ヨセフ

 しかし、ヨセフから返つて来た返答は意外なものであり、ヤコブの困惑は一層強められた。
「私は君の云ふやうな男ではない。モーセの律法を破つたこともない。君が不可解に思ふのも尤もだ。私は包み隠さず話すから、最後まで聞いて欲しい。私がマリアのことを深く想ふやうになつたのは、彼此一年半前のことだ。マリアは君も知つてゐるやうに村一番の若くて美しい娘であり、どれだけ沢山の男がマリアに求愛をしたか、君にも想像が付くだらう。私にとりマリアは高嶺の花であり、近付き難い乙女であつたのだ。それがひょんなことから懇意にするやうになつたのだ。私が祭の時に独りぼっちで隅に座つて若者や娘たちの踊りを眺めてゐたら、何時の間にか踊りの輪を離れて美しいマリアが私の傍に立つてゐたのだ。私は席を譲ろうとした。するとマリアは天使のやうな微笑を私に送つてくれた。気まずい想ひやら照れくささで、あなたは踊りに加はらないのですかと尋ねたら、マリアはかう応へたのだ。
 ――あなたが一緒に踊つて下さるのでしたら参りませう。
 この意表外の返答には少なからずたぢろいだよ。けれども、断るなんて失礼だし、かう見えても私は踊りには自信があつたのだよ。不断にはないことだが、私は祭の浮かれた気分に乗じて楽しむことにした。マリアもすっかり上機嫌になつたやうで、踊りが終はつた後、是非今度晩餐に来てくれないかと申し出をしてきたのだ。私は余りの仕合はせに碌な返事が出来なかつた。それからだ、私が深くマリアを愛するやうになつたのは。私の愛が通じたのだらうか、信じられないことにマリアもそれに応へてくれた。やがて私たちは婚約し、婚礼を挙げる日取りを決めるまで話を進めたのだ。それ迄、君の云ふやうな婚前交渉などない。私はマリアと一夜を過ごしたこともなく、清らかな関係を保つてゐたのだ。そればかりではない。私は今日のこの時迄一度も聖なるマリアと臥所を共にしたことはなく、夫婦の契りを結んだことがないのだ。マリアは処女なのだ。どうか信じて欲しい」
「いやいや、一寸待つてくれないか。それでは何故、マリアさんは懐妊したのかね。婚約を交はしたから逸楽に耽つたのだらう? 恥じることはないよ。堕落したイェルサレムではそのやうなことは当たり前のことになつてゐるのだから。だが、このナザレでは対面が悪いだらう。厳格を旨とするエッセネ派の連中は黙つてゐないだらうよ。君の過ちはとても残念だ」
 ヨセフはヤコブに言葉を継がせまいと堰いて云つた。
「違ふのだよ。信じておくれ。マリアを孕ませたのは私ではないんだ」
「なんだって!」
 ヨセフは弁明を聞いて欲しいとヤコブに懇願した。しかし、正義感の強いヤコブは気分を鎮めることが出来なかつた。
「では、誰の子なのだね。そして、何故君は不義姦通の罪でマリアさんを石打ちの刑にしないのだ?」
 ヨセフは躊躇つた。しかし、弁明を続けない訳にはいかないと観念した。
「マリアを身籠らせたのは私ではない。聖霊の力なのだ。いや、よく聞いて欲しい。君を愚弄してゐるのではない。順を追つて話すから、最後まで聞いて欲しい。私たちが婚約を交はした後、暫くの間マリアは親戚の家を訪ねてゐたのだが、ナザレに帰つてきたその日に私の家を訪ねてくれたのだ。その時のマリアは神々しいばかりの後光に包まれ、正視出来ないくらゐであつた。そして私にかう告げたのだ。
 ――ヨセフ、驚かずによく聞いて下さい。天使ガブリエル様が私の許に御出でになり、私の受胎を御告げになりました。主の御子を私が妊つたのです。この子は我らが待ち望んだユダヤの民の救世主となり、ダヴィデの王座を継承するものになるであらうと天使様はおっしゃりました。
 詰まり、マリアは処女のまま主の御子を身籠つたのだ。美しきマリアは主によつて選ばれた乙女なのだよ」
 ここまで神妙にヨセフの告白を聞いてゐたヤコブは受胎告知の一件では堪らず驚愕の叫びを発してしまつた。
「ヨセフ! ヨセフ! 一体何てことだ。君自身は天使ガブリエル様がマリアさんに受胎を御告げなさつたをその目で見たのかい?」
「いやいや、私はマリアから話を聞かされただけだ。私なぞは天使様の御姿を拝めるやうな男ではないよ」
「おい、待つてくれ。では、マリアさんの他には誰もガブリエル様を見た者はゐないのだね。受胎告知の場に居合はせた者はゐないのだね。私にはどうもわからないよ。マリアさんの話をどこまでを信じてよいのか、私にはわからないよ」
 ヨセフは潤んだ目でヤコブを見据ゑ、掴み掛かりさうな勢ひで唸つた。
「ヤコブ! 君は何てことを云ふのだ! 君は主の御業を信じないのか。マリアは処女のまま主の御子を懐妊したのだ。聖処女となつたのだ」
 まじまじとヨセフの目を覗き込みながら、ヤコブは応へた。
