13歳から18歳までのティーンエイジャーになると、第二次成長が始まつて多感な年頃になる。前半、すなはち中学生に当たる時期には性教育が本格的に始まる。性への意識が高まるので、生活空間は12歳までとは異なり、男女の別が確立され、提供するものにも違ひが出てくる。食事や衣服の要望に違ひが出てくる。成長差があるので、対応は幅広く構へてをくべきだらう。恋愛感情が生じ、性欲が出現する。変化の大きい時期なので、一律の指導は通用しない。ティーンエイジャー期においては性的な面での問題行動に注視すべきである。異常行動が見られた場合は移動の対象となる。
また、性的違和を感じる者も出てくる。体の悩みや心の悩みを生活指導教官は汲み取らねばならない。そして、性的マイノリティに対しては移動が奨められる。これは排他するのではなく、LGBTの人間が一般の集団に混じつて生活することの困難さを配慮してのことである。自ら性的マイノリティであることに向き合ひ共存して生きていくか、LGBTの人間たちで構成される施設で生活するかを選択できるようにするのだ。これらははつきりした形を取らない場合も多いので、意識された段階で移動をしたり、一般の集団に戻つたりと道を選べるようにすべきである。同じやうな性状を持つ者と生活することで、一般の生活では見出すことのできない幸せを見つけられる可能性もある。このやうに性的マイノリティの問題も救済できる制度として自負したい。
13歳からは成長に伴つて文系・理系の道が次第に別れ、プログラムの内容が高度になつてくる。外国語の習得、技術的な体験、ITの知識など専門的なプログラムを享受することができる。運動競技も剣道柔道の他、これまでの教育では受けることのできなかつた世界の様々な競技を経験できるやうにし、その後の選択肢を増やしていくとよい。芸術面でも体格が伴はないと困難であつたものも体験できるやうにする。クラブ活動は年齢に合はせて本格的になるであらう。
クラス改編は年に1回行はれるが、ティーンエイジャー期になると専門的な施設へと移動する者が増えると想定される。これまでは幼少期から示した天才の発掘であつたが、趣向が見えてきた少年少女の夢を叶へる制度に変容してくる。例へば、ダンサーを目指すもの、服飾デザインに目覚めるもの、ゲームクリエイターを目指すもの、生物学者を目指すもの、多種多様な道が各々に出現し、移動と再編が始まる。同じ施設に何年も居続けるのは全く趣向が出てこない生徒、競争を好まない性格の生徒、もしくは比較されて傷つくことを避けたがる生徒だらう。だが、かうしたやりたいことが見つからず、興味範囲もクラブ活動の域を超えない人間が多くゐるのも事実だ。これらの者にも定められた様々なプログラムを与へ続け、得意な分野や性格面に基づきクラス再編をしていく。
前期ティーンエイジャーからは申請が必要だが外出が許可される。実情として、より体力や知力が増した子供たちの要望を、施設内だけで満足に充たすことは難しくなつてくる。例へば、購買したい商品が施設内に揃つてゐないことが生じてくる。そこで、毎月支給される電子マネーを溜め込み、外出して街で購入をすることを可能とする。クラブ活動は地域の支援が必須になつてくる。囲碁将棋の対戦相手、生け花やお茶の講師、野球チームの監督やコーチなどを地域の大人たちが担ひ、交流を図りながら後押しするのだ。とはいへ、外出には門限があり、早朝は5時から8時まで、夕方はプログラムが終了した16時から19時までとする。休日は5時から19時まで外出が許可される。
前期ティーンエイジャーには個室が与へられ、それまでの集団による生活空間から個人の人格を尊重した施設になる。机とベッドだけの簡素な部屋であるが、ひとりだけの時間と空間を持つことができるやうになる。
さて、16歳から18歳までの後期ティーンエイジャーは、前期の延長ではあるが、どんどん高度に分化され、所謂一般施設、即ち特別プログラムがない施設の方が少なくなる筈だ。他方で、一度専門施設に移動したものの、才能が開花せず、競合者たちとの競争で挫折し、夢敗れた者たちが一般施設に戻つてくることもある。このやうなケースが後期ティーンエイジャー期では増えてくるだらう。
