楽興撰録

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ミッシャ・エルマン


ヴィクター録音集(1910〜11年)
パーシー・カーン(p)
[Biddulph LAB 035]

 エルマンの初期ヴィクター録音集。1910年代はエルマンの黄金時代だ。迷いがなく自信に溢れた演奏ばかりで、説得力が唯事ではない。火山が爆発したやうなサラサーテ「バスク奇想曲」の情熱を聴くがよい。濃密なヴィブラート、豊麗なダブル・ストップ、力強い左手ピッツィカート、何よりも蠱惑的なポルタメントを伴ふフラジオレットは魔術のやうな妖艶さを醸し出す。次いでチャイコフスキー、ヴェニャフスキ、ドヴォジャーク作品の演奏が絶対的な高みにある。熱つぽい語り口と表情的なフラジオレットが素晴らしい。バッハ、ゴセック、モーツァルト、ベートーヴェンの作品では野太い音で生命力を噴出させる。シューベルト、ショパン、シューマン、ヴァーグナーの編曲もスラヴ風の濃厚な情感で歌ひ上げた傑作ばかりだ。駄作ひとつとしてあらず。かのエルマン・トーンに酔ひ痴れることが出来る極上の1枚。


ヴィクター録音集(1913〜17年)
ワルター・ゴールデ(p)、他
[Biddulph LAB 036]

 エルマン絶頂期の記録で、ラフ「カヴァティーナ」、ドヴォジャーク「ユモレスク」、キュイ「オリエンタル」の語り口は如何ばかりであらう。何れも濃密で粘り気のあるスラヴ風の情緒で弾かれてゐるが、曲想に相応しく感動的だ。シューベルト「アヴェ・マリア」やマスネ「瞑想曲」ともなると幾分食傷気味だが、情緒連綿たる土臭い歌には抗し難い魅惑がある。フンメル、ハイドンやクライスラーの擬古典作品おける折目正しさを失はない天性の歌心は、学究的な演奏からは得られない音楽の愉悦が秘められてをり、特にスカルラッティ「パストラーレ」の妖艶さは類がない。しかし、サン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」やサラサーテ「アンダルシアのロマンス」で歯切れ良い技巧的な見せ場を設けないのはエルマンのアキレス腱であり、やがてハイフェッツに王座を明け渡す遠因となつた。当盤には郷愁豊かな自作の「ゴンドラで」といふ貴重な録音も含まれてゐる。


ヴィクター録音集(1917〜19年)
フィリップ・ゴードン(p)
ヨーゼフ・ボニメ(p)
[Biddulph LAB 037]

 エルマン全盛期の藝術を堪能出来る1枚。最高傑作はベートーヴェン「トルコ行進曲」で爆発寸前の情熱を撒き散らしてゐる。意匠を凝らした編曲も愉快でフラジオレットの絶妙な用法は圧巻だ。次いでチャイコフスキーの2曲が素晴らしい。木目細かくテンポを揺らし、大胆なテヌートで歌の妙味を聴かせるのはエルマンの真骨頂で、絶対的な高みに達してゐる。ブルッフ「コル・ニドライ」の深々とした情念も見事。トーマ「無邪気な告白」、フンメル「ワルツ」、ドリゴ「セレナード」、ルビンシテイン「煌めく露」、ヴェニャフスキ「庭園の情景」もこれ以上の演奏を求めることは難しい。繰り返し吹き込んでゐる「タイースの瞑想曲」の出来は当盤の録音が最上かも知れない。サラサーテ「バスク奇想曲」は旧盤の方が圧倒的な名演であつた。


ヴィクター録音集(1921〜24年)
アーサー・レッサー(p)
ヨーゼフ・パステルナック(cond.)、他
[Biddulph LAB 038]

 若きエルマンの演奏を丁寧に聴くと、10年の間でも若干の変化が見られることに気付く。野太い音と土俗的なリズムが鳴りを潜め、妖艶な色気を漂はせた歌に深みが出てくる。ハイフェッツの登場により、エルマンは技巧曲を避けるやうになつたと考へるのが妥当だらう。選曲もムーア、ポッパー、アッシャー、ミレッカー、シントラー、ハーバートなどの歌曲の編曲が多く、低俗ではあるが、実に良い味を出してゐる。当盤は所謂人気曲は少ないが、エルマンの歌ひ回しの至藝が聴ける名演がぎっしり詰まつてゐる。ベートーヴェン「コントルダンス」、マリー「金婚式」、ドルドラ「セレナード」、モーツァルト「レントラー」、ルビンシテイン「ロマンス」、シューベルト「セレナード」「感傷的なワルツ」、ヴァーグナー「アルバムの一葉」、リース「ゴンドラの舟歌」。これらは古今を見渡してもエルマン以上の演奏はない。特にシューベルトとリースが絶品だ。


