楽興撰録

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ヴィルヘルム・ケンプ


モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番、同第15番
カール・ミュンヒンガー(cond.)
[DG 474 383-2]

 ケンプの心技が充実してゐた頃に行はれたDecca録音の逸品。ケンプはバッハやモーツァルトも沢山弾いたが録音は多くないので興味深い。第9番の冒頭からおっとりとした温もりのあるピアノが滋味豊かに奏でられる。締まりのない退屈な演奏になるのではないかといふ予感は杞憂に過ぎない。浪漫溢れる音楽でありながら、気品ある佇まいが全体に凛とした情感を漂はせ、愛くるしい歌と繊細な転調が聴く物を幸福にして呉れる。左手のアルペジオの詩情は殊に美しい。第9番でこれほど多彩な表情を聴かせた演奏は数少なく、屈指の演奏として推奨したい。第15番も同様の名演で、競合盤が少ないこともあり、ケンプ盤を代表的名演とするのに躊躇はない。ミュンヒンガーの伴奏も極上で、細部まで上品かつ快活な音楽を聴かせて呉れる。様式美を超えた格調高さに心打たれる1枚。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番、同第2番
ベルリン・フィル/パウル・ファン・ケンペン(cond.)
[DG 474 383-2]

 ケンプの代表盤であるケンペンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲録音。2曲とも細部の美しさを極限まで引き出した名演だ。ケンプよりも上手に弾く奏者は沢山ゐるが、音楽のカデンツを疎かにした演奏が殆どだ。ケンプは作品が内包する自然な呼吸を感じさせて呉れる。技巧も全盛期だから安定感があり、絶妙なペダリングに裏打ちされた弱音のまろやかなタッチは真珠のやうに可憐で美しい。ケンペンに統率されたベルリン・フィルもフルトヴェングラー時代特有の情緒的な見事なアンサンブルを聴かせる。これらの演奏は何よりもケンプ自身による独創的なカデンツァが素晴らしい。極上のモノーラル録音で、バックハウスの全集盤よりも上位に置きたい。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、同第5番「皇帝」
ベルリン・フィル/パウル・ファン・ケンペン(cond.)
[DG 474 383-2]

 ケンプの代表盤であるケンペンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲録音。1953年のモノーラル録音だが、音質は極上である。ケンペンの手堅い指揮が素晴らしく、何よりも黄金時代のベルリン・フィルの底光りする響きが神々しい。カデンツを重視し、音楽の方向性を自然な感情の揺れで表現したケンプの演奏も絶妙だ。劇的な感情と内省的な詩情を聴かせる第3番が素晴らしく、弱音で聴かせるタッチの美しさは神韻を帯びる。皇帝協奏曲は力強く粒立ちの美しい打鍵が見事だが、華麗な曲だけにケンプの資質には不向きで、演奏の特徴も薄く、全集の中では映えない出来だ。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
パウル・ファン・ケンペン(cond.)/フランツ・コンヴィチュニー(cond.)
[DG 474 383-2]

 ケンプの代表盤であるケンペンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲録音の中でも第4番は相性が良く、全体に溢れる詩情豊かな抒情美と込上げる昂揚感は真に素晴らしい。独創的なカデンツァで聴かせる幻想も見事。指の強さが均一でないからだらうスケールを弾く時に打鍵が不揃ひで滑らかさに欠けるが、音色と表情を刻々と変へて行く技量は巨匠の技である。数多ある録音の中でも最上位に置かれるべき名盤。情感豊かなケンプはブラームスを得意とした。第1協奏曲は浪漫的な幻想を漂はせた名演で技巧と覇気も申し分ない。しかし、この曲にはバックハウスの天晴な名盤がある故、比べると甘口で生温く聴こえる。


シューマン:ピアノ協奏曲
リスト:ピアノ協奏曲第1番、同第2番
ヨーゼフ・クリップス(cond.)/アナトール・フィストゥラーリ(cond.)
[DG 474 383-2]

 ケンプが得意としたシューマンの協奏曲を全盛期の1953年の録音で聴ける。シューマンの名演奏家はフランスに多く、コルトー、ナット、類してリパッティなどがすぐに挙るが、ドイツの演奏家ではケンプの独擅場と云へる。香るやうなロマンティシズム、外連のない詩情は流石だ。コルトーらの録音を差し置くものではないが、代表的な演奏として永く聴きたい。ケンプには珍しいリストの協奏曲の録音は興味深い。楽曲から叙事詩のやうな壮麗な美しさを引き出してをり、シューマン以上の名演を展開してゐる。瞑想する趣から巧みな高揚感まで情操の幅が広い名盤である。第2番は特に見事だ。尚、これらは全てDeccaへの録音である。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調、5つのピアノ曲(ピアノ・ソナタ第3番ホ長調)
[DG 463 766-2]