長い期間を経て分類が行はれてきたので、優秀な人物を炙り出すこともできるが、もうひとつの利点として、悪質な人間、犯罪を犯すやうな人物を早期発見できるのもこの制度の優れた点であることを強調したい。傷害事件を起こした者、いじめを首謀した者、窃盗や詐欺行為をした者、精神状態が不安定な者、性的に異常行動を取つた者など、様々な種類の危険人物がそれぞれに集められ、一般の生徒とは触れ合はずに、更生の機会を持ちながら表面的には一般と変はらないプログラムを受けて生活をする。問題のある人物を一般の中に入れて置くことほど危険なことはない。原因を摘み取ることが重要なのだ。先天的に危険な人物は特別な施設で過ごすことになるだらう。悪影響を最小限に抑へるのと、犯罪予備軍を監視できるといふ利点がある。取り返しのつかない事件に発展する前に対処ができる仕組みであることを自負したい。
後期ティーンエイジャーにおける前期との新たな違ひは外出が自由になることである。後期ティーンエイジャーになると許可がゐらなくなり、時間も4時から22時までは自由に行動できるやうになる。ただし、夜間の門限を破ることは問題行動となるので全てが自由といふ訳ではない。また、アルバイトは禁止されてをり、雇用も許されていない。中卒の経歴はなくなり、全員が定められた教育課程期間を修めることが必須事項とされる。
この期間で注意すべきことは恋愛による問題が生じることだ。性交渉自体は禁止されてはゐないので、無分別な行動となるかだうかは当人たちの問題となつてくる。特に妊娠した場合はだうなるか。卒業までは奨励されないので、性的に奔放であるといふことで男女とも移動の対象になる。なお、出産した女性に対しては規定通り祝金が与へられるし、妊娠中や出産後も移動先で教育を続けて受けられる。
18歳を向かへると成人として施設を卒業し、就労するか、大学に行くかの選択をする。生活指導員の他に進路指導員もをり、進学と就職の支援を行ふ。国家が関与するのはここまでである。
大学に行くための学費はだうするのか。奨学金制度を使ふことになるが、最高学府としての大学のあり方を見直す必要があるだらう。これまでは親の経済力で進学を諦めた者は多い。一方で進学をした者でも何を学びたいのかはつきりせず漠然としてゐた者が多い。この制度では国家が定めたプログラムの他に各自に適した専門教育を存分に提供してきたので、社会で活躍できる知識や技能を十分に身に付けてゐる筈だ。さうなると、大学とはそれ以上の専門知識を学ぶための機関でなければならない。さて、医学・医療に関わる全ての教育はだうするのか。これこそ国家が持たねばならないもので、入学試験こそパスする必要があるが、学費は免除すべきだ。医学部等の見直しが迫られる。よく考へてみて欲しい。命を預かる人間は信頼出来る優秀な人材で、熱意がある者であるべきではないか。親から継承したとか、経済力があるからといつて、医療関係者になる選択をすることは全ての人にとつて幸せなことだらうか。親に影響されずに医療従事者を目指すことの利点を認めねばなるまい。医学部等のあり方は国家の援助のもと改革をすべきである。それ以外の大学についても同じで、大学でしか受けられない学問を学びに行く場所でなければならない。特別な学問を授けることができないのに学費だけ取るやうな大学は消滅した方が良い。国立大学がこの制度に組み込まれ、優秀な学者を集結させれば大方解決されると思はれるが、一部の伝統ある私立大学からは抵抗があるだらう。しかし、大学の本来あるべき姿を考へると、学費で成り立つビジネスとなつた現状は憂慮すべきではないか。私立大学の存続には奨学金制度の確立と、最高学府として意義の再認識が必須となる。国立大学と異なり、有償でも学びたい研究成果がないと成立しないのだ。長年、世界の大学ランキングで日本の大学が奮はないのは嘆かわしいことではありませんか。
