楽興撰録

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キルステン・フラグスタート


1914年オデオン録音/1923年&1929年HMV録音/1930年コロムビア録音
オーレ・フラグスタート(vc)、他
[SIMAX classics PSC 1821]

 ノルウェーが生んだ不世出の歌手フラグスタートには900以上もの録音が残ると云ふ。その中から稀少価値のある録音を選出したノルウェーSIMAXの全5巻は愛好家必携のディスクだ。第1巻3枚組。1枚目。全てオスロで行はれた初期の録音から編まれてゐる。歌手としての活動を始めて間もない1914年のオデオン録音からの6曲―ディスコグラフィーに依るとこの他にも数曲の録音があるので全復刻ではない―は取り分け貴重だ。20歳前の声はフラグスタートの特徴である神々しさの片鱗こそ窺へるものの、技巧は拙く歌唱法も確立されてゐない。ところが続く1923年の録音になると深々とした声質へと変貌を遂げ、歌手としての成長が確と認められる。曲はグリーグを筆頭に、オーレ・ブル、シンディングなど北欧の作曲家の作品が多い。物悲しい情感、厳しい宿命観による歌唱はこれらの作品の核心を抉る。「ソルヴェイグの歌」は後年の録音よりも感慨深い名唱だ。


1935年〜1937年HMV録音
エドウィン・マッカーサー(p)/ハンス・ランゲ(cond.)
[SIMAX classics PSC 1821]

 第1巻3枚組。2枚目。フラグスタートはコヴェントガーデンを経て、1935年メトロポリタン歌劇場に衝撃の登場を果たした。北欧から現れた神秘の面持ちとブリュンヒルデと見紛ふばかりの威厳はMetの観客の度肝を抜き、挙げ句はレーマンもレートベルクもトローベルもフラグスタートの侍女にされた。当盤は熱狂する人々の要望に応へるべく録音された渡米間もなくのセッション録音である。ヴァーグナーの5曲―タンホイザー2曲、ローエングリン、トリスタンとイゾルデ、ヴァルキューレ―の神々しさは比類がない。管弦楽伴奏が水準程度なのが残念だが瑕にはならない。含蓄のある隠つた声は伝説の世界へと聴く者を誘ふ。歌曲はグリーグの9曲が中心を占める。ノルウェーの血統を証立てる偉大な歌唱ばかりで余人を寄付けない。後年の録音にはない色気と繊細さがあり、巧みな陰影は至藝の域に達してゐる。その他では、ベートーヴェン「君を愛す」とフランツ「秋に」の情愛の深さに胸打たれた。


1937年〜1939年HMV録音
1941年ヴィクター録音
ラウリッツ・メルヒオール(T)
エドウィン・マッカーサー(p&cond.)/ユージン・オーマンディ(cond.)、他
[SIMAX classics PSC 1821]

 第1巻3枚組。3枚目。最良の録音が収められてゐる。1937年の復刻の一部は英Romophoneから出たものと同一である。一際抜きん出た傑作はメルヒオールとの「トリスタンとイゾルデ」と「神々の黄昏」で、それはもう神品と云つて憚ることのない絶対的な名唱である。英雄が眼前に立ち現れたかのやうな歌声に圧倒され暫し我を忘れる。メルヒオール以上のトリスタンとジークフリートを求めることが出来ようか。フラグスタート以上のイゾルデとブリュンヒルデを求めることが出来ようか。両人の取り合はせを超える感動なぞあるのだらうか。能はず。その他、Hurumの歌曲が北欧の神秘的な仄暗さを漂はせた名唱で心に残る。珍しい「パルジファル」の記録は幾分感銘が劣る。


グリーグ:「山の娘」
1937年ヴィクター全録音(ベートーヴェン/ヴェーバー/ヴァーグナー)
エドウィン・マッカーサー(p)
フィラデルフィア管弦楽団
ユージン・オーマンディ(cond.)
[Romophone 81023-2]

 史上最高のヴァーグナー歌手フラグスタートは、1935年、Metにおいて伝説的なデビューを果たし、音楽界を席巻した。その2年後の1937年に行つた録音では、オーマンディ率いるフィラデルフィア管弦楽団といふ最高の伴奏を得て、十八番を6曲吹き込んでゐる。最大の聴きものは無論ヴァーグナーであり、特に未発表に終はつたブリュンヒルデが神々しく比類なき歌唱である。フラグスタートは、グリーグの傑作歌曲集「山の娘」を後年Deccaに再録音してゐるが、1940年に録音された当盤は声の自由さ、若々しさ、陰影の細やかさの何れにおいてもDecca盤を凌駕してゐる。ビロードのやうな声が刻々と色を変へる様は圧巻で、フラグスタートの技巧と藝格がこの時期絶頂にあつたことをまざまざと思ひ知らされる。


