楽興撰録

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シモン・バレル


HMV録音全集(1934〜36年)
リスト/ショパン
[APR 6002]

 圧倒的な技巧の誇示でホロヴィッツを超える奏者がゐるとしたらバレルをおいて他はない。サーカスで見世物として超絶技巧を披露してゐたバレルは技量を買はれて、一躍カーネギー・ホールの寵児に伸し上がつた。当盤は録音状態の良い正規録音で、完璧な技巧に唖然とする。2枚組。1枚目。リストの演奏は伝説とまで賞讃された名演揃ひで、「ドン・ジョヴァンニ回想」と「スペイン狂詩曲」こそはバレルの真価を余す処なく示した逸品である。2つの演奏会用練習曲もこれ以上の切れ味は求められないだらう。速弾きも然ることながら、左手のオスティナート・バスの畳み掛けるやうなクレッシェンドは誰にも真似出来まい。ショパンはスケルツォ第3番こそ見事だが、詩情の欠乏が感じられるのも事実だ。


HMV録音全集(1934〜36年)
バラキレフ/ブリュメンフェルト/グラズノフ/スクリャービン/ゴドフスキー/シューマン、他
[APR 6002]

 2枚目。ロシアの作曲家を要に圧倒的な技巧の切れを聴かせるバレルの神髄。余白には別テイクを丁寧に収録してをり、APRが最初のリリースとして取り上げたバレルへの拘泥はりを窺はせる。都合3種類もあるシューマンのトッカータが物凄い。限界に挑むやうな速弾きには唖然とする。バラキレフ「イスラメイ」も破格の名演で、比類のない技巧を披露してゐる。畳み掛けるやうなグラズノフの練習曲も見事。典雅なゴドフスキー「ルネサンス」も妙味がある。一方で、スクリャービンの練習曲は幻想が不足してをり面白くない。


カーネギー・ホール実況録音集第1巻(1946年)
リスト:ピアノ協奏曲第1番
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番、他
[APR 5621]

 バレルはカーネギー・ホールでの伝説的な演奏会の数々で熱狂的な名声を誇示してゐた。英APRから発売された全5枚のライヴ盤は聴く者の度肝を抜く驚異の連続だ。第1巻目。バレルの代名詞とされるリストの協奏曲は、楽曲を手中に収めた如く大胆な崩しと強引な牽引力で疾風のやうな演奏を繰り広げ、宛ら悪鬼に取り憑かれたかのやうな異常さだ。同じくリスト「小人の踊り」「ファウストのワルツ」の沸点を超えた演奏は絶対的な高みにある。グラズノフのエチュードやヴェーバーの常動曲も凄い。恐るべき速弾きには腰を抜かす。だが、バレルを単に技巧倒れした怪しからぬピアニストと断じてはならない。バッハ「半音階的幻想曲とフーガ」とベートーヴェンのソナタで聴かせる美しく浄化された音色は如何ばかりだらう。断片なのが惜しいが、ショパンの幻想曲やバラード第4番の惻々と迫る暗い詩情は絶品なのだ。清教徒のやうな聴き手はバレルを嫌ふだらう。だが、音楽は魔物である。バレルが弾いたやうなリストがふたつとあらうか。


カーネギー・ホール実況録音集第2巻(1947年)
リスト/ショパン/スクリャービン/ラフマニノフ
[APR 5622]

 伝説的なカーネギー・ホール・ライヴの第2巻目。1947年3月9日の演奏会記録を収録してゐる。何と云つてもリストが無類に素晴らしい。憚らずに云へば、バレルこそ史上最高のリスト弾きだ。圧巻は「詩的で宗教的な調べ」の葬送で、人間業を超えた打鍵の凄まじさに興奮を禁じ得ない。宛ら悪魔が弾いてゐるやうだ。次いでハンガリー狂詩曲第12番の絢爛たる演奏に打ちのめされる。ペトラルカ・ソネット第104番の衝動的な演奏も見事だ。ショパンでは幻想曲が気宇壮大で感銘深い。ノクターン第8番も繊細なタッチが美しい。スクリャービンのエチュードは大して面白くないが、ラフマニノフの前奏曲2曲が凄い。色彩豊かで交響的なピアニズムが炸裂した名演。


カーネギー・ホール実況録音集第3巻(1947年)
ゴドフスキー/リスト/ショパン/ブルメンフェルト/バラキレフ、他
[APR 5623]

 伝説的なカーネギー・ホール・ライヴの第3巻目。1947年11月11日の演奏会記録を収録してゐる。冒頭のゴドフスキー「ルネサンス」から心奪はれる。磨き抜かれたタッチによる音色の美しさは格別だ。超絶技巧で知られるバレルだが、その真価は夢見るやうに美しい音色なのだ。リストのソナタはホロヴィッツと双璧を成す。圧倒的なピアニズムの勝利で、不気味な煽情や幻想的な抒情の表現の幅に唖然とする。ショパンのバラード第1番が物凄い。特にコーダで閃く鬼神のやうな電撃に興奮せぬ者などゐまい。バラキレフ「イスメライ」で聴かせる輝かしい技巧も圧巻。沸立つ聴衆の歓声も頷ける。アンコール曲はスクリャービンのエチュード、ラフマニノフ「V.R.のポルカ」、シューマン「夢のもつれ」、ヴェーバー「常動曲」の4曲だ。炎のやうなスクリャービン、神業の如き速弾きのヴェーバーが圧巻。