進学を希望するのは専門的な進路を決めてゐる人物になると想定される。大学で医歯薬、経営学、建築学などを希望する者は、既にその路線に乗つてゐる筈である。だから、唐突に進学を希望しても入学は難しいと思はれる。浪人はこれまでのやうに親からの支援がないので、生活手段がなく奨励されない。就業した上で受験を目指すといふことになる。従来の感覚と異なるので反論をする方も多いとは思ふが、大学とは本来学問を極めたい人が行く場所なので、社会人を経験してから入学を希望するケースも増えてくるのではないかと想像される。学ぶ目的がない人間が大学に行かふとするのは健全な姿ではない。受験に失敗してしまつても強い意志があれば翌年受験をすればよい。やりたいことを見つける時期は人それぞれであるけれども、とりあえず大学に入つてから見つけやうとするのは実に奇妙な風潮だとは思ひませんか。
就職活動は最終学年から行はれてをり、各々が受けてきた専門知識や技能がわかつてゐるので、企業もアプローチがしやすく、最終学年で所属したクラスの生徒たちは似たやうな業種に就職することが想定される。長い年月をかけて、最終学年のクラスは多種多様な生徒の集まりではなく、似通つた生徒の集まりになるであらう。就職に関して進路指導員は企業との仲介を行ひ、全員が卒業時に就職ができてゐるやうにするのが好ましい。先に述べたやうに進学を希望する者に対しても就職先は確保してをき、試験が不合格であつても浪人をしないやうな受け皿を設けておく必要がある。
さて、後期ティーンエイジャーは一部の例外を除いて、ある義務が生じることをここで述べたい。プログラムの一環として、高齢者施設での支援が義務付けられるのだ。詳しくは後述するが、少子高齢化問題を解決するにあたつて、出生率の低下を改善することが求められてゐるのと、高齢者の介護の担ひ手および財源を確保することが求められてゐる。結婚制度が廃止され、親族がゐなくなるので、高齢で自立して生きることが困難になつた者は高齢者施設で生活することになる。これも国家が支援することになる。これがどのやうな施設かは後述するとして、介護を行ふ担ひ手を確保する必要があるのは大問題だ。ただでさえ、介護業界が逼迫してゐるのに、親族による介護といふ概念がなくなり、代はりに国家が支援するのは問題を悪化させてゐるといふ指摘は当然受けねばならない。そこで、体格のそろつた16歳から18歳までが義務として近隣の高齢者施設に出向き、様々な補助を行ふ制度を実行するのだ。若くて体力のあるティーンエイジャーが従事することは理にかなつてをり、しかも最大のメリットは人件費がかからないことである。正規の介護職員は少なくて済み、毎日1クラス分の若者が高齢者施設を訪問し補助をするので良いことずくめだ。入浴やリハビリの補助を複数名で行ひ、話し相手やゲームの相手をする。若者にとつて高齢者との交流は貴重な体験になると信じてゐる。病院施設ではないので、身体が不自由な者は少なめで、専門的な作業や注意点はなく、高齢者とのふれあひが大きい。休日にも介護システムは組まれてをり、1名あたり月5日程度は義務としてシフトが組まれる。その日は授業がなく、1日中高齢者施設にて職員の指示を受けて介護の補助を行ふ。生徒らには翌日を休日に充てるのが望ましい。対象となるのは近隣の施設で徒歩やバスで集団訪問する。学校施設が地方に設立されてゐるのもこのためで、教育機関と高齢者施設がセットになつてゐるのだ。なお、この義務から免除されてゐる者がゐる。心身に障害を持ち。介護業務に従事できない者は勿論であるし、トップクラスの専門教育を受けてゐて時間の確保が難しい人材である。それ以外は例外なく16歳から18歳までの期間を介護に従事するやう義務付けられる。高齢化社会の問題は多様であるが、結婚の廃止により、家族・親族の概念が崩壊し、完全な個人主義の社会になることで、却つて柵のない福祉社会が構築できる筈だ。