戦後の実況録音集(1948年〜1951年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(cond.)、他
[SIMAX classics PSC 1823]

 第3巻3枚組。1枚目と2枚目。大半は有名な1950年のフルトヴェングラー指揮によるスカラ座での「指環」全曲からと、ロンドンでのシュトラウス「4つの最後の歌」初演の録音に割かれてゐる。「指環」はフラグスタートがブリュンヒルデを通しで歌つた唯一の録音記録として大変価値が高いが抜粋に過ぎず、Gebhardtから優れた復刻盤が出たし、「4つの最後の歌」は元来録音状態が悪い中、英Testamentから音質改善盤が出たので割愛しよう。他に感銘深いのは、サンフランシスコでの「さまよへるオランダ人」やシュトラウスの歌曲3曲で、録音の状態が良く、まだ衰へがない時期のフラグスタートの名唱を聴ける。それ以上に、クライバー指揮による1948年の「トリスタンとイゾルデ」が大変素晴らしい名唱なのだが、所詮は抜粋なので詳しくは述べない。


戦後の実況録音集(1951年〜1957年)
サー・トーマス・ビーチャム(cond.)/サー・マルコム・サージェント(cond.)、他
[SIMAX classics PSC 1823]

 第3巻3枚組。3枚目。素晴らしいのは、パーセル「ディドとアエネイス」だ。朗読調の語りかけは、厳かで深々としてゐる。フラグスタートの声に秘められた神々しさが発揮された名唱。シュトラウス「エレクトラ」の劇的な歌唱も見事だ。ノルウェー語で歌はれたグルック「アルチェステ」は珍品。注目はビーチャム卿との共演による得意のヴァーグナー「ヴェーゼンドンクの歌」と、サージェントの指揮によるグリーグの歌曲10曲だらう。然し乍ら、これらの曲にはDeccaにセッション録音があり、音質の優れない当盤を推薦することは出来ない。しかも、Decca盤はヴァーグナーがクナッパーツブッシュの伴奏による究極の名盤、グリーグもフィエルスタートの伴奏による極め付きの録音なので、尚更分が悪い。


グリーグ:山の娘
ヴァーグナー:ヴェーゼンドンクの歌
シベリウス:歌曲集(5曲)
ブルーノ・ヴァルター(p)、他
[SIMAX classics PSC 1824]

 第4巻2枚組。歌曲録音集だ。1枚目。エドウィン・マッカーサーのピアノ伴奏によるグリーグ「山の娘」は1940年のヴィクター録音で、Romophone盤で取り上げたので割愛する。ヴァーグナーの「ヴェーゼンドンクの歌」は1952年ニューヨークにおける録音で、何とブルーノ・ヴァルターのピアノ伴奏による歌唱だ。フラグスタートの歌唱が絶対的なのは勿論だが、幻想的なヴァルターのピアノも大変美しい。大変貴重な記録である。最も感銘深いのは1954年、オスロでの放送用のスタジオ録音によるシベリウスの歌曲だ。ピアノ伴奏はヴァルデマール・アルメだ。演目は「3月の雪の上のダイヤモンド」「アリオーソ:姫君の季節」「初めての口づけ」「逢ひ引きから戻つた娘」「それは夢か」で、絶唱の連続だ。特に「それは夢か」の情感込み上げる歌唱は感動的だ。


ロナルド/バックス/エルガー/ディーリアス/ブリッジ/バーバー/フォスター、他
ヴァルトマール・アルメ(p)、他
[SIMAX classics PSC 1824]

 第4巻2枚組。2枚目。大変珍しい英米の作曲家の歌曲を歌つてゐる。1936年と1937年のHMVへの録音では、エドウィン・マッカーサーのピアノ伴奏で、チャールズ、ロナルド、スコット、ロジャー、ブリッジの歌曲を吹き込んでゐる。また、ライヴ録音でフォスター「故郷の人々」を歌つてゐるのはかなり貴重だらう。しかも、デトロイト交響楽団による管弦楽伴奏で、指揮者がホセ・イトゥルビであるのも大変豪華な組み合はせだ。当盤の大半はアルメのピアノ伴奏で1954年にノルウェー放送局へ残されたスタジオ録音だ。カーペンター、ワッツ、バックス、エルガー、ヘッド、ディーリアス、ブリッジ、バーバー、ヘーゲマン、何れも珍しいが、フラグスタートの奥深い声の魅力を存分に味はへる1枚である。