カーネギー・ホール実況録音集第4巻(1949年)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番
シューマン:謝肉祭
ショパン/リスト
[APR 5624]

 伝説的なカーネギー・ホール・ライヴの第4巻目。1949年2月7日と同年11月18日の演奏会記録を収録してゐる。2月の演目はショパン「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」とリスト「小人の踊り」で、極上のピアニズムに惚れ惚れする。全ての音が綺羅星のやうに輝き、躍動的な光線を放つ。音色は千変万化し巧妙な陰影が心憎い。緩急自在の呼吸も名人藝で、ここぞといふ場面での超絶技巧は圧巻だ。11月の演目はベートーヴェンのソナタとシューマンの謝肉祭を中心に据ゑた正統的プログラムである。実はベートーヴェンが大変素晴らしい。酸いも甘いも知り尽くした噛み締めるやうな詠嘆が聴こえてくる。楽曲への深い洞察があり、劇的な突進と後ろ髪を引かれるやうな躊躇ひが交錯する。シューマンは冒頭こそ狂乱めいた滅茶苦茶なテンポ設定で呆気に取られるが、瞑想的な詩情との対比が素晴らしく、これまた曲藝師の見世物ではない。バレルはカーネギー・ホールのうるさ型をも唸らせた第一級のピアニストだ。ショパンのスケルツォ第3番も天晴だが、アンコールで弾いたエチュードがバレルの真価を伝へる。速弾き競争のやうな第4番と第5番「黒鍵」を華麗に弾いて、盛大な拍手が冷めぬ間に「黒鍵」を違つた表情でもう一度弾く。何とまあ良き時代かな。


カーネギー・ホール実況録音集第5巻
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、他
1929年オデオン録音
[APR 5625]

 伝説的なカーネギー・ホール・ライヴの第5巻目。全て録音年未詳の音源である。注目はラフマニノフの第2協奏曲だ。逞しいピアニズムに耳を奪はれ勝ちだが、憂鬱な溜息のやうな旋律や夢見るやうなアルペジオから揮発するダイヤモンドの輝きのやうなタッチには滅多に聴くことの出来ない美しさが秘められてゐる。難所では挑発的なテンポを採用してをり、オーケストラの旋律が主導する箇所でも込み入つた音型を轟然と鳴らすのはバレルだけの神業だ。豪奢な装ひを纏つて、名曲に新しい息を吹き込んだ名演。独奏ではスカルラッティ1曲、ショパン3曲、リスト2曲、スクリャービン1曲が収録されてゐる。矢張りリストが特上だ。更にバレル最初期の録音である1929年のオデオン録音4曲が収録されてゐる。洗練された技巧が聴けるが、ライヴで聴くやうな魔性がなく面白くない。余白にニュージーランドでのインタヴュー記録を収録。


リスト:ピアノ協奏曲第1番、他
フリーダー・ヴァイスマン(cond.)/ボリス・バレル(p)、他
[Cembal d'amour CD/DVD 124]

 贔屓のピアニスト、バレルの稀少録音が聴ける蒐集家垂涎の1枚。ヴァイスマンの指揮、音楽家連合交響楽団の伴奏によるリストの協奏曲は1948年のブルックリン美術館でのライヴ録音だ。バレルにはニューヨーク・フィルとのカーネギー・ホールでのライヴ録音もあつた。音質には難があるが、稀代のリスト弾きバレルの真価を伝へる名演が繰り広げられる。破格の技巧と煌めく音色に幻惑される。更に1949年のクリスマスにマーシャル家のホーム・パーティーでの録音でリスト、スクリャービン、ショパンを弾いてゐる。楽曲の断片を気の向く侭に弾き散らした感じだが、それだけに感興が乗つてをり鮮烈だ。ここでもリストのピアノ協奏曲第1番を弾いてゐるが、歌ひ語りながら壮絶なピアニズムを聴かせて呉れる。ショパンの華麗なるポロネーズも凄まじい。残りは息子ボリス・バレルの録音でシューマンの交響的練習曲とチャイコフスキーの胡桃割り人形から4曲の編曲だ。1957年と1954年の録音で父の演奏とは比ぶべくもないが、選曲の妙でチャイコフスキーが面白からう。尚、DVDも付いてをり、ボリスが主に父シモンの思ひ出を語る50分のインタヴュー映像だ。終盤にはボリスによるレッスン風景も収めてゐる。


最後の録音集(1951年3月)
リスト/ショパン
[Cembal d'amour CD114]

 バレルが脳梗塞で急逝したのが1951年4月2日、カーネギー・ホールでグリーグの協奏曲を弾いてゐる最中であつた―伴奏はオーマンディ指揮のフィラディルフィア管弦楽団だつた。当盤はその直前、1951年3月に行はれた最後のセッション録音集だ。演目はリストではグノーのファウストのワルツ、小人の踊り、愛の夢第3番、ペトラルカ・ソネット第104番、ラ・カンパネッラ、軽やかさ、忘れられたワルツ第1番、ドン・ジョヴァンニ回想、ショパンはスケルツォ第3番とバラード第1番だ。繰り返し弾いてきた演目を状態の良い音質で聴けるのが有難い。演奏は最高だ。特にリストは絶対的だ。完璧な指回りも勿論だが、音色の多様性を聴いて欲しい。悪魔と天使が同時に舞ひ降りる得難い体験をさせて呉れる。バレルを聴いたことのない人はピアノといふ楽器の可能性と限界を知らない。



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