感情の振れ幅が大きい難曲クライスレリアーナの表現は抜きん出てゐる。シューマン弾きとして一般の認知は低いだらうが、モイセイヴィッチは語り落としてはいけない。パルムグレンの小品が小粋だ。モイセイヴィッチお気に入りの作曲家で、何曲も録音があるが、この曲は特にお気に入りらしく3種類も録音が存在する。


ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
BBC交響楽団/サー・マルコム・サージェント(cond.)
[BBC LEGENDS BBCL 4074-2]

 ラフマニノフが1956年、ベートーヴェンが1963年の記録で、「皇帝」はモイセイヴィッチの死の1ヶ月前、生涯最後の演奏記録である。そして、このベートーヴェンこそ知られざる名演として特筆したい出来なのだ。粒立ちの美しい気品あるタッチと悠然としたフレーズが醸し出す風格で玄人好みの名演を成し遂げてゐる。「皇帝」にはセルとのセッション録音があるが、当盤の方が断然素晴らしい。ラフマニノフは英国聴衆が好む貴族的な演奏で、第2楽章の高貴な感傷が美しい。両端楽章もソノリティを重んじた格調高い名演なのだが、濃密な演奏や華々しい演奏を好む向きには喰ひ足りないかも知れぬ。名指揮者サージェントの伴奏は両曲とも万全だ。総譜の読みが心憎く統率力が高いので聴く度に新鮮な喜びがある。何よりも生気に溢れた音楽運びがよい。



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