楽興撰録

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ウラディミール・ホロヴィッツ


ヨーロッパでの独奏録音全集(1930年〜1936年)
[APR 6004]

 ホロヴィッツは当初米國のヴィクター・レーベルで初録音を果たしたが、世界恐慌の煽りで1930年代前半は英國のHMVに録音を行つた―1曲だけベルリンでの録音があるが。当盤はこの時期の独奏録音全集2枚組だ―従つて有名なアルバート・コーツとのラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を除く。これらは本家EMIからも復刻があつたが、このAPR盤には未発表であつたショパンのピアノ・ソナタ第2番「葬送」第1楽章が収録されてゐる。蒐集家には重要なことだ。その他の演奏は改めて述べることはない。全世界に驚きを与へ、同業者らを震撼させた絶頂期の録音ばかりだ。完璧な技巧と繊細な表現による妖気漂ふ奇蹟の名演集。特にリストの葬送曲は究極だ。


ブラームス:ピアノ協奏曲第1番、同第2番(2種)
ニューヨーク・フィル/ルツェルン音楽祭管弦楽団/NBC交響楽団
アルトゥーロ・トスカニーニ(cond.)
[APR 6001]

 ホロヴィッツとトスカニーニの共演によるブラームスの協奏曲を集成した2枚組。流石は英APRで、初出となる1939年ルツェルン音楽祭での第2協奏曲を収録してゐる。何とこれで両者の組み合はせは4種類目になる音源だ。しかし、残念なことに音が古く、演奏も直線的で余情がなく、客演のオーケストラなので精度も低く、ホロヴィッツも万全ではなかつた。蒐集家以外には不要な音源だらう。もう1種類、1948年の録音が収録されてゐる。NBC交響楽団との演奏だ。音も良く円熟した演奏が堪能出来る。こちらの方が断然良い。第1協奏曲はトスカニーニにとつては唯一の記録。ニューヨーク・フィルとの演奏だ。1935年の録音で音が貧しく、演奏も即物的で面白くない。


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番
ニューヨーク・フィル/ジョン・バルビローリ(cond.)
[APR 5519]

 チャイコフスキーは1940年3月31日、ラフマニノフは1941年3月4日の記録で、初出となる放送録音。正しくホロヴィッツの全盛期で卓越した技巧の狭間から漏れる妖気にも似た危ふげな情念は聴き手を引き摺り込む魔力を備へてゐる。音質が優れない当盤は幾分価値が劣るが、悪鬼に取り憑かれたやうなラフマニノフの凄みは捨て難い。当盤の面白みはトスカニーニが強者集団のニューヨーク・フィルを託すべく後任として白羽の矢を立てたバルビローリの伴奏にある。チャイコフスキーの終楽章のコーダでかける扇情的なアッチェレランドには青さを感じる反面、迸る熱情には心打たれる。


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ニューヨーク・フィル/アムステルダム・コンセルトヘボウ
ブルーノ・ヴァルター(cond.)
[Music&Arts CD-810]

 ホロヴィッツの凄みを思ひ知らされる1枚。音質が水準以下なのが残念だ。チャイコフスキーは1948年4月11日の演奏記録。数種有るホロヴィッツの録音の中でも特に技巧の切れが凄まじく、悪鬼に取り憑かれたかのやうだ。しかし、音質の明瞭なセル盤に比べて分が悪く、指揮者の情熱が唯事でないトスカニーニ盤と比べても分が悪い。ヴァルターの指揮は過不足ないが、特別面白い訳でもない。ブラームスは1936年2月20日の演奏記録。但し第1楽章の録音に欠落があり、1935年のトスカニーニとの録音を使用して補つてゐる。演奏は剛胆さと神経質な繊細さの両面を聴かせる稀代の名演。録音状態が増しであれば、バックハウスの旧盤に次ぐ名演として推挙出来たであらうに。


