ジャック・ティボー ディスコグラフィー  / Jacques Thibaud Discography


ディスコグラフィー | 寸評 | 推挙




 ジャック・ティボー讃。

 変はらぬ愛を告白しよう。ヴァイオリンの音が一番好きだ。名ヴァイオリニストの録音を聴く時が一番の仕合はせである。好きな奏者は沢山ゐるが、ティボーに対する想ひは特別だ。エネスクには尊敬を、フーベルマンには畏敬を覚えるが、愛してゐるのはティボーなのだ。最初に聴いたのはヴィターリのシャコンヌやグラナドスのアンダルーサなどであつたと思ふ。忽ち魅了され恋に落ち、録音をかき集めた。フランクやフォレのソナタを聴くに及んで、高雅で官能的な趣に惚れ抜いて仕舞つた。それ以来、ティボーへの愛は変はらない。常に理想郷として高き御倉にあつたのだ。
 ティボーはフランスが生んだ最大のヴァイオリニストである。フランス近代の楽曲において示した理解と愛情は今もつて規範であらう。そして、ラテンの古典作品での風流さは一種特別であつた。これらとモーツァルト周辺がティボーの狭いレペルトワールの全てとなるのだが、通俗な作品はなく、典雅な楽曲ばかりなのも良い。あの大イザイも「未だに自分が何かを学ぶことが出来るのはクライスラーとティボーからだ」と賞讃した。しかし、現代の聴き手からティボーはどのやうに受け取られてゐるのだらう。私の周囲でもティボーは音程が悪いと一蹴されることがあつたし、単なるノスタルジーとして真剣に聴く対象にはなつてゐなかつたやうに思ふ。




 確かにティボーの演奏が現代の基準からすると何とも評価し辛い類ひのものであることは正直に申さねばなるまい。特に現代の演奏を聴き慣れた耳がティボーの録音を聴いて真つ先に感じるのは音程が低いといふことだらう。現代の華麗で輝きのある奏法の観点からすると、低めと見逃せる程度の話ではない。だが、正しいピッチとは何だらう。古楽器演奏全盛の昨今ではバロック時代のピッチと現代のそれとが異なること―場合によつては半音以上も!―は常識となつた。このことを突き詰めるとピッチに絶対といふ観念はなくなる。正しい音程とは感覚的なものだ。カサルスは「音程は当てるものではなく創造するもの」と名言を残してゐる。更にモンサンジョンの映像作品"THE ART OF VIOLIN"でギトリスが証言してゐるが、ティボーは故意に低めにとつて暗く陰りのある柔らかな音色を創つたといふ。音程を違へて色を創るとは何と得難い藝術ではないか。今日のメソッドからは辿り着けない秘技であらう。弱々しく儚いヴァイオリンの音色を求めるならティボーを聴くが良い。詩人の魂が語りかけ慰めるやうに染み込み、涙の一滴となるヴァイオリンの音がある。フラット気味の音程とティボーの創る音程の間には魅惑的な詭弁が潜んでゐる。ティボーのやうな奏者だけにこそ認められる危険な品なのだ。ティボーの創る音程が気に障る方は、ティボーとは無縁であつたと諦めるがよい。
 ティボーの独特なポルタメントについても言及したい。若い頃には特色が見られなかつたが、1920年代以降、上昇音形でリズムを崩しながら行ふ―はやめに次の音への上昇を始めて初動に時間をかける―ポルタメントがティボーの官能性を決定的にした。音から音への感情表現を中間音を交へた運動性で行ふポルタメントだが、前の音から離脱が早く次の音へと向かふ希求を予感させるティボーのポルタメントは極めて煽情的で、秘められたエロスを覗かせる。
 ティボーはボウイングの最高の名手とされてきた。世評に違はず、この点にこそティボーの魅力があると念を押したい。だが、これもまた誤解のなきやう補足をしなくてはならない。ティボーの全盛期は1920年代後半から1930年代初頭にかけてで、戦中や戦後のライヴ録音は右手が固くなり、音色が泣声のやうになり痛々しい。晩年の録音にはボウイングの妙技など何処を探してもない。本当に素晴らしいのは電気録音時代になつてから、即ちカサルス・トリオでの録音が始まつた頃から1936年の録音迄だ。ティボーは語りかけるやうな朗読調のボウイング、パルラント・アーティキュレーションの最高の名手とされた。クライスラーやエルマンは歌を重視し、旋律のフレージングに妙味があつた。歌の神髄は呼吸にあり、リズムと不可分である。始点と終点を作り運動性を描くのが器楽における歌だ。ティボーやエネスクは歌よりも語りに美を見出した。歌は抑揚を強く伴ひ、情緒過多になる。繊細な詩情を求めたティボーはひとつひとつの音を置くやうに語りかけ、時には耳元で囁く。ティボーの弾くフォレの楽曲の録音にはその奥義が刻印されてゐるので確かめて欲しい。ティボーには比較的多く演奏姿を撮影した映像が残されてゐる。他の奏者と比べると瞭然とするのだが、千変万化する運弓の速度に注目したい。直線的な鋭い動きもあれば、舐め回すやうな動きもする。絶妙に浮かせて泣き崩れる表現もする。そればかりではない、左手の表現も濃厚な歌の箇所になるとネックの握り方も変へてヴィブラートの幅も変化させてをり、型に嵌つてゐない。

