ヨセフ


 突然、ヨセフが口を開いたので、思案に暮れてゐたヤコブの驚きは打たれたやうな痛みを伴ふものだつた。
「ヤコブ、私は嘘をひとつも云つてゐない。私は主に隠れてマリアと快楽に耽つたことなど断じてない。私にとつてマリアは余りにも美しく、余りにも清らかで、結婚してからも手を触れることも容易に出来やしない、それほどの娘なのだ。マリアが天使に祝福され私の許に来た時、私はマリアの言葉をそっくりそのまま信じるしかなかつたのだよ。私は何の取り柄もない凡庸な男だ。私には天使も悪魔も目にすることなど決して出来ないのだ。私は主に選ばれた男ではない。それは私自身がよく知つてゐる。しかし、マリアは特別なのだ。天使の御姿を拝むことも出来ようし、神の子を宿すことも出来るのだ。私にはさう信じるしかない。私にそれ以外の何が出来ると云ふのだね」
 しかし、ヨセフの言葉が確信に充ちるに連れて、語勢が衰へて行くのをヤコブは鋭く感じ取つた。再びヤコブはこの朴訥な友を哀れむ気持ちが昂つて来るのを覚えた。これ以上この男の傷口に触れることは非情なことだと悟りながらも、自身の拠り所である正義感を引つ込めてまで、憐憫の情に屈したくはなかつた。
 ヤコブは判事となることを望み、イェルサレムで勉学を励んだ身である。ローマの支配下になり急速に流入したローマの法律の威容にヤコブは心奪はれ、モーセの律法に頼ることしか知らぬユダヤの民を次第に愚かしく思ふやうになり、ローマのやうに整備された法社会がこの世の不正や堕落を未然に防ぎ、延いては悪を根絶するだらうことを夢想した男である。ヤコブはユダヤの地を離れ、勉学の為にローマでなければビザンティウムに赴くことを決意し、両親に勘当されることも覚悟して故郷に戻つて来たのだつた。パリサイ派の連中らが唱へる実のない律法主義を捨てることは危険なことであるに違ひないが、ソロモン王の栄華を空しく思ひ、国を持たない人々が離散していく様を眺めて、ヤコブは世界へ目を向けることにこそ希望があるやうに思へたのだ。待ち受ける多くの苦難を越えて、民族の導き手となる新しい法を手中にして帰還出来るやもしれぬ。エジプトを脱したモーセの偉業を自分と重ね、ヤコブは英雄のやうに胸を高鳴らせた。
 この哀れな友の余りにも純朴な恋の盲目を醒ましてやらねばならない。自分はイェルサレムで多くの痴情の縺れによる愚にも付かない事件を数多見てきた。ヨセフのやうな男たちが女に真心を捧げ過ぎた末に裏切られたときの行動は、常軌を逸したものとなり、救ひやうのない悲劇を引き起こすことをヤコブはいやといふほど知つていた。愛が深ければ憎悪もそれだけ強まるといふ不可思議をヤコブは理解したくても適はなかつた。この男は開明的で啓蒙心に充ち溢れた性情を持つ故に、人々の弱い意志と衝動的な過ちを憐憫の念でしか見れなかつた。真実を知ることが良いことだと信じてゐたヤコブが、友の迷妄を解いてやることを友情と思ひ込んだのは宜なきことであつた。
「ヨセフ、どうして真実から目を逸らさうとするのだね。君のマリアさんへの愛は気高いものだと思ふよ。しかしね、本心に嘘をつくことは良くないことだよ。勿論知らなかつた方が仕合はせなこともあるだらう。だけど、君は幾許かを知つてしまつてゐる。君の先程からの顔付きを見てゐればわかるよ。何れははっきりすることから目を背け、自分や周囲を欺き続けるのは卑怯なことではないのかね。友だから云ふのだ。真実を見据ゑるのだ。君は知つてゐるか。海の向かふのギリシアの人間らは真実だけを捉へようと虚妄と戦つてきた。その結果、ペルシア人の大帝国を滅ぼし、その偉業を継ぐローマ人らは地中海を制圧したのだ。強く生き給へ。真実から目を背け、過酷な現実を臆病に避けてゐては、何も得ぬまま終はつてしまふ。何も為さぬままゐるのは怠惰と云ふのではないかね。筋道を立て、真実に近付こう。そして、最も良き処し方を考へよう。今より少しでも良く生きることが我々に出来る最上の生き方ではないのか。さあ、逃げないで正直に答へておくれ。君とマリアさんはいつ婚約したのかね」
 ヨセフは自分が嘘つきでないことの証しを立てたく、大人しくヤコブの問ひに答へることにした。
「婚約したのは九ヶ月前だ」
「先程、婚約後にマリアさんは親戚の家に行つてゐたと云つたね。それはどのくらゐのことなのかね」
「大体三ヶ月間だ。エインカレムに住んでゐるエリザベツと云ふ親戚の家に行つてゐたのださうだ」
「待つてくれ。ここはとても重要なところだ。何時マリアさんはナザレを離れエインカレムへ赴いたのかね?」
「婚約して四日後だ」
「何てことだ。確か来月には臨月になるだらうと云つてゐたね。それでは、丁度この地にゐない間に懐妊したことになるぢゃないか」
「しかし、マリアが云ふにはガブリエル様が現はれて受胎を告知なさつたのはナザレを出発する日のことだつたさうだよ」
「さっぱり筋が通らないよ。君がマリアさんの懐妊を知つたのはマリアさんがナザレに帰つてきた時のことだと云つてゐたね。それでは、出発のその日に起こつた受胎告知のことをマリアさんは君に隠してゐたのかね」