ヴィクター録音集(1913〜18年)
エンリコ・カルーゾ(T)/フランセス・アルダ(S)
エルマン弦楽四重奏団
[Biddulph LAB 039]

 ヴァイオリン愛好者にとつて、旧吹き込み時代のエルマンが如何に藝術的であつたかを語ることほど楽しいことはない。Biddulphが1990年に復刻した5枚は入手困難を極めてゐるが、この1枚はエルマンのソロを聴くものではないので比較的入手が容易なもの。カルーゾの圧倒的な歌への助奏、ひたむきなアルダの歌への助奏も素晴らしいが、エルマンが音頭をとつた四重奏が愉快この上ない。チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレのこれ以上豊麗な演奏があるだらうか。G線が何と蠱惑的に響くことか。この楽章に関する限り当盤を凌駕する演奏はないと断言出来る。


ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲、他
[Biddulph LAB 160]

 英Biddulphはエルマンがアコースティック録音期に行つたヴィクター録音の復刻をCD5枚分に纏めてゐたが、当盤はその後に発売された1946年と1947年のRCAヴィクター録音の復刻で、市場に出回る期間が短かつたこともあり、かなり珍しい1枚ではないか。ブラームスのソナタとメンデルスゾーンの協奏曲といふ大曲が含まれてをり看過出来ない。尤もエルマンは2曲ともデッカとヴァンガードに再録音を行つてゐるので、演目としては重複するのだが、より録音年が古い当盤の方が演奏に勢ひがある。ブラームスは内省的過ぎる嫌ひがあるが、メンデルスゾーンは情感豊かで実に美しい。余白には得意の小品、ドヴォジャーク「スラヴ幻想曲」、スメタナ「我が故郷から」、フバイ「ハイレ・カティ」、バラキレフ「来れ」、メンデルスゾーン「5月のそよ風」の5曲が収録されてをり、間然する所がない名演ばかりだ。特にバラキレフの郷愁漂ふ歌は琴線に触れる極上の逸品。


バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番
ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第1番、同第4番、同第6番、他
ローレンス・コリングウッド(cond.)、他
[Biddulph 80206-2]

 壮年期のエルマンが鷹揚で円満なバッハとヘンデルを披露してゐる。古楽器による演奏が当たり前となつた現在、エルマンの演奏はお門違ひに聴こえるかも知れぬ。だが、ヘンデルの素朴で人間味豊かなソナタを弾いて、愛ほしさを感じさせるのはエルマンだけだ。快活で張りのある美音、感傷的な翳りを描き分けるヴィブラートの奥義。学究的な演奏からは聴くことの出来ない親密な囁きがある。名曲とされる第4番にはエネスクやシゲティによる求道的な名演があり、エルマンの演奏は華美が過ぎて分が悪いが、第1番や第6番の演奏で、斯くも音楽の喜びへ誘つてくれるものなどさうはあるまい。歌に溢れたバッハは教はるところの多い名演だが、もう少し謹厳さが欲しい。


チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲、憂鬱なセレナード
ヴェニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番
サー・ジョン・バルビローリ(cond.)、他
[Naxos Historical 8.110912]

 チャイコフスキーはよく知られた英HMVへの録音で復刻も幾つかあつた。1929年の録音で、エルマンがまだ技巧と気力を漲らせてゐた頃の演奏だが、ハイフェッツの台頭により急速に人気を奪はれてゐた時期でもあつた。船酔ひしさうな手前勝手なフレーズの伸縮は技巧の弱さを取り繕ふ為と見做され、当時から評判は散々であつたやうだ。しかし、エルマンの演奏はチャイコフスキーの感傷的な叙情に焦点を当ててをり、ロシアの溜息を聴くことが出来る。野蛮な征服欲とは無縁の美しい演奏だ。憂鬱なセレナードは1930年のヴィクター録音。シルクレット指揮ヴィクター交響楽団の伴奏。これは決定的な名演だ。ヴェニャフスキは1950年のRCAヴィクター録音。ヒルスバーグ指揮フィラデルフィア・ロビン・フッド・デル管弦楽団の伴奏で、前奏はカットなしだ。技巧的なハイフェッツとは対照的に、エルマンならでは甘い歌と美音が楽しめる。


モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番、同第5番
ジョステン:ソナティネ
新交響楽団/ヨーゼフ・クリップス(cond.)
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1343]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。協奏曲録音を纏めた第1巻4枚組。1枚目。2曲のモーツァルトは五月蝿いことを問はずに聴けば面白く聴けるだらう。エルマンの鷹揚で濃厚な演奏は味がある。これはモーツァルトではないと切り捨てるのは簡単だ。のろのろ、よたよたした変梃な演奏であるのは否めない。もし、たっぷりヴィブラートをかけた脂ぎつた音色と歌に拒絶感を示せば、ひとつも良い処はなくなるだらう。モーツァルトを得意としたクリップスの伴奏が素晴らしい。遅めで揺れが激しい独奏に良く付け、しかもモーツァルトの音楽を失つてゐない。ジョステンのソナティネが傑作だ。ユダヤ情緒をふんだんに盛り込んだ楽想で、エルマンの音色に霊魂が宿つてゐる。こんなヴァイオリンは滅多に聴けない。


ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
ヴィターリ:シャコンヌ
ロンドン・フィル/サー・ゲオルグ・ショルティ(cond.)
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1343]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。協奏曲録音を纏めた第1巻4枚組。2枚目。デッカに7曲の協奏曲録音を行つたエルマンだが、忌憚なく云へば技巧上の問題があるのと、遅過ぎるテンポ設定と、土臭い表現が個性的過ぎて一般的にはお薦め出来ない演奏が殆どだ。しかし、ベートーヴェンだけは一種特別な妙味があつて愛着を感じる。粘りのあるフレージングはいつものエルマン流だが、テンポの崩壊は一切なく、密度の濃い音色で奏でられる歌が楽しい。田舎風の侘びたカンティレーナが飾らぬ純朴さとなつて聴く者を慰める。実は自然児ベートーヴェンの素顔に一番近い演奏と云へるかもしれない。エルマンによるカデンツァも骨太で素晴らしい。堅固で誠実なショルティの伴奏も万全だ。ヴィターリは名演だ。シャルリエ編曲による演奏で、洒脱なティボー盤には及ばないが、エルマンの濃厚な美音でヴァイオリンの音色を堪能出来る。


チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第2番
ロンドン・フィル/ロンドン交響楽団
サー・エイドリアン・ボールト(cond.)/アナトール・フィストラーリ(cond.)
[TESTAMENT SBT4 1343]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。協奏曲録音を纏めた第1巻4枚組。3枚目。チャイコフスキーは全く良くない。抒情的な歌の箇所に良さを見出すことは出来るが、尋常でない遅いテンポを受け入れられる聴き手はゐないだらう。のんびりしたテンポにも拘らず難所に苦心してをり、音量も小さい。一方、ブルッフは名演だ。第2番はハイフェッツくらゐしか録音を知らないが、エルマンの腰の強い濃厚な演奏には別の魅力が備はつてゐる。能弁に捲し立てるハイフェッツ盤の情熱に比して、野暮つたい粘りを聴かせるエルマンは曲に耽溺する趣があり、楽曲の面白さを引き出してゐる。


ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
ヴェニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番
コルンゴルト:組曲「空騒ぎ」
ロンドン・フィル/サー・エイドリアン・ボールト(cond.)
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1343]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。協奏曲録音を纏めた第1巻4枚組。4枚目。ブルッフの第2協奏曲も素晴らしかつたが、有名な第1番も名演だ。確かに第3楽章はもたついた感があり、技術面で怪しい箇所がある。しかし、情念たつぷりの第1楽章第2主題の歌ひ込みや、悠然たる第2楽章の舟歌には抗し難い魔力がある。塩分過多の演奏だが、ブルッフの音楽をとことん掘り下げた点で記憶に残したい。ボールトの敬愛溢れる伴奏も素敵だ。ヴェニャフスキは当盤の僅か6年前にエルマンはRCAヴィクターにも録音をしてゐるが、演奏内容は大差ない。技巧の切れはないのだが、第2楽章ロマンスの濃厚な情緒は流石だ。4曲から成るコルンゴルトが名演だ。小品で魅せるエルマンの特性が出てゐる。耽美と諧謔を交へた自在な表現に胸躍る。


グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ第1番、同第3番
フォーレ:ソナタ第1番
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1344]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。ヴァイオリン・ソナタと小品を纏めた第2巻4枚組。1枚目。協奏曲録音は正直申して感心出来ない演奏が殆どだが―エルマン独特の崩しが多過ぎて、オーケストラの伴奏は柔軟に合はせる事が出来ないのだ―、酸いも甘いも知つたセイガーのピアノ伴奏はエルマンの我田引水のやうな揺れに見事に付いて行く。天晴だ。フォーレの名曲はハイフェッツの爽快な演奏があるから土臭いエルマンの演奏は分が悪い。この曲には洗練された洒落つ気が欲しい。更にはティボーの決定的名盤の前にハイフェッツ盤すら価値を失ふのだから。グリーグの2曲が良い。デッカ録音の中でも最上の出来映えだ。第3番は同門のザイデルによる生気に充ちた極彩色の演奏があり、エルマンの演奏はもたついて聴こえて仕舞ふが、第1番は留保なしで素晴らしい。腰の強いリズムとアーティキュレーション、浪漫的な歌が溢れ出した名演。


ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番、同第3番
フランク:ヴァイオリン・ソナタ
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1344]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。ヴァイオリン・ソナタと小品を纏めた第2巻4枚組。2枚目。エルマンのブラームスを聴くと、同門のザイデルによる名盤を思ひ出す。過剰で蟲惑的なヴィブラートが間断なくかけられ、美音による豊麗な歌が聴く者を痺れさす。晩年のエルマンが行つた録音はザイデルほど脂粉がなく、枯れた渋みがある。だが、同じ豊かなヴィブラートでもデ=ヴィートの重厚さとは異なり、守護神ブッシュの演奏と比べると甘さが目立つ。とは云へ、エルマンが残したソナタの録音では上質な演奏であり、エルマンの個性を楽しむべきだ。フランクはエルマンの流儀で弾かれた美しい演奏だが、楽曲本来の雰囲気には遠く、推奨は出来ない。


ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番
ベート−ヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番、同第9番
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1344]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。ヴァイオリン・ソナタと小品を纏めた第2巻4枚組。3枚目。ヘンデルはインド楽旅の際に行つた録音があつたので再録音となる。演奏の印象は然程変はらず、安定感のあるボウイングと深みのあるヴィブラートによるエルマン流儀の演奏で、温かい人間味が特徴だ。ベートーヴェンのソナタには少々問題を感じる。厳しさがなく弛緩した箇所が散見される。音色の甘さも聴き手を納得させることが出来ない要因になつてゐる。それでもスプリング・ソナタの麗らかな情趣は良く、伸びやかな歌は天晴だ。しかし、クロイツェル・ソナタは名演犇めく曲だけに物足りない。


クライスラー/サンマルティーニ/アクロン/ブロッホ、他
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT4 1344]

 英TESTAMENTによるデッカ録音全復刻。ヴァイオリン・ソナタと小品を纏めた第2巻4枚組。4枚目。エルマンの真骨頂である小品の演奏だ。これ迄幾度となく録音してきた得意の小品たちは、協奏曲やソナタの演奏と比べて段違ひに素晴らしい。矢張りユダヤ系やスラヴ系の情念宿る土俗的な曲が最高だ。クライスラー「ドヴォジャークの主題によるスラヴ幻想曲」、ヴェニャフスキ「マズルカ」、スメタナ「わが故郷より第2番」、アクロン「ヘブライの旋律」、ブロッホ「ニグン」は決定的な名演と太鼓判を押さう。ラテン系の曲での羽目を外したリズムの乱舞も素晴らしい。ミラー「キューバ人」、エスペーホ「ジプシーの歌」、ベンジャミン「サン・ドミンゴより」でエルマン以上の演奏を探しても徒労に終らう。メンデルスゾーン「五月のそよ風」やサンマルティーニ「愛の歌」「パッサカリア」などは濃密過ぎる嫌ひがあるが、表現が素晴らしく説得力が強い。特に「パッサカリア」の壮麗な昂揚は感動的だ。自作自演の「タンゴ」も貴重な名演だ。


ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ第4番
ベート−ヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番
バッハ:エア、ロンド形式のガヴォット
エスペーホ:ジプシーの歌
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT2 1475]

 本家を差し置いてエルマンのDECCA録音全集を復刻した英TESTAMENTが未発表放送録音を蔵出しした。快挙である。1961年、BBC放送用のリサイタルなのだが、エルマンは商品化の為にスタジオでのセッション録音を積極的に行ふ反面、消費されるだけの放送録音には消極的だつたので、大変貴重な記録なのださうだ。公式リサイタルの前に特別出演をし、腕慣らしをした態だ。2枚組の1枚目。ヘンデルもベートーヴェンもDECCAにセイガーと録音を残してゐるが、当盤の演奏は感興が豊かでより素晴らしい。晩年のエルマンの衰へを知らぬ見事な演奏には讃嘆の念を禁じえない。腰の強い胆力ある音色を聴かせるヘンデル、柔和で温かいベートーヴェン、老人の演奏とは思へない瑞々しい名演だ。バッハのエアでは濃厚な歌を楽しめる。ロンド形式のガヴォットは何と初演目となる。これが絶品なのだ。ヴァイオリンの魅力が直截的に伝はる名演である。得意としたエスペーホは絶対的な演奏で決まつてゐる。敵なしだ。