 ここまで技術面のことばかりを書いて仕舞つた。それもこれも高い名声に比して完璧とは云ひ難い演奏が散見されるからだ。フレッシュも証言してゐるが、ティボーは自分の水準以下の演奏をしばしば行つたと云ふ。実際、全盛期に録音された名盤でも音が擦れたり震へたりしてゐる箇所があることに気付かれるだらう。それでもティボーが愛されるのは何故なのか。ティボーには色があるのだ。かつては個性豊かな色を持つた奏者が沢山ゐたが、ティボーは別格だ。和音の低音部であつたり、スラーや装飾のついた音符でリズムを前に崩す際の絶妙さを真似ること、艶かしくそれでゐて雅な趣をもつて弾くことは容易に出来ることではない。フレッシュは「ティボーの演奏は官能的な快楽への欲望に満たされてゐた」と評し、エネスクはいみじくもかう表現した「ティボーは張詰めた4つの弦の感触を、ヴァイオリンといふ女神の柔肌のそれに置き換へたヴァイオリニストの第一人者と云へよう。その演奏には、形容を超えた美の逸楽が紅蓮の炎と燃え盛つてゐる」。ティボーの音色は最高の美音として賞讃されたが、澄んだ風鈴のやうな清涼感のある軽やかさと明るさは類例がない。
 あの音色の秘密が知りたいなら、ティボーの回想録『ヴァイオリンは語る』をお読みになることをおすすめする。少年時代から夢想する詩情、感受性豊かな魂、謙譲の美徳と感謝の念に包まれた心。ティボーはヴァイオリンの4つの弦から友情、愛、死、そして最も大事な善意を奏でたと述べてゐる。音楽家が書いた文章は数多くあれど、『ヴァイオリンは語る』ほど人間の琴線に触れる善良さに溢れた文章はない。少年の頃の純粋さを忘れないティボーが居て、そこかしこからティボーの音色が聴こえてくる。ティボーのヴァイオリンに魅了された人々の話は、録音から聴こえてくる音色と二重奏を奏でるだらう。

 直感的な感興を好み、型に嵌めた演奏を嫌つた。底抜けの女好き。お茶目で悪戯好き。最悪の時代でもユーモアを忘れなかつた―大戦前に交はしたクライスラーとの犬の話は傑作だ! 最後に、雨が降るリュクサンブール公演で死の三ヶ月前のヴェルレーヌがティボーに贈つた言葉を記そう。ティボーのヴァイオリンはまさにこの通りであり続けたのだから。
 「ごらん、あの緑を。人間の世界といふやつはこの灰色の雨と風みたいなものさ、何とか努力して、あのちっぽけな緑にならなくてはね」