 ケンプの代表的名盤であるソナタ全集録音。最後のソナタはライヴも含め数種録音が残るのだが、当盤の演奏は中でもやや低調だと感じる。丁寧だが覇気がなく、抒情に溢れてゐるが停滞感がより強い。技巧も切れがなく、折角の全集としての録音ではあるが、他の録音を求めた方が良い。第3番とされる5つのピアノ曲にケンプの良さが凝縮されてゐる。素朴な楽曲に込められた淡い詩情を情感豊かに紡いで行く。第3楽章アダージョでもの悲しい憂ひへと沈み込む転調の妙は実に美しい。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番ハ短調、同第20番イ長調
[DG 463 766-2]

 ケンプの代表的名盤であるソナタ全集録音。シューベルトもベートーヴェン同様に最後の3大ソナタで総決算ともいふべき境地を示した。名曲故に競合盤も多くなるが、歌心と抒情を生来持ち合はせたピアニストであるケンプの楽曲との相性は格別で、惻々と胸に迫る寂寥感は作曲家の懐に入り込んでゐる。シューベルトがロンド楽章で得意としたタランテラによる第4楽章が印象的なハ短調ソナタでは、暗い焦燥感を見事に描いてゐる。取り分け第2楽章中間部の寂寞とした侘しさにケンプの美質を端的に聴けるであらう。イ長調ソナタも陰影の深い極上の名演だ。しかし、この曲には偉大なる開拓者シュナーベルの決定的名盤があり、特に第2楽章中間部において聴かせた神聖なる火花は他の如何なる奏者も超えることが出来ない。ケンプも大変な名演でありながら分が悪い。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番ト長調「幻想」、同第17番ニ長調
[DG 463 766-2]

 ケンプの代表的名盤であるソナタ全集録音。幻想ソナタが素晴らしい出来だ。新緑の息吹のやうな冒頭の語り口から温かい音楽が広がる。第2楽章の寂寥感漂ふ独白も美しい。終楽章の終結部の名残惜しい爽やかなタッチは絶品だ。ケンプのやうに自然な呼吸や体温を感じさせるピアニストは数へるだけしかゐまい。音符が簡素であればある程ケンプの音は含みを持つ。ニ長調ソナタも大変明朗な名演だが、この曲にはシュナーベルの絶対的な名盤があり、ケンプ盤が後塵を拝するのは止むを得ない。シュナーベルと比べると和声の進行やフレーズの創造的構築に聴き劣りがするとは云へ、可憐で温もりのある歌心が満ち溢れてをり、聴く者に癒しを与へる名演と云ひたい。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番イ短調、第15番ハ長調「レリーク」、第14番イ短調
[DG 463 766-2]

 ケンプの最も重要な遺産であるシューベルトのピアノ・ソナタ全集録音の中でも出色の1枚。素晴らしいのは第16番で、侘しい彷徨ひの情感が惻々と胸に迫る。簡素な旋律に込められた転調の美しさをケンプほどの細やかな慈しみをもつて紡ぐ奏者は少ない。殊に第1楽章の暗い深淵から湧き上がるやうな哀感は陰りを帯び、長調の箇所でも儚さが漂ふ。第3楽章トリオの鄙びた歌も見事。第15番も躊躇ひ勝ちに漏らされる内に秘めた悲歌が美しい。幻想的な詩情は物悲しく痛切だ。劇的な第14番もケンプ独特の人肌の温もりを感じさせる表現で、包み込むやうな優しい情感が却つて哀愁を浮き上がらせる。焦燥感に溢れたクラウスの録音も名演だが、泣き叫ぶことなく悲しみを告白するケンプの演奏は実に格調高い。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番イ長調、第11番ヘ短調、第9番ロ長調
[DG 463 766-2]

 ケンプの最も重要な遺産であるソナタ全集録音。7枚組の5枚目に収録された3曲は白眉と云へる出来である。第13番第1楽章の可憐で爽やかな歌から、シューベルトの世界に引込まれて仕舞ふ。ケンプはヴィルティオーゾであつたことはないが、常に詩人であつた。名残惜しいルバートとパウゼの美しさは夕映えのやうだ。第3楽章の躍動と切迫した哀感もケンプならではの美質に包まれてゐる。決定的な名盤だ。第11番はイギリスでのライヴがあり、感興の豊かさで軍配を上げたい。勿論、当盤も素晴らしい演奏で、悲劇的な情感が惻々と迫る。第3楽章は特に見事だ。第9番は4楽章制の古典的な作品で、ケンプの美しいタッチが映える。優美な曲線を描くシューベルト特有の抒情的な歌が美しい。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第7番変ホ長調、第5番変イ長調、第6番ホ短調
[DG 463 766-2]