ヴィターリ:シャコンヌ
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番
アクロン:ヘブライの旋律
クライスラー:美しきロスマリン
スメタナ:我が故郷第2番
ジョゼフ・セイガー(p)
[TESTAMENT SBT2 1475]

 2枚組の2枚目。ダヴィド編曲のヴィターリはDECCAにも正規録音があつたが、エルマンの美音が堪能出来る大変見事な演奏だ。極めて胆力のある音色で腰の強い歌を聴かせる。古典的な佇まいよりも浪漫的な歌にエルマンの個性がある。さて、エルマンはDECCAにブラームスのソナタ第2番と第3番を―第3番はRCAにも録音があつた―残したが、第1番だけは録音がなかつたのだ。詰まり、幻の演目の初登場となり、遂にブラームスのソナタ全曲が揃ふことになつた。この放送録音最大の目玉である。演奏自体は取り立てて褒めるほどではないが、有り難く拝聴しよう。のんびりと浪漫を歌ひ上げたエルマンらしい演奏だ。小品はどれも絶品。得意としたアクロンは当然決定的な名演。クライスラーも実に楽しい。十八番スメタナの熱い歌は最高だ。


チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
ポール・パレー(cond.)
ディミトリ・ミトロプーロス(cond.)、他
[Music&Arts CD-868]

 チャイコフスキーは1945年12月1日、パレー指揮ボストン交響楽団の伴奏。パレーがボストン響を振つた珍しい記録でもある。淡麗なパレーの音楽と抒情的なエルマンの音楽が溶け合ふ。エルマンのチャイコフスキーはセッション録音とも共通する内気で憂鬱な歌を特徴とし、泥臭さや派手な技巧は鳴りを潜める。随所に独自の遊びを入れたりと気張つたところは皆無である。一種特別な美しさがあり、胆力のある運弓から生み出される音色には感心させられる。とは云へ、一般的な趣向とは異なるので、愛好家向けである。メンデルスゾーンの方が堂々とした大型の曲に聴こえる。1953年11月15日、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルの伴奏で、全体的に熱い演奏である。エルマンの美音が鏤められるが、ライヴ故の瑕もあり、これも蒐集家向けの録音と云へよう。


ナルディーニ:ヴァイオリン協奏曲ホ短調
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲ト短調
バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウラディミル・ゴルシュマン(cond.)
[VANGUARD CLASSICS 08 8033 71]

 エルマンが最晩年に録音したバロック音楽の協奏曲集。土俗的と云つても過言ではない濃密な音を聴かせるエルマンの奏法が、典雅な曲想と齟齬を来すのではないかと危惧するのは杞憂だ。エルマンは生涯を通じて正直な音楽家であつた。格好をつけたりせず、時代考証に左右されて己を見失ふことなどない。通俗的な小品を生き生きと弾いたのと同じ姿勢でこれらの曲を弾いてゐる。だから聴いてゐて気持ちがいいのだ。抹香臭さがなく音楽が語りかけてくる。感傷的なナルディーニの第1楽章やヴィヴァルディの第1楽章は最高である。アウフタクトの決然とした発音には血が通つてゐる。バッハはSP期にも録音してゐるが、当盤の方が生気があり良い。伴奏も雰囲気豊かで素敵だ。


メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
ラロ:スペイン交響曲
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウラディミル・ゴルシュマン(cond.)
[VANGUARD CLASSICS OVC 8034]

 エルマン最晩年の録音だが、不安定さや弱々しさはなく、70歳も近いのにこれだけの瑞々しさを保つたことに改めて驚く。勿論、これはかつて一世を風靡した男の残照であり、盛期の記録ではない。従つて万人に薦められる名盤ではないが、メンデルスゾーンにおける絶え間ないルバートの妙技は一聴の価値がある。抒情的で清楚な演奏が多い中、音価の起伏に添つて木目細かくテンポを揺らす芸当には乙な味はひがある。ラロはエルマンの音楽性に合つてゐるが、腰の強いアクセントを除いては特に魅力を感じない。老齢故に覇気が足らないのかも知れぬ。



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