Biography

 1880年9月27日、ボルドーに7人兄弟の末子として生まれた。父はイザイやコロンヌとも親交があるボルドー歌劇場の高名なヴァイオリン奏者であつたが、故障の為に教育業で生計を立ててゐた。兄弟全員が音楽の才能を示す音楽一家で育ち、父は当初ジャックをピアニストにするつもりだつたが、少年の熱意に打たれ手ほどきをした。1893年にコンセールヴァトワールに入学してマルシックに師事した。ヴァリエテ座のオーケストラで日当を稼ぐ貧乏な生活を送り、プルミエ・プリを取つたのは1896年と遅咲きであつた。卒業後、カフェ・オーケストラであるコンセール・ルージュで「序奏とロンド・カプリチオーソ」を弾いてゐたのをコロンヌに見出され、コロンヌ管弦楽団に入団、1898年、ギョーム・レミの代役で「大洪水」前奏曲の独奏を弾き大成功を収めたことで転機を向かへた。1903年にはカーネギー・ホールでの成功で一躍寵児となつた。1906年からカサルス、コルトーと三重奏を組んだ。第二次世界大戦時にはドイツからの招待を拒み、フランスで高級諜報員としてレジスタンス活動を行つた。1943年、ロンと共に音楽コンクールを創設した。ロン=ティボー・コンクールである。戦後は各地で精力的に演奏活動を行つたが、1953年9月1日、3度目となる来日演奏の途上でエール・フランス機がアルプス山脈に激突して命を落とした。著書にデヴューまでの半生を綴つた回想録『ヴァイオリンは語る』がある。



