さて、ここからが本題である。生まれた赤ん坊はどうなるのか。
国家が管理番号を付け、一律に養育を行ふのだ。親の貧富には関係なく、赤ん坊は平等に育てられる。生まれによつて人生を左右されないのはこの提案の最大の良い点なのだ。
新生児期間は生まれた病院で過ごす。分娩室から出た赤ん坊は保育室で国家公務員である保育士によつて育てられる。女性は母乳を提供することができる。この母乳の提供にも対価が支払はれる。この乳母制度といふべきものは、母乳を無駄にしないためにも有効で、24時間対応をし、新生児らに分け隔てなく与へるものになる。これまで一対一の哺乳ではうまくいかないことがあつた。母乳が少なくて悩むことはなくなるし、多く出る女性からは多く買ひ取つて無駄がなくなる。母乳の有効活用は非常に有益なのだ。乳母登録は国による検査を受けて行はれるので感染症に対する安全性も保証される。
病院と一体となつた新生児施設は24時間の応対をする。最も過酷な職場になるのだが、母親が新生児を育てる大変さを一箇所に集中させることができ、職員が専門性をもつて対応するので、これまで奪はれてきた産後女性の時間を有効に活かすことが可能になるのだ。新生児に異変があつても施設内で即時に対応ができる。障害や病気をもつて生まれた赤ん坊は直ちに東京の専門病院に搬送され、専門的な治療を受けることができる。この制度の利点は親の経済力によつて治療の差が生じないこと、国家が救命を義務とすること、専門医の治療を提供できること、障害を持つて生まれた子供に対する親の苦悩がなくなること、があげられる。特に最後の負い目や試練を感じずに出産を終へられることは画期的な制度だとは思ひませんか。
新生児期間が過ぎると連動する乳児施設へと移動をする。満1歳までの乳児期間はこの乳児施設で一律の保育を受ける。衣服や食事のことで親の経済力に左右されることもなく、全乳児が平等に専門性をもつて育てられるので、過不足のない成長が見込まれる。特に貧しい家庭、多忙な両親、愛情を注がない親の子らにあつた育児格差がなくなるのだ。また施設では成長に応じた対応を受けることができて、親が発育の個人差に悩むことからも解放される。過保護も虐待もなくなり、目を離してしまつた隙に起きる不慮の事故もなくなる。急な体調の異変も病院と一体となつた施設なので迅速に発見ができ治療が受けられる。
満1歳になると全国にある幼児施設へと移動になる。生まれた土地と連関することはなく、遠方に移動することもある。この幼児施設は都市部にはなく、地方の自然豊かな土地に設置されてゐる。これは都市部での保育環境が健康上と安全性の面で望ましくないためで、豊かな自然に囲まれた土地が相応しい。また、幼児施設職員を地方に均等に配備することで、地方の過疎化対策にもなり、日本の経済構造を変へる一助になるだらうと期待してゐる。
幼児施設で過ごす期間は満1歳から6歳までとする。1歳から3歳までの2年間は日毎に担当する職員を変へながら幼児数名程度の面倒をみていく。健康的な発育に重きが置かれ、食事と睡眠と遊びに注力される。日夜共同生活を送ることになるが、発育の記録とともに幼児個々の性状や体質を見極めることが求められる。子供は親を選べなかつたのと同様に保育員や一緒になるお友達を選べないが、不利益があつてはいけない。保育員によつて性状や体質に問題があると指摘を受けた子供はグループ替へや施設の変更を行ふ。例えば、乱暴な性格の子供は悪影響を他の幼児に与へるので、乱暴な子供を集めた施設に移動をさせる。わがままで泣き止まない子供は同じ性状を持つ子供を集めたグループに入れ替へをする。病気がちな子供は東京や大阪にある病院と一体となつた幼児施設へと移転させ、治療を優先しながらも健常な子供たちと変はらない育児プログラムを受けさせる。性状が異なる複数名の幼児の面倒を見るのは合理的ではない。施設では似通つた幼児のグループ形成を柔軟に行つて効率化を計るべきだ。子供たちにとつても手のかかる子ばかりが面倒を見てもらふといふ不公平感を感じることがない。