「私は君の言葉を信じたい。奇蹟も信じたい。しかし、私はイェルサレムに長く滞在し、見聞を広めてきた。かの地ではパリサイとサドカイの連中が厳格な律法遵守を叫び立て、風紀を取り沙汰してゐるが、その実、連中らも悪魔の誘惑から逃れる術もなく、寧ろ民衆以上に溺れてゐる始末だ。形式だけで戒律を守る振りをしてゐるのだから、罪業は深い。最早、都では主の掟は行はれてゐないに等しい。嘆かはしいことだ。かてて加へて、悪いことには異教の神々の信仰が次々と齎されたことで、預言者らの言葉も次第に風化し、民衆は終ぞ来らない救世主に痺れを切らし始めた。我らがユダヤの民はこれ迄にも、エジプトや、バビロンや、シリアの神々の圧政に耐へ忍んできたが、この度我らを支配することになつたローマの神々は些か質が悪い。カエサルの軍勢は我らの神殿を尊重してくれるとは云へ、寛容なだけに忍び寄る涜神への抵抗が困難だ。ローマの神々は淫猥で自堕落だ。欲得に溺れたいが為に権威の陰に隠れて戒律主義を掲げるパリサイらの五月蝿い連中に従ふよりも、ローマ人らの堕落に巻かれた方が増しと考へる者は後を絶たない。腹違ひの兄弟の妻ヘロデヤと愛人関係を結び淫蕩に耽るヘロデ王を先頭に、我らがユダヤの民は主の示された掟からは遠く隔つてしまつてゐるのを私はこの目で見てきたのだ。ヨセフ、君の話を信じたい。しかし、私を含め多くの人が突拍子もないことには胡散臭い眼差しを向けてしまふのだ。ユダヤの善良な民は主の奇蹟を待ち望んでゐるとは云へ、実際は、我らの内に奇蹟を見た者はひとりもなく、こともあらうに奇蹟を売り物にした詐欺師ばかりが横行し、誰もがうんざりしてゐるのだ。どうしてマリアさんの言葉を素直に受け取られよう。よく考へて見給へ。マリアさんだつてひとりの人間だ。天使のやうに美しい娘さんだが、人間には違ひないだらう。だつて、人間でないなら君は何者と結婚するのだね? さうだらう。神の子を宿すなんて、君は本当に信じてゐるのかい? 本当にそんなことがあるのだらうか? 人間の為せる仕業ではないよ。なあ、私だけには教へてくれないか。本当は君とマリアさんの子供なのだろう? 婚前交渉を重ねて懐妊してしまつたのだらう? いいのだ。イェルサレムの人間たちも大方してゐることだ。ローマの風紀の真似をして今では公然と罷り通つてゐることなのだから。ナザレはまだまだ放埒な風紀を容認出来るやうな土地ではない。君らがひた隠しにしたいのもわかる。しかし、主は御見通しだよ。寧ろ君たちは偽証罪を上塗りしてしまつてゐるのだよ。罪を云ひ繕ふことをしたら罪を重ねるだけだ。ヨセフ、私は君の親友だ。だから、かうしてはっきり忠告するのだ。ナザレの疑ひを知らない純朴な人たちの信仰を好都合とばかり、マリアさんと共謀して詐欺師紛ひの作り話をしないでおくれ。私にだけは本当のことを話してくれないか。ナザレの人たちが知つたら怒つて君らを赦さないだらうから、そのままにしておくがよいさ。だが、私にだけは、ガブリエル様の作り話は止めておくれ。君を嘘つきと思ひたくないのだ」
 その時示したヨセフの表情をヤコブはどのやうに受け取れば良いか大いに迷つた。それほどヤコブの意図に反した眦をしてゐたのである。ふと、ヤコブの脳裏に今のヨセフと同じ顔付きをした男の記憶が浮かんできた。ヤコブはイェルサレムで裁判の様子を幾つも見聞したが、主人の金貨を盗んだと訴へられた男が自分の潔白を淡々と申し述べてゐた時の顔と、今のヨセフの顔付きがそっくりなことに思ひ当たつたのだ。ヤコブはその男を訴へた主人とは顔見知りであり、吝嗇で召使ひを豚のやうに扱ふ男であることを知つてゐた。この腹黒い男が召使ひに給金を払ひたくないばかりに、窃盗の罪を巧妙に仕立て上げ、召使ひを罠に陥れてはお払ひ箱にすることを繰り返してきたことも聞き及んでゐた。罪を着せられた哀れな男は、ヤコブには理解し難いほど落ち着き払つた様子で、給金のことも気に掛けず、丸で主人の悪巧みを見通したかのやうに身の潔白を述べるばかりで、抵抗する態を見せなかつた。この男の表情にあつたのは、誰からも真実を認めて貰へないといふ深い悲しみ以外にはなかつたやうにヤコブには思はれた。給金を失ふばかりでなく、鎖に繋がれる運命になつたこの男の眦を印象強く眺めた記憶が、今まざまざとヤコブの胸中に甦つた。真実を突き止めようとする意志を欠き、冤罪に服することを甘受しようとするこの男の態度がヤコブにはどうしても理解出来なかつたのである。だから今のヨセフに同じ悲哀の表情を見い出した時、ヤコブは己の発した言葉に云ひ知れぬ後悔の念を覚えるのだつた。しかし、それが何処に向けられたものかは漠としてわからず、ヨセフの心に潜む深い闇を見据ゑることは杳として出来ないままだつた。

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