Discography

1 1904 or 1905 Fonotipia Massenet Méditation from "THAÏS" (arr.Marsick) 1 with piano accompaniment
2 1904 or 1905 Fonotipia Guiraud Mélodrame de Piccolino from Opéra-Comique "PICCOLINO" 1 with piano accompaniment
3 1904 or 1905 Fonotipia Vieuxtemps Sérénité from "Voix Intimes"Op.45-5 1 with piano accompaniment
4 1904 or 1905 Fonotipia J.S.Bach Gavotte en rondeau form Partita for Solo Violin No.3 E-dur,BWV.1006 1  
5 1904 or 1905 Fonotipia Saint-Saëns Le Cygne from Suite "Carnaval des Animaux" 1 with piano accompaniment
6 1904 or 1905 Fonotipia Marsick Scherzando from 2 Piece,Op.6-2 (arr.Kreisler) 1 with piano accompaniment
7 1905 Fonotipia d'Ambrosio Mélancolie   with Alfredo d'Ambrosio (p)?
8 1905 Fonotipia François Schubert l'Abaile from Bagatelles,Op.13-9   with Alfredo d'Ambrosio (p)?
9 1905 Fonotipia Fauré Berceuse   with Alfredo d'Ambrosio (p)?
10 1905 Fonotipia d'Ambrosio Aveu,Op.38-1   with Alfredo d'Ambrosio (p)?
11 1905 Fonotipia d'Ambrosio Serenade,Op.4   with Alfredo d'Ambrosio (p)?
12 1916/8/17-9/20 French Pathé J.S.Bach Air on the G-String (arr.Wilhelmj) 1 with piano accompaniment
13 1916/8/17-9/20 French Pathé Fauré Romance san paroles,Op.17-3   with piano accompaniment
14 1916/8/17-9/20 French Pathé Vieuxtemps Regrets from "Feuillets d'album" Op.40-2   with Maurice Amour (p)
15 1916/8/17-9/20 French Pathé Saint-Saëns Havanaise,Op.83 1 with Maurice Amour (p)
16 1916/8/17-9/20 French Pathé Olé Bull Mélodie Norvégienne (arr.Svendsen)   with piano accompaniment
17 1916/8/17-9/20 French Pathé Marsick Scherzando from 2 Piece,Op.6-2 (arr.Kreisler) 2 with piano accompaniment
18 1916/8/17-9/20 French Pathé Fiorillo Caprice No.14 g-moll "Adagio" from 36 Étude-caprices,Op.3 (arr.Mistowzky)   with piano accompaniment
19 1916/8/17-9/20 French Pathé Wieniawski Saltarello a-moll from 8 Étude-caprices,Op.18-4 (arr.Thibaud) 1 with piano accompaniment
20 1916/8/17-9/20 French Pathé d'Ambrosio Canzonetta,Op.6   with piano accompaniment
21 1916/8/17-9/20 French Pathé Fauré Berceuse,Op.16 1 with piano accompaniment
22 1916/8/17-9/20 French Pathé d'Ambrosio Oriental,Op.24   with piano accompaniment
23 1916/8/17-9/20 French Pathé Wieniawski Polonaise brillante No.2 A-dur,Op.21   with piano accompaniment
24 1916/8/17-9/20
(2TAKES)
French Pathé Mendelssohn Andante from Concert for Violin e-moll,Op.64   with orchestra / François Ruhlmann (cond.)
25 1916/8/17-9/20 French Pathé Mendelssohn Allegro molto vivace from Concert for Violin e-moll,Op.64   with orchestra / François Ruhlmann (cond.)
26 1916/8/17-9/20 French Pathé Massenet Méditation from "THAÏS" (arr.Marsick) 2 with piano accompaniment
27 1916/8/17-9/20 French Pathé Saint-Saëns Introduction et Rondo capriccioso,Op.28 1 with orchestra / François Ruhlmann (cond.)
28 1916/8/17-9/20 French Pathé Guiraud Mélodrame de Piccolino from Opéra-Comique "PICCOLINO" 2 with orchestra / François Ruhlmann (cond.)
29 1917 Pathé (PFPC) Rubinstein Mélody in F,Op.3-1 (arr.Wilhelmj)   with Dominico Savino (p)
30 1917 Pathé (PFPC) Couperin Les Chérubins (arr.Salmon) 1 with Dominico Savino (p)
31 1917 Pathé (PFPC) Marsick Scherzando from 2 Piece,Op.6-2 (arr.Kreisler) 3 with Dominico Savino (p)
32 1917 Pathé (PFPC) Schumann Traumerei from"Kinderszenen"Op.15-7   with Dominico Savino (p)
33 1917 Pathé (PFPC) Olé Bull Solitude sur la montagne (arr.Svendsen)   with Dominico Savino (p)
34 1918 Pathé (PFPC) Dvorak Humoresque,Op.101-7 (arr.Wilhelmj)   with Dominico Savino (p)
35 1918 Pathé (PFPC) Svendsen Romance G-dur,Op.26 (arr.Wilhelmj)   with Dominico Savino (p)
36 1918 Pathé (PFPC) Schubert Serenade from "Schwanengesang" D957-4 1 with Dominico Savino (p)
37 1918 Pathé (PFPC) Massenet Méditation from "THAÏS" (arr.Marsick) 3 with Dominico Savino (p)
38 1919 Pathé (PFPC) Wagner Prise Song from "DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG"   with orchestra
39 1919 Pathé (PFPC) Kreisler Liebesfreud   with orchestra
40 1919 Pathé (PFPC) Schubert Ave Maria from "Ellens Gesänge No.3" D839   with orchestra
41 1919 Pathé (PFPC) Tchaikovsky Chant san paroles from "Souvenirs de Hapsal" Op.2-3   with orchestra
42 1920 Pathé (PFPC) Penn Smilin'Through   with piano accompaniment