この育児プログラムの優れた点は、全ての幼児が国の定めた綱領に則り幼児教育を受けられること、親の貧富の差によつて生活レベルの格差を受けるやうなことがないこと、特殊な対応を要する子供を抽出することができて、それぞれに合つた特別な対処を施すことができることだ。保育職員にとつても性状の異なる幼児が混ざらず、保育の難しさが軽減されることになる。幼児施設では年齢と発育に応じてクラス分けが行はれ、幼児教育のカリキュラムが実施される。
これから述べる教育に関することが実はこの提案の優れた点で、読んでいただければ反対派を論破できる良案であることがおわかりいただけると信じてゐる。
3歳以降から始まる幼児教育においては運動能力や芸術的才能の発見が特に重要な要素だと考へてゐる。運動においては、足が速い、力が強い、持久力がある、バランス感覚がある、踊りが上手いなど、実にたくさんの発見がある筈だ。プログラムでは幼児教育期間にわたつて、これらを満遍なく実施し、適性を示す子供、熱心さを示す子供を見逃さない。幼児の頃に周囲から抜きん出た才能を発揮した者は本人の希望を確認した上で、特別な指導を受けることが出来る。専門施設に編入し、未来のオリンピック選手としての英才教育を受けるのだ。全国から選り抜かれた子供たちは陸上選手、水泳選手、体操選手になるための訓練を受ける。一般の子供たちが受ける教育プログラムは全て受けるのだが、加へて一流の指導者たちからの特別指導が受けられる。国家においてはオリンピック選手や世界トップクラスの人材を育成輩出できる機会となる。個人にとつても国家にとつても有益であり、才能を埋もれさせないための方策として一石二鳥以上であると自負する。親のエゴで将来を決めつけられるのではなく、逆に才能があつても親の反対や経済力の都合で開花出来ない不運も回避出来る。指導者の問題もある。指導者のもとに行かねば受けられない教育を、子供を一箇所に集めることで容易に変へる。指導者にとつても効率的で良い仕組みなのだ。
勿論、幼児期に限つたことではない、体の成長に従つて適性を見せる子供もゐるし、関心を強く持ち専門の指導を希望する子供も出てくる。英才教育への道は常に開かれてをり、抜きん出た才能と熱意があれば、特別な機関へと入ることができるのだ。逆に周囲の期待や本人の希望とは裏腹に才能の限界が見えた、本人の熱意が減退した、身体の成長で適性度が落ちてしまつた者、例えば大きくなり過ぎたバレリーナや背が伸びないバレーボール選手など物理的な限界を感じてしまふ選手もゐるだらう。周囲の才能に動揺し、道を諦める者もゐる。向上心を欠いて良い成績を出せないまま燻る者もゐるだらう。さういつた者がゐることを想定し、一般教育は欠かさず提供し、いつでも特別な指導を止めることができるやうにする。多いケースとしては、野球選手を夢見た少年が、サッカー選手へ転向することも想定し、常に様々な可能性を見出すやうな仕組みを保ちつつ、本人の意志を汲んで専門的な指導を提供するのだ。
芸術分野においても同じだ。ピアノやヴァイオリン、絵画や工作、演劇や演芸などで特殊な才能や適性を示した子供を一箇所に集め、英才教育を施す。途中でジャンルを変へるなど興味は様々に変はるかもしれない。だが、一般の子供にはない特殊な才能がある子供の英才教育は早ければ早いほど良い。世界的な芸術家を輩出するためにも才能を常に発掘し続けるのだ。このやうな国家主導の英才教育は類例がなく、親のエゴから始まるのが常だから、操作されたものではなく、適性と本人の意志に添つた英才教育は非常に合理的で成果が必ず出るものと信じてゐる。
容姿が取り分け優れた子供には容姿を活かした活動の機会を与へ、IQが高い者には特殊教育を授ける。全ての人にはそれぞれに秀でた能力があり、国家とその使命を受けた教員らがそれらを発見し、支援することで最大の成果を生み出すことができると信じてゐる。
この仕組みの素晴らしいところは、凄い才能を持ちながら、才能が違ひ過ぎる周囲の子供らに囲まれて時間を無駄に過ごし、能力開発の機会を失つてしまわないことだ。