続いて、高齢化社会の問題を解決する提案について述べていかふ。
医療の進歩によつて高齢化はますます進むに違ひない。結婚の廃止によつて家族が解体するので、子供や孫に面倒をみてもらふ選択肢はなくなり、介護を要する者を支援するのは国家の義務となる。自力で生活が困難になつた者を受け入れるため、全国的に施設を設置する必要がある。生活が困難になつた者とは2通りが想定される。生活する資金が底をついた者と、病気や怪我で介護なしには生活ができなくなつた者である。前者のケースはわかりやすい。定年まで働いた者は貯蓄した財産で余生を過ごす訳だが、底をついても親族が支援をする構造はないので国家が引き取ることになる。手続きは極めて簡便で、近隣の施設に受け入れ枠があるなら入所できる。条件は生産年齢を超えた65歳以上であることだけだ。施設では個室と食事と衣服の提供があり、生活が保証されてゐる。入浴、洗濯などは共同設備を使用する。娯楽は施設にあるものを利用できる。施設には医師の配属が義務付けられており、診察や処置を行い、薬を処方する。高齢者施設は診察所としての機能を持ち合はせてゐるのだ。治療が必要な高齢者は病院型施設への移転をする。快復したら通常の高齢者施設へと戻る。
次に、財産がなくなつた訳ではないが、身体が不自由になり自力での生活が困難になつたケースについて述べていかふ。とはいへ、程度の差はある。転倒や交通事故や病気で身体が不自由になつたがリハビリで快復を目指してゐる者、足腰が弱まつて車椅子での生活になつた者、糖尿病など持病で投薬治療をしてゐて日常生活は支障ないが観察を要する者、軽度に認知症を患つてゐる者などはこの施設に入居することになる。一方、重度の後遺症を負つた者や末期がん患者など入院生活が必要な者は、高齢者施設ではなく障害者施設や病院施設で生活することになる。重度の認知症を患つた者など一般の高齢者施設では治療や対応が困難な者も病院施設への入居が望ましい。このやうに心身障害者のための病院施設と一般の高齢者施設は異なる。どちらの施設に入居するのが妥当かの判断は難しいが、本人の希望も重要視されねばなるまい。
全国の高齢者施設は国家管轄だが、地方自治体ごとで適宜設置されるのが好ましく、地方自治体が運営を行ふのがよい。先に述べたやうにこの施設には毎日交代で16歳から18歳の若者が訪問し、高齢者と触れ合ふとともに介護が必要な者を補助する。生徒が支援に来るのは国家としての事業だが、高齢者施設の良し悪しを決定付けるのは地方自治体の裁量に拠る。施設の充実度は各自治体によつて異なると考へてよい。入居者はより良い施設を希望して移動を申請することもできる。
高齢者施設は全員に個室が割り当てられてゐるが、洋室ならベッド、和室なら布団一式が設置されてゐる程度で、水道、洗面所、トイレ、お風呂、調理場、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、パソコンなどは全て共同で使用する。これは施設運営のコストを抑へるためもあるが、さまざまな事故の可能性を考慮し、排除するためでもある。施設は勿論全面的にバリアフリーを採用してゐる。お風呂は複数設置することが義務とされるが、風呂場の充実度は各施設の評価を決定付けるものになるであらう。調理場や冷蔵庫は職員の管理下のもと、自由に使へるようになつてゐる。提供された食材を調理することも可能だ。洗濯機はランドリースペースが用意されてをり、自由に使ふことができる。洗濯物干しも何箇所か利用が可能になつてゐる。テレビ等は憩ひのスペースに設置されてゐる。この憩ひのスペースは複数設置が望ましい。屋外環境の充実は各施設の満足度の差になるであらう。