 ケンプのシューベルト・ソナタ全集録音の中でも出色の1枚。シューベルトの抒情が滔々と流れる第7番は、可憐な楽想の中に夢想する暗い歌が入り込んだ名曲である。ケンプの演奏は愛らしいタッチと、短調に転じた時の翳りが美しい。自然体でシューベルトの本質に迫れたケンプの域に達するのは容易でない。第5番も同様で、作為をすると途端に品位がなくなる音楽なのだ。第2楽章の簡明素朴な音楽を天衣無縫とも形容すべき演奏で紡いで行く。天晴だ。第6番はケンプが最も得意とする楽想を持つ曲だらう。寂寥感を漂はせた歌は絶品である。しかし、この曲には1972年のロンドンでのライヴ録音もあり、そちらの方が感興が乗つてゐて更に素晴らしかつた。呼吸が深く、表情が豊かで、何よりも詩情が美しかつた。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第4番イ短調、同第2番ハ長調、同第1番ホ長調
[DG 463 766-2]

 ケンプの代表的名盤であるソナタ全集録音。全集とは云へ、シューベルトの場合は断片のみの未完成曲も多く、欠番扱ひされた曲もあるが、世界初の全集録音として未だに超えるものがない決定的名盤である。7枚組最後の1枚では第4番が出色の出来だ。イ短調作品といふと他に第16番と第14番があるが、シューベルトのピアノ作品を語る上で鍵となる作品でもあり、ケンプが極上の演奏を聴かせた曲でもある。第4番も憂ひを帯びた溜め息がシューベルト独特の世界を演出してゐる。ケンプの抒情的で共感豊かな演奏が美しい。簡潔な第2番も小粋な演奏だ。愛らしい第1番も良い。ケンプは素朴な曲ほど魅力を発揮する。緩徐楽章の詩情は絶品だ。


シューベルト:ピアノ・ソナタ第6番
ブラームス:4つのバラード
シューマン:ピアノ・ソナタ第2番、他
[BBC LEGENDS BBCL 4114-2]

 ケンプは先輩格のシュナーベルとバックハウスの残したベートーヴェン全集に比較され評価は芳しくなかつたが、寧ろ本領はシューベルト、シューマン、ブラームスにある。儚い幻想を追ひ求めるやうな抒情美と身も心も捧げようとする熱に浮かされた感情の迸りがケンプの良さであり、技巧の歯切れ悪さを相殺してゐる。当盤はケンプの美質が遺憾なく発揮されてをり、1972年9月17日の演目はセッション録音を遥かに凌ぐ極上の名演ばかり。シューベルトの可憐で物悲しいソナタの語り口は絶品だ。ブラームスのバラードは厳ついだけの演奏とは異なり、血の通つた情感と熟成された渋みで極上の浪漫を味合はせてくれる名演。シューマンも焦燥感と喪失感を見事に表出した名演で、刺激的なだけの演奏ではなく、哀想幽思こもごも起こる第一級の藝術品である。余白に収録されてゐるのは1969年11月3日の演奏で、シューベルトの即興曲変イ長調、ブラームスのロマンス作品118の5、間奏曲作品118の6、間奏曲作品76の4で、名残惜しい想ひを植ゑ付ける名演ばかりである。


モーツァルト:ピアノ・ソナタ第12番
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番
ブラームス:間奏曲作品119-1&119-3
[BBC LEGENDS BBCL 4169-2]

 1967年10月7日の実況録音。レパートリーとしてはモーツァルトが重要だ。ケンプはモーツァルトを多く弾かなかつたからだ。軽やかではないが、優美な歌が楽しめる。一見、間合ひの少ない無造作な演奏に聴こえるが、滲み出る温かさがあり味はひ深い。ケンプにとり中核を占める作曲家シューベルトの最後のソナタは聴き応へのある佳演だ。DGへの全集録音の中でこの最後のソナタだけは感興の乏しい凡庸な演奏であつたが、この実演は流石にケンプならではの起伏があつて良い。しかし、この曲でシュナーベルを超える演奏は耳にしたことがない。同じくケンプが得意としたベートーヴェンも名演だが、当盤の演奏は終楽章で幾分技巧的な弱さを感じる。アンコールで弾かれたブラームスが絶品だ。ケンプの弾くブラームスは重厚かつ夢幻的な浪漫を醸し出す。当盤の白眉である。


ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番
シューマン:蝶々、幻想曲
[BBC LEGENDS BBCL 4085-2]

 1969年11月3日の演奏会記録。ケンプが最も得意とした演目ばかりで、ブラームスのソナタが大変素晴らしい演奏だ。特に第2楽章の声をひそめたピアニッシモのタッチは胸に惻々と迫る美しさで、ケンプだけが為し得た最も感動的な告白である。テンポを落として躊躇ひつつ奏でられる歌は若きブラームスの秘めた思慕を湧き上がらせる。このソナタの最も重要な演奏だ。シューマンでは幻想曲が良い演奏だ。特に第3楽章の霊感豊かなアルペジオの美しさは絶品だ。蝶々は軽やかさが不足してをり、雑然とした演奏だ。突発的な激情は楽想に相応しくない。



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