だが、全員が職業や栄誉に繋がるほどの飛び抜けた才能を持つてゐる訳ではない。社会に出てから発揮される能力も数多くある。これまで述べたのは一部の特殊な才能を持つ人間を最大限に伸ばすための仕組みであり、大勢の者は18歳までの一般教育課程を修了するのを義務とする。最初に国家主導の英才教育の素晴らしさを論じ、その利点を伝へたかつた訳だが、次に一般的な人たちが社会に出るまでの生活を描いてみよう。
3歳から6歳まで幼児教育を受けることは述べた。年齢でクラスは別れてをり、プログラムが異なる。プログラムは様々な体験ができるやうに組まれてゐるが、発育の違ひがあるので、発育の早い子と遅い子でクラス替へを行ふ。これは何のために行ふかといふと、程度が違ふ子らに一律の体験をさせるのは指導する側の負担であり、受ける子供らのストレスであるからだ。既に述べたやうに、天才的な子供は違つた教育を受けるやうになり、それ以外の者は一定の人数ごとで分類し直され、似たやうな発育・性状の子供らとプログラムを受ける。
幼児期は年齢を重ねる毎に大人数で過ごすやうに段階を経る。例へば1歳児は2名程度、2歳時は5名、3歳児は8名と次第にグループを拡大していき、職員が担当する一人当たりの数を増やす。年齢によつて配置する職員数を変へるのだ。3歳児からは夜間は定期的な見回り程度にし、保育を簡素化させていく。集団生活では固定された人間関係にならないやうにクラス替へは定期的に行ふ。施設内では隔てを少なくし、情操教育が偏らないやう配慮する。幼児期間を各家庭に囲はれて過ごすのとは違ひ、社会的な感覚をいち早く身に付けることが可能になる。
職員は毎日健康チェックを受けて勤務に臨む。そのため、家庭内から持ち込まれる感染症の心配はなくなり、児童の中での風邪の流行などは抑制される。病気の子は直ちに病床に移され、感染を広げない工夫がなされる。また、施設がすぐに看病に当たるから安心だ。
子供たちの生活であるが、食事は給食制度で、家庭の経済状況や就労状況による貧しい生活環境からの救済といふ利点がある。満足な食事を取れなかつたといふ子供がゐなくなることはどれほどよいことだらう。一方、飽食の時代で裕福な家庭や子供の健康のことに留意しない家庭における、必要のない悪い食事に溺れてゐた子供を救ふことにもなる。食べ過ぎの子供がゐなくなるし、子供に合はない食べ物に子供たちが悩まされることもない。アレルギーも早急に発見でき、特別な食事をすることが可能になる。強いアレルギーを持つ児童は移転をし、特別な食事管理を行つてゐる施設で生活をする。事故の心配もなくなるし、心的な憂慮も解決される。専門的な体力育成を行ふ子供らはまた違つた食事を提供される。理想的な状態かつ低コストで食事を提供することができ、食の経済的格差や食物の廃棄も抑へられるのだ。
衣服は幼児期間では基本的に統一規格とし、男女での差も極力少なくする。種類も多く用意することはない。児童に好みがあれば選べるやうにするとしても、コストを抑へることも重要だ。傷んだ場合は交換を直ちに行ふこととし、快適な衣類を提供すべきである。
6歳から12歳まで、所謂小学校に当たる時期は小学校で行はれる教育が施されると考へてよろしい。この学校施設も都市部にはなく、自然豊かな地方に多く設立されるべきであり、国家公務員たる教員らの居住によつて地方が活性化することも目的とする。6歳から12歳までの期間は勝手に施設の外に出ることは認められてゐない。集団では頻繁に施設外へ行くが、個人での外出は禁止されてゐる。これは事故や犯罪に巻き込まれることを防止する目的が大きい。
学校施設では30名前後でクラスが編成され、授業を行つていく。幼児教育との違ひは自由時間が与えられ、本を読んだり、グループを形成して遊んだりと銘々の時間を過ごすことが可能になることだ。生活環境は全寮制で4名ないし5名で成る部屋が与へられ、個人の机が与へられる。各部屋の編成は学力や性状で編まれるが、改編を随時行つてきた幼児期間とは異なり、原則1年に1回とする。例外として、1年の途中で改編の対象となる児童の例はこの後で詳しく述べる。