高齢者施設は希望をすれば必要がなくても入居は可能である。例へば貯蓄が十分ある者でも侘しいひとり暮らしを嫌ひ、賑やかな高齢者施設を選ぶ者もゐるだらう。ただし、高齢者施設では贅沢をすることが許されてはゐない。入居にあたつて私物の持ち込みは一定の条件で認められるが、思ひ出の品や生活に必要な身の回りの小物以外は禁止されてゐる。生活費用がかからないのと引き換へに必要最低限の生活しかできないのだ。高齢者施設に入居すると貯蓄があつても使ふ機会がない。外出には許可が必要である。嗜好品を持ち込むことはできない。この施設は生活費を浮かせるための施設になつてはいけない。通信方法は各種提供されてゐるが、個人に端末は提供されず、共同の設備を利用することになる。かうした厳しい制限があるから、原則は生活困難者を養ふための施設である。ところで、貯蓄は決して無駄にならない筈だ。病気になつた時に病院での待遇をよくするために使ふことは可能なので、不測の事態のために貯蓄はそのまま残すことができる。
高齢者施設での生活は定時の食事時間や入浴時間以外にこれといつた決まりはない。毎日近隣の学校から生徒が朝から夕食時間までやつてきて、一部の者は食事の世話を受けたり、お風呂の介助を受けたりもするが、大方は掃除や洗濯を共に行ひ、散歩をし、お茶をし、レクリエーションを共に楽しむのだ。
さて、高齢者の最期であるが、家族がないので2通りが考へられる。ひとつは高齢者施設や病院で死亡した場合で、国家が責任をもつて火葬を行う。死亡通知は毎日国家が発表を行ふ。もうひとつは死亡時までに財産を保持してゐた者で、かつ遺言を残してゐるなど、死亡後の指示を残してゐる者は、個人ごとに葬儀や財産分与等が行はれることがある。家族がないので、遺言書が作成されてゐない場合は、財産は死亡時に誰のものでもなくなり、国家によつて全て管理される。財産の分与は可能であり、生前に財産を整理してをけば没収は免れる。また、葬儀にしても生前に支払ひをしてゐるものは有効で、希望の形式での葬儀が行はれる。弁護士を介して死後に遺産分配を託するのも有効である。だが、遺産の整理を行はないまま死亡した者の財産は国家により吸収される。これまでは遺族が死後に相続を行なつてきたが、これがなくなるのだ。
高齢者施設のことを多く述べてきたが、多くの者は貯蓄した財産で余生を過ごすのが幸せであり、怪我や病気で独力での生活が困難になつても、裕福な者であれば財力によつて訪問介護業者を依頼するのがよからうと思ふ。所謂成功者で財を成したものは高齢者施設を頼る必要はない。老後生活の理想は気の合ふ者に囲まれた悠悠自適な生活ではないかと思ふ。
現在展開してゐる介護産業は、この新制度では富裕層を対象としたビジネスとして変はらず必要とされるであらう。従つて、介護ビジネスが今後取るべき選択は、富裕層をターゲットとしたハイリターンの業態へと移行するか、国家の制度下で地方自治体の傘下に入り安定した業態へと移行するかにわかれるだらう。
個人においては家族のために行つてきた貯蓄がなくなることから経済活動が大きく変はつてくる。結婚による共有財産がなくなり、個人の純粋な私有財産のみになる。財産管理をしつかりすれば個人の貯蓄は現在よりも大幅に膨らむ。老後の設計も個人の裁量によつてくるのだ。これまでは家族・親族が老後を支へるといふ因習が存在した訳だが、人口比率が歪んだ高齢化社会においては下の世代を圧迫する重石となつてゐた。家族の有無によつて左右されず、個々人の財産形成が老後を決定付けるとした方が何分にも平等公平で歪みがない。老後の貯蓄を十分に行つた者や事業により収入があり続ける者は、自由で快適な老後生活を送ることできる訳だ。身体が弱つてきたら介護ビジネスもしくは私的なお手伝ひを依頼し、入院に際しても支払額に応じた環境が保証される。仕事がなくなつてもすぐに高齢者施設に入る必要はなく、財産がある以上は独力で生活する選択の自由がある。
なお、高齢者に該当せずとも、重度の障害を持つてしまつた者は若年であつても国家が支援する。高度の福祉国家とならねばならない。これまで家族が担つてきた支援者がゐなくなるのだから、生活保護は国家の最重要責務となる。
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