「いや、さうではないんだ。私はマリアと婚約を交はした日の翌日から一週間の間、仕事でナザレを離れなければならなかつたのだ。ナザレに帰つて来たらマリアは既に旅立つてゐたのだ」
「それも非道い話ではないか。待つてゐてくれてもいいだらうに」
「うん。しかし、マリアはすぐに旅立つと云つてゐたし、私が仕事で見送りに行けないと嘆いたら、別れの時に辛い思ひをさせたくないから却つて好都合だと諭してくれたのだ。だから、その時はそれ以上駄々を捏ねなかつたのだ」
「それで、マリアさんがナザレに帰つて来た時にはもう身重だつたと云ふのだね。その間、マリアさんは受胎のことは君に一切知らせなかつたのかね」
「うん、さうだ」
 ヤコブはここ迄聞くと自分の推論に確信を抱くやうになつた。
「随分非道い話ぢゃないか。マリアさんの行動は怪しいことが多過ぎるよ。私の憶測だが、君、かういふことではないのかね。恐らくその時分にマリアさんには愛人がゐたのだ。情事には目撃者がゐないことが肝心だから、知り合ひの多いナザレを離れたのだ。君に内緒でかの地で逢瀬を重ねてゐたのだよ。事情があつてその男とは結婚出来なかつたのだらう。男は思ひ掛けない妊娠に恐れをなして逃げ出してしまつたのかも知れない。いや、もしかしたら、そんな男なぞゐなかつたのかも知れなくて、行き摺りの男に身を任せて過ちに至つてしまつたのかも知れない。マリアさんは一見とても貞淑さうで、しっかり者に見える。しかし、あれだけ美しい人だ。世の中の男どもが放つておく訳がない。私もマリアさんが何某から求愛を受けたとか云ふ話を少なからず聞いた気がするよ。君だつて婚約者なのだから幾つかその手の話を聞かされたことがあるだらうよ。私は自分のこれ迄聞き知つた例で話すのだから怒らないでおくれ。男にちやほやされる美しい女は程度の差はあるだらうが、皆男の気を引く事に興味を抱いてしまふものなのだよ。だから、自分に無関心な男が現はれると腹を立てるのだよ。男が自分の美しさに魅了されない筈がないなんて思ひ出すのさ。しかし、これは男にも責任がある。男の哀しい性でね、美しい女を邪見には扱へないのさ。全くどうにもならないことさ。男は美しい女が自分をからかつてゐると知りながらもひどく喜んでしまふのだからねえ。さういふ訳だから、君のやうにマリアさんを高嶺の花と思ひ込み、諦めによつて無関心を装ふ男が気になつたのかも知れない。馴れ初めを話してくれたね。君が独りぼっちでゐたところに声を掛けてくれたと云つてゐたね。マリアさんが君を選んだことをどう思つてゐるのだね? マリアさんの本心は勿論わからないさ。けれどもひとつの推論としては、君の臆病な態度が気になつたのかも知れないと云ふのは強ち的外れでもあるまい。純朴な君を手玉に取るのは容易かつたろうよ。何故、君と婚約までしたかつて? 先程の推論に従へば簡単な話だよ。君は疑ひを知らない。マリアさんの云ふことを何でも信じる。マリアさんにとつて君ほど都合のいい男はゐないのだよ。かうも考へられる。マリアさんは何処ぞの男と関係を持ち、図らずも妊娠してしまつたことに気付いた。その男とは結婚をすることが出来なかつた。信仰心篤い君ならば奇蹟の話を信じると踏んで、君を丸め込んだと云ふ訳だ。他の男なら忽ち不義姦通を世間に公表し、石打ちの刑を課せる筈だが、君は決してそんなことをせず、奇蹟を有り難がるに違ひないとね。それにしても、何だつて君はマリアさんと大人しく結婚したんだい? それに君は未だマリアさんと寝たことがないのだらう。結婚したにも拘はらずだよ。非道い話だよ。君には指一本触れさせずにだ。私はいいやうに騙されてゐる君が哀れで仕方がないよ」
 ヤコブは何故友をこんなにまで苦しめるのか、己が内心を嫌らしく思つた。ここまで云ふ必要なぞどこにもなかつた。いや、話の最初からヨセフをいたぶることなど避けられた筈であつた。ヤコブは奥底で自分の卑劣さを自覚してゐた。それは余りにも矮小で、下劣故に認めたくない感情であつた。ヤコブもまたマリアの美しさに惹かれてゐたひとりであり、別段想ひを寄せてゐた訳でもないのに、いざ結婚の話が取り纏まると、どうして自分のものにならなかつたのだらうと腹立たしくなる男のひとりであつた。理由のない嫉妬に苛まれ、ひとりの美しい女を占有することを得た男への羨望と、女が自分とは以後他人であることを決定付けた人間社会の掟に不条理を感じ、反抗的な感情を図らずも抱いてしまつたのだ。ヤコブは友を祝福する一方、呪詛を秘めた自分を厭はしく思ひ、項垂れるのであつた。
 ヨセフは全身に力を込め、唇を強く噛み締めながらじっと堪へてゐた。しかし、手の震へは止めようがなかつた。ヨセフの目は今にも溢れてしまふかと思はれるほど潤み、真っ赤に充血してゐた。涙が落ちるのを必死に堪へてゐるかのようで、ヤコブは深い憐憫の情に包まれた。ヤコブがそっと肩を抱こうとすると、突然ヨセフが口を切り出したので、電撃を浴びたかのやうに驚いた。

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