6歳以降では、児童の好みで服装を選べるやうにすべきであるが、まだ好みがはつきりしない児童も多くゐると思はれるので、制服も提供し、特に希望がない児童に関しては制服を奨励するとしたい。定期的に衣服は支給され、洗濯も原則毎日行はれる。一部の裕福な家庭で見られたお仕着せはなくなり、衣服に困つてゐた子供たちがゐなくなる。
小学校期間でも児童たちはプログラムを毎日こなしていくが、ここでも常に子供たちの可能性、人から抜きん出た才能を見逃さないやうに評価を欠かさずに行ふ。幼児期間とは異なり、教師は教へる内容ごとに担当を持ち、グループごとの担当ではなくなる。教師は才能を秘めた子供らの補助をし、開花させる役目を担ふ。才能を認められた子供は学年が変はる時に本人の希望を確認した上で専門教育機関へのステップアップができる。この小学校期間では体験できるプログラムの種類が高度で豊富になり、修学旅行、山や海での体験、さまざまなスポーツ、料理や裁縫、工作や演芸、植物の栽培や動物の飼育、世界の文化や言語に触れ、日本の伝統を知る。そこで示した適応力や興味を次へと繋げていくのだ。専門機関への移行には段階があり、最終段階の機関は世界に通用する人物を育成するやうな英才教育機関だが、一般課程から途中で移転する児童をまず受け入れるのはそれぞれの初等機関になる。そこで専門的な教育が加はるが、より才能を示し熱意を示した者は更に優等生が集まる機関へと編入される。教師の在住する地域に限定されるので、移転は遠方になる場合が多い。最終段階の機関に進めなかつた者も専門的な指導を受けてきた知識と経験があるので、社会に出た時に非常に有利である。
6歳から12歳までに習ふことは実に多彩で、学問や体育だけでなく、生活に欠かせないことや道徳を学ぶ時間が設けられてゐる。家庭の環境で差が生じやすい社会的な常識やマナーを身に付けることができる。選択式の活動も奨励されてをり、クラブ活動による趣味の広がりも積極的に行はれる。これもまた家庭の環境で機会を奪はれてゐた子供にとつて非常に有意義な制度だ。門戸を広く開き、全ての子供に機会を与へる制度はなんと素晴らしいことではないでせうか。
子供らはプログラムが終了した夕食後から就寝時間までの時間はだう過ごすか。5名前後が寝起きをする部屋で集団生活の経験をするのだ。プライバシーはないが、児童の時期においてこそかうした生活に慣れてをくものではないか。
こんな疑問も出るかもしれない。児童らがテレビを見たり、ゲームをしたりする時間はないのかと。まず、これらは児童にとつて本当に必要だらうか。なくてはならないと言ひ切る者は少ないと思ふ。テレビに関していえば、映像を見るプログラムは豊富に用意されてをり、それ以上に見せる必要はないと考へる。また、ゲームは子供の誰しもが喜ぶ遊びである。だから、クラブ活動でゲームを好きなだけ行ふ時間を設けてをくのだ。多くの子供がこのクラブ活動を楽しむに違ひない。個々人に与へるのは有害で、決められた範囲で楽しむことで節度ある娯楽となる。
子供たちには休日はないのか、といふ疑問も出てくるだらう。無論、プログラムのない休日はあり、自由に過ごすことができるのだが、何かしらクラブ活動やイベントが企画されてゐたりする。具体的に述べると、クラブ活動においては例えば全国大会があつたりして、それに向けての活動を行つたり、イベントでは遠足が企画されたり交流会が行はれたりと様々だ。とはいえ、児童にも余暇が必要なのと、引率をする教師も休暇が必要なので、イベントは無闇に企画しない方がよいだらう。なんといつても、正月や夏休みなど児童が家庭で過ごしてゐた期間も教育機関が休業になることはなく、寧ろ対応を強化しなくてはならない。1年間を通じて休みがない機関であるが、これまで家庭が担つてきたものをまとめて引き受けることになるのだから効率化は計り知れない筈だ。