グリーグ:歌曲集(11曲)
ドアムスゴー:歌曲集(16曲)
フィルハーモニア管弦楽団/ジェラルド・ムーア(p)、他
[TESTAMENT SBT 1268]

 グリーグは1948年、ドアムスゴーは1952年のHMVへの録音である。ノルウェー出身のフラグスタートにとり同郷の作曲家であるグリーグとドアムスゴーへの溢れる敬愛の念と作品紹介にかける使命感は唯事ではない。フラグスタートはグリーグの作品を頻繁に取り上げてきたが、当盤の特徴はレーガー他様々な作曲家による管弦楽伴奏版での録音で、雰囲気豊かな弦の響きに荘厳な歌声が溶け合ひ感動的だ。ドアムスゴーの歌曲を聴くのは初めてだが、陰鬱たる北欧の抒情が込められた名品揃ひだ。盛期を過ぎた嫌ひはあるが、フラグスタートの入魂の歌唱は聴く者の胸に深く余韻を残す。北欧の音楽に関心のある方なら逸することは出来ない。


1953年10月2日のリサイタル
ブラームス/シンディング/アルネス/ヴォルフ/シュトラウス/グリーグ
ハンス=ヴィリ・オウスライン(p)
[Tahra TAH 538]

 1953年10月2日、パリのシャンゼリゼ劇場におけるリサイタルを完全収録した放送録音。盛期を過ぎたフラグスタートはヴァーグナー歌ひからリート歌手へと移行した。賢明さが窺へる。ドイツの歌曲と北欧の歌曲を深々とした呼吸で歌ひ込む重量感は唯事ではない。ブラームスの湧き出るロマンティシズムは極上である。秘めやかなピアノの情感は格別だ。御家藝であるシンディングとアルネスは最高の名唱だ。特にアルネス「入り江の二月の朝」は聴衆を夢幻の彼方へと誘ふ白眉。ヴォルフやシュトラウスも堂に入つた名唱で、アンコールに歌はれたシュトラウス「子守歌」は特に美しい。


1954年ノルウェー放送社録音
ブラームス(8曲)/シュトラウス(7曲)/シューマン(9曲)
ヴァルトマール・アルメ(p)
[SIMAX classics PSC 1825]

 第5巻2枚組。1枚目。グリーグやシベリウスの歌曲に次いでフラグスタートが得意としたドイツ・リートだけで編まれた録音集。故国ノルウェーに帰国してからのフラグスタート晩年の記録で、オスロにあるノルウェー放送社のNRKスタジオで録音された。声の衰へは著しいが、深く神々しい歌唱が随所に聴かれ、観想のひとときを与へて呉れる。ブラームス「マロゲーネのロマンス」から4曲、シュトラウス「4つの最後の歌」から「9月」と「夕映えの中で」、「子守歌」、シューマン「哀れなペーター」3曲は殊のほか名唱である。


1954年ノルウェー放送社録音
ヴォルフ(9曲)/シューベルト(5曲)/ベートーヴェン(10曲)
ヴァルトマール・アルメ(p)
[SIMAX classics PSC 1825]

 第5巻2枚組。2枚目。引退期のフラグスタートは声の艶を失つたが、神秘的で神々しい趣は深みを帯び、渋みのあるドイツ・リートに適性を示した。ヴォルフは諦観が滲み出た名唱ばかりで、「憩へ、憩へ」「祈り」「ヴァイラの歌」「朝の気分」などは聴き応へがある。シューベルトは声質の重さが不向きかと思ひきや、賢明なるかなフラグスタートは選曲を過たない。「若い尼」「愛の便り」の暗い抒情は実に見事だ。最も素晴らしいのが得意としたベートーヴェンで、「ゲレルトによる6つの歌」全曲は間然する所なき名唱である。「君を愛す」「希望に寄す」も堂に入つた極上の名唱。


賛美歌集(16曲)
Sigvart Fotland(Org)
[SIMAX classics PSC 1801]

 世紀の大歌手フラグスタートの最初期から最晩年の録音までを5巻の組物で発売したノルウェーのレーベルSIMAXが、番外編として出した極めて貴重な賛美歌集である。1956年9月にノルウェーのリス教会でオルガン伴奏によつて録音された16曲が収められてゐる。作品はWeyse、Hartmann、Lindeman、Neumarck、Purday、Neander、Nicolaiによる曲の他、民謡も含んでゐる。何れもノルウェー語による歌唱で、北欧の女神のやうな威風辺りを払ふその声は、往時の技巧や声量を失つた引退期とは云へ少しも揺るぎがない。寧ろ晩年の深みを帯びた声が、讃美歌といふ精神的な表出を要求する音楽に合致して神々しい限りである。フラグスタートを愛する方なら是非手にして欲しい1枚である。



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