43 1920 Pathé (PFPC) Haydn Wood Rose of Picardy   with piano accompaniment
44 1922/2/6-7 HMV Dvorak Slavonic dance g-moll,Op.46-2 (arr.Kreisler)   with Harold Craxton (p)
45 1922/2/6-7 HMV Vieuxtemps Sérénité from "Voix Intimes" Op.45-5 2 with Harold Craxton (p)
46 1922/2/6-7 HMV Granados Danse espagnole No.5,e-moll "Andaluza" (arr.Kreisler) 1 with Harold Craxton (p)
47 1922/2/6-7 HMV Granados Danse espagnole No.6,D-dur "Rondella aragonesa" (arr.Thibaud) 1 with Harold Craxton (p)
48 1922/2/6-7 HMV Schubert Moment Musical f-moll,D780-3 (arr.Kreisler)   with Harold Craxton (p)
49 1922/2/6-7 HMV Rode Minuet-Caprice (arr.Thibaud)   with Harold Craxton (p)
50 1922/2/6-7 HMV Rameau Tambourin (arr.Kreisler)   with Harold Craxton (p)
51 1922/2/6-7 HMV Wieniawski Saltarello a-moll from 8 Étude-caprices,Op.18-4 (arr.Thibaud) 2 with Harold Craxton (p)
52 1922/2/6-7 HMV Rimsky-Korsakov Hymne au soleil from "LE COQ D'OR" (arr.Kreisler) 1 with Harold Craxton (p)
53 1923/10/22 HMV Franck Sonata for Violin and Piano A-dur 1 with Alfred Cortot (p)
54 1924/2/26 Victor Guiraud Mélodrame de Piccolino from Opéra-Comique "PICCOLINO" 3 with Jesús-María Sandromá (p) [unpublished]
55 1924/2/26 Victor Debussy En Bateau from Petite suite (arr.Choisnel)   with Jesús-María Sandromá (p)
56 1924/2/26 Victor Saint-Saëns Prelude to "LE DELUGE" Op.45 1 with Jesús-María Sandromá (p)
57 1924/2/26 Victor Schubert Serenade from "Schwanengesang" D957-4 (arr.Thibaud) 2 with Jesús-María Sandromá (p) [unpublished]
58 1924/2/26 Victor Veracini Minuet-Gavotte from sonata E-dur,Op.2-11 (arr.Salmon) 1 with Jesús-María Sandromá (p) [unpublished]
59 1924/2/26 Victor Saint-Saëns Le Cygne from Suite "Carnaval des Animaux" 2 with Jesús-María Sandromá (p)
60 1924/2/26 Victor Simonetti Madrigale   with Jesús-María Sandromá (p)
61 1924/10/21
&10/31&11/1
HMV J.S.Bach Concert for Violin No.2 E-dur,BWV.1042   with studio Orchestra / R.Ortmans (cond.)
62 1924/11/1 HMV Desplanes Intrada-Adagio from Sonata (arr.Nachéz) 1 with Madame Adami (p)
63 1924/11/13 HMV Couperin Les Chérubins (arr.Salmon) 2 with Harold Craxton (p)
64 1924/11/13 HMV Mouret Sarabande from "Le Triomphe de sens" e-moll (arr.Dandelot)   with Harold Craxton (p)
65 1924/11/13 HMV Veracini Minuet-Gavotte from sonata E-dur,Op.2-11 (arr.Salmon) 2 with Harold Craxton (p)
66 1924/11/13 HMV Veracini Gigue from sonata e-moll,Op.2-8 (arr.Salmon) 1 with Harold Craxton (p)
67 1925/11/23 HMV Brahms Waltz As-dur,Op.39-15 (arr.Hochstein)   with Harold Craxton (p)
68 1925/11/25 HMV Leclair Tambourin from Sonata D-dur,Op.9 (arr.Kreisler) 1 with Harold Craxton (p)
69 1925/11/25 HMV Debussy Golliwogg's cake walk from "Childres's corner" (arr.Choisnel)   with Harold Craxton (p)
70 1925/11/25 HMV Beethoven Romance No.2,F-dur,Op.50   with Harold Craxton (p)
71 1926/7/5-6 HMV Schubert Trio for Piano,Violin and Violoncello No.1,B-dur,D898   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
72 1926/7/6 HMV Beethoven Adagio, 10 Variationen and Rondo for Piano,Violin and Violoncello,G-dur,Op.121a,on "ich bin derSchneider Kakadu " from "Die Schwestern von Prag"   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
73 1927/2/14 HMV Debussy La fille aux cheveux de lin from Preludes, livre Ⅰ (arr.Hartmann)   with Harold Craxton (p)
74 1927/2/14 HMV J.S.Bach Air on the G-String (arr.Wilhelmj) 2 with Harold Craxton (p)
75 1927/2/21 HMV Rimsky-Korsakov Hymne au soleil from "LE COQ D'OR" (arr.Kreisler) 2 with Harold Craxton (p)
76 1927/2/23 HMV [Mozart] Concert for Violin No.6 Es-dur,K.268   with a studio Orchestra / Sir Malcolm Sargent (cond.)
77 1927/6/20 HMV Haydn Trio for Piano,Violin and Violoncello,G-dur,Op.73-2   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
78 1927/6/20-21 HMV Mendelssohn Trio for Piano,Violin and Violoncello No.1,d-moll,Op.49   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
79 1927/6/23 HMV Fauré Sonata for Violin and Piano A-dur,Op.13   with Alfred Cortot (p)
80 1927/10/21 HMV Granados Danse espagnole No.5,e-moll "Andaluza" (arr.Kreisler) 1 with Harold Craxton (p)
81 1927/10/21 HMV Granados Danse espagnole No.6,D-dur "Rondella aragonesa" (arr.Thibaud) 1 with Harold Craxton (p)
82 1