個人に対し電子マネーによるお小遣い制度が導入され、施設内ではあるが様々なものを購入ができるやうにする。主な商品はおやつであつたり、衣類やアクセサリーであつたり、おもちゃや人形であつたりと子供の趣向に沿つたものが安価で購買できる。自我が芽生え、欲望と発散を押し込めるのではなく、適度に充たすことで情操教育を養ふ。金銭感覚を身に付けるため、個々人の意思による消費行為を可能にする。電子マネーは顔や指紋による認証で、本人以外が決済することはできない。盗難といふ共同生活で起こり得る事件を防ぐためだ。また、恐喝めいた強請りから守るためでもある。これとても物品を購入して横取りされるといふ最終的な段階でのトラブルは止めやうもないが、こういう事例も含めて生活指導教官が定期的に面談を行ひ、犯罪行為を摘んでいく仕組みを作る。
6歳から12歳の期間のクラスは毎年入れ替へがあると述べた。その理由は、他の施設へ移動をする者がゐるのと、他の施設から入つてくる者がゐるからだけではない。交友関係の可能性を広げるために毎年必ず行はれる。また、生活部屋の構成も毎年変更を行ふ。各学年には生活指導担当教員がをり、定期的に子供らとの面談を行ひ、子供らの声を聞く機会を持つ。
クラス再編成は極めて重要な役割をもつてゐる。教育現場において最も深刻な問題であるいじめ問題への解決方法になるからだ。生活指導担当教員はいじめを察知し、関連した児童らの配置換へで解決を図る。即ち、加害側の主たる児童、いじめに加担した児童に分類し、主たる児童は問題行動を起こしたといふことで、特別な施設に移動になる。いじめ加害者が集まる施設だ。加担した児童らは主たる加害者の影響力などを鑑みて、散開されることが好ましい。一方、被害側の児童も移動の対象となる。加担した児童らとそのまま生活をするのは苦痛だと思はれるので移動の対象とする。しかし、いじめの種類は多種多様なので、加害者が一方的に悪い場合もあり、被害側の希望があれば残留も考慮すべきだらう。
いじめはいじめた側が絶対的に悪いとは言ひ切れない。被害側に問題点があつた場合も多い。いじめられやすい性格も存在するのだ。無意識にいじめに近い状況を生み出してゐる場合もある。つまり、全員から無視をされるといふいじめだ。だが、これは首謀者がゐたといふよりも無視されるやうな性格や問題行動があつたといふことの方が大きい。だから、逆にこの場合は、いじめを受けた者がただひとり移動になる場合もある。現在の環境に居続けるのは厳しいといふ判断だ。移動先は似たやうな境遇に陥つた児童が集まる施設になる。
以上のやうにいじめ問題を迅速な人間関係の解消といふ外科的手術で根治を図るのだ。いじめ問題は環境を変へることが出来なかつたために深刻化してきた。いじめ撲滅に有効な制度だと自負したい。
実際に移動をさせられた児童だが、いじめた側に関しては人間関係を築く上で悪質な手段を用ゐた人物として監視対象になる。以後は程度によつて分類され、極めて悪質な性格を持つ人物を炙り出し集約していく。問題がないと判断された者は年ごとの改編時に一般施設に行くこともある。性格的な問題を抱へてをり、いじめられる原因を持つ者は、以後いじめにあはないやうな環境に身を置くとともに、いじめられない性格になるやうな生活指導を受けていくことになる。
似たやうな性状の者を集め対処をしていくことで、これまで手を焼いてゐた人間関係の行き詰まりを解消するとともに、原因を集約し対策を練ることが可能になる。極めて少数ではあるが、暴力を振るう人物、残虐な行為を行なつた人物は特殊な施設に移動させられ、移動先でも事件を起こすやうなら更に移動をさせ、同じ場所には留めない。不幸な事件を起こさないために国家主導で性状による分類を行つていくことは非常に理に適つたことなのだ。極めて悪質な青年を集めた施設の運営は過酷であらうが、更生させるための指導を専門的に行へるので最上の方策だと考へる。そこに配置される教員は扱ひを心得た者たちで、狼狽え狼狽へたりすることはなく果断を要求されることになる。
一般施設に戻るにしても、特別監視対象者としての履歴が露見して不利益を被らないやうに配慮しないといけない。そのため、何らかの動機付けは必要である。例へば、野球の才能を発揮した、図画の才能を発揮したなど編入の正当性がなくてはならない。
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