ショパン:ピアノ・ソナタ第2番、バラード第1番、ノクターン第5番
リスト:泉のほとりで、ハンガリー狂詩曲第9番「ペシュトの謝肉祭」
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。絶頂期の記録。葬送ソナタのみ1950年の録音で、LM-1113としてバーバーのソナタとの抱き合はせで発売されたものの再収録だ。他の4曲は1947年に録音されてゐたが、丁度LPレコード実用化の直前であつた為だらう、SPではなくLPで発売出来るまで留め置きされたと推測される。演奏は弩級の個性的な名演で、ペダルを使はず叩き付けるやうな打鍵による轟音は圧巻だ。ハンガリー狂詩曲の最後の和音では減衰による音程の揺らぎも聴き取れる。強迫観念に責め立てられたやうなショパンのバラード、狂奔するリストの狂詩曲はこの時期のホロヴィッツだけの常軌を逸した壮絶さだ。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
RCAヴィクター交響楽団/フリッツ・ライナー(cond.)
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。ホロヴィッツはベートーヴェンのソナタの幾つかを得意として録音も残るが、皇帝協奏曲は唯一の録音記録であるし、そもそもベートーヴェンの協奏曲も他に残らない。冒頭のカデンツァからホロヴィッツの個性が全開で、強靭な打鍵の速弾きに呆気に取られる。全編この調子でドイツのロマンティシズムや気品とは無縁だ。ライナーの棒も筋肉質で音楽に等質感がある。さて、衝撃は強いのだが感銘は薄い。抉りと共感が弱いのだらう。同じ路線の演奏で個性全開かつ深い感銘を残して呉れたヨーゼフ・ホフマンには遠く及ばない。


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ニューヨーク・フィル/ジョージ・セル(cond.)
[Sony Classical 88765484172]

 カーネギー・ホールでのライヴ録音集40枚組。1953年1月12日、米國デビュー25周年シルヴァー・ジュビリー・コンサートが遂に正規オリジナル音源から商品化された。この記念演奏会はRCAにより正規録音されたがお蔵入りになつて仕舞つた。だが、その音源が流出して数々の海賊盤が出回つた曰く付きのもので、愛好家の間では伝説的な名演として語り継がれた。挑発的な演奏をしたホロヴィッツにより第3楽章では崩壊した箇所がある。だうやら演奏会後のパーティーでセルが投げつけた批判がホロヴィッツを傷付け、間も無く全ての予定をキャンセルし、12年間公開演奏を行はなくなつた原因となつたと云はれる。お蔵入りの理由もこの辺にありさうだ。演奏はこの曲を切り札とし、絶対的な境地を聴かせたホロヴィッツの録音の中でも一番を争ふ出来で、第1楽章の演奏時間が18分台といふのは驚異的だ。名高いトスカニーニとの共演盤における熱に魘されたやうな妖気はないが、豪腕で威圧する秋霜烈日たる名演。セルの筋肉質で隙のない指揮も圧巻だ。フィナーレ終結部における空前絶後の暴走合戦には慄然とする。


クレメンティ:ソナタト短調Op.34-2、同へ短調Op.13-6、同嬰へ短調Op.25-5
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。クレメンティの真価を最初に発見したのはホロヴィッツだ。1954年に製作されたアルバムは全て短調作品から選ばれ、疑ひなくベートーヴェンに影響を与へた幻想的な浪漫性と前衛的な技法を聴くことが出来る。モーツァルトを苛立たせた音楽は様式美を超えた表現力の塊なのだ。ホロヴィッツはこの独創的な創作を不気味な焔を漂はせて演奏する。最大の聴き物はト短調の第1楽章で、コーダへ向かつての激情的な昂揚はクレメンティ再発見の一助となるであらう。3曲とも決定的名演で底知れぬ感銘を残して呉れる。尚、クレジットではへ短調はOp.14-3、嬰へ短調はOp.26-2と表記があるが、今日ではOp.13-6、Op.25-5と振られてゐるので注意が必要だ。


スクリャービン:ピアノ・ソナタ第3番、前奏曲集(16曲)
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。1955年、雲隠れ時代の録音だ。往時スクリャービンを真つ向から取り上げたのはホロヴィッツだけで、コンサートでもここ一番でプログラムに乗せる切り札であつた。後にソフロニツキーの録音が知られるやうになつてホロヴィッツの演奏は色褪せたが、開拓者として別格の存在感がある。悪魔的と評されたホロヴィッツのピアニズムとスクリャービンの神秘的な作風が見事に結合し呪術的な世界を聴かせて呉れる。


