現代日本語美文序説

第一章 言文不一致の説

 私がこの序説を書き起こした理由は、現代の多くの人々によつて営まれる日本語の書き言葉、即ち文章に対する配慮が足りないと感じてゐるからだ。私の目論みは、日本語の全般的な考察よりも日本語で綴られた文章への考察にある。だから『現代日本語美文序説』といふ題を与へた。
 今日の文章の最も憂慮すべき点は、話し言葉をそのまま表記しようといふ、もしかすると当たり前とされてゐる行為である。話すやうに書くことを理念として教育されてきた方が殆どであらうから、私の論旨は突飛もないことに映ずるかもしれぬ。

 物議を醸す為に私はこの頁を書いてゐる。近代日本において言文一致は神聖不可侵な掟とすら云へるからだ。敢へて云ふ。話し言葉と書き言葉とは異なつて然るべきである。何故かと問はれれば、在り方が違ふのだから同じである訳がないと応へよう。ある人はかう反駁するであらう。話す際であらうと文章を書く際であらうと言葉を司る脳の部位は同じであり、そこに差異が生じる筈がないと。この考へは至極自然なものだ。現代は脳科学が発達し、様々なことが解明されてきた。言語を司る中枢に言語野といふ部位があり、話すときも書くときも同じ部位が働いてゐるさうだ。だが、私の論旨は人体の生理学的な究明によつて完結する類ひではない。言語の出所が同じであらうと、顕はれ方の違ひに着目したいからだ。

 話し言葉と書き言葉は同一ではない。何故なら顕はれ方が大いに異なるからだ。ひとつ例を挙げよう。書き言葉にある句読点や鍵括弧は、話し言葉にはない。話し言葉にある抑揚などを書き言葉から窺ひ知ることは出来ない。これは楽譜と実際の演奏との関係に似てゐる。同じ言葉であつても完全に同一でないといふことは容易に理解頂けるだらう。話し言葉も書き言葉も言語として一括りであり、同一視することは方便として宜しい。それを踏まえて、私が唱へる主張は、完全に同一であるといふ主張は些か乱暴であり、話し言葉と書き言葉は厳密には同じではない、といふごく当たり前のことを云ひたいのだ。

 話し言葉と書き言葉を区別することを諒解して頂いても、言文一致に異論を唱へる論拠にはならないから、もう少し私の主張を詳しく述べる必要がある。

話し言葉と書き言葉の特性を書く。

誤解しないで戴きたいのは、話すように書いてはいけないと強調しているのではなく、話すやうに書くのを当然と思わないことであることを主張したいのだ。文章には長年の間に自然と身にまとった文章の法則があり、それらを無視すると文章の体裁が損なわれる。言文一致の観念が浸透した結果、話し言葉と書き言葉の微妙な差異に心を砕かず同一と見なしてしまう為に、今日の文章への取り組みはこれらの危険を犯している。日本語の文章のあり方に抱く最大の憂慮は、書き言葉が話し言葉に従属していることだ。尤も、幾つかの文学作品や学術論文にみられるやうに完全に従属している訳ではない。しかし、それは話し言葉の通りに書かないといふ書き手の意図的な文章創作の意志が入り込んでいるからであり、大衆の多くは無意識に叩き込まれた言文一致の慣習によって、話すように書くことを自然と行っている。これには、近代社会が歩んだ文明の発展にも原因がある。ラジオやテレビ、録音や録画の普及で話し言葉が記録として残り、再生される。件に述べた文章だけの特質が奪はれたのだ。

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