ショパン:スケルツォ第2番、同第3番、ノクターン第3番、同第4番、同第7番、同第2番、舟歌
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。1957年の録音で、数少ない雲隠れ時代の記録である。並ぶ者なきヴィルティオーゾの称号を死守し続ける危ふい精神状態での活動を止め、ショパンを満足なだけ独自な感性で追求した一種特別な名盤だ。ノクターンをスケルツォで挟んだ配列で、ノクターンではホロヴィッツの尋常ならざる音色に寒気がするのだが、最も鮮烈なのは冒頭に置かれたスケルツォ第2番だ。ペダルを使はない轟音に度肝を抜かれる。全曲、病的に研ぎ澄まされた音響世界に唖然とする。こんなショパンは他になく、ホロヴィッツが別格であつたことを思ひ知らされる。(2022.8.6)


シューマン:花の曲、ピアノ・ソナタ第3番
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。未発売だつた1975年11月16日カーネギー・ホールでの演奏会記録2枚組。1枚目。晩年の記録とは云へ、実演ならではの感興と高まる熱気が素晴らしく、当盤の登場を歓迎したい。演奏会の前半はホロヴィッツの中心的なレパートリーであるシューマンで、鬼才の特異な詩情が見事に発露された名演の連続である。シューマンの代表的な名演と云ふとコルトー、ナット、ケンプらが真つ先に浮かぶが、ホロヴィッツの青白い焔が閃く独特のロマンティシズムにも忘れ難い感銘を受ける。花の曲の行き場のない憧憬の儚さは病的な迄に美しい。グランド・ソナタにおける壮絶な闘争と夢想する詩情の交錯は最良のシューマンだ。果てしない諧謔と内に秘めた英雄的な熱情が殊の外素晴らしい。このソナタで名演を残した奏者は少なく、ホロヴィッツをもつて第1とすること吝かではない。


ラフマニノフ/リスト/ショパン/ドビュッシー/シューマン/モシュコフスキ
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。1975年11月16日カーネギー・ホールでの演奏会記録2枚組。2枚目。プログラム後半。ラフマニノフの前奏曲は病的な美しさを創り出すピアニッシモのタッチで青白い妖気を漂はせる。「音の絵」では一転叩き付けるやうなフォルテが鳴らされ、多彩な音色を持つホロヴィッツの藝当が発揮される。得意としたリストの2曲は如何なる訳か冴えない演奏だ。ショパンのスケルツォ第1番が凄まじく、当演奏会の白眉と云へる。研ぎ澄まされた感性が痛々しい焦燥を露にし、コーダの鬼気迫る閃光に聴衆が沸き返るのも当然だ。アンコールは十八番の演目ばかりで上等だが、矢張りモシュコフスキが圧巻だ。天衣無縫なる名人藝で宝石のやうな輝きを放つ無比の名演。


最後の録音(1989年)
ハイドン/ショパン/リスト
[RCA&SONY 88697575002]

 RCAとSONYのオリジナル・ジャケット・コレクション70枚組。鬼才ホロヴィッツの余りにも有名な生涯最後の録音。1989年、死の4日前の自宅録音も含まれる。収録曲はハイドンのピアノ・ソナタ第49番、ショパンのマズルカOp.53-3、ノクターン第16番と第17番、幻想即興曲、エチュードOp.25-1と25-5、リスト編曲のバッハ「泣き、嘆き、悲しみ、慄き」による前奏曲とヴァーグナーの「イゾルデの愛の死」だ。高齢を感じさせない瑞々しい演奏は驚異的で、ハイドンの浪漫的でありながら清明な表現はホロヴィッツの感性が未だ潤つてゐる証だ。第2楽章の歌は温かくも美しい。決定的名演だ。ショパンは総決算であると共に挑戦であつた。遂に録音されたノクターン第16番は、イグナツ・フリードマンの名盤を超える確信を得るまでは録音しないと公言した幻の演目で、遺言とも云へる破格の名演となつた。幻想即興曲の自在な軽妙さは死を間近に控へてゐるとは思へない天衣無縫さ。エオリアン・ハープの淀みない清々しいそよ風は如何ばかりだらう。ノクターンの第17番の痛切な詩情は流石だ。ショパンでは適宜音を加へたりしてゐるが、ピアノの音が澄み渡り説得力が強い。そして「イゾルデの愛の死」の青白く燃え上がる焔こそはホロヴィッツの真髄を伝へる最後にして最高の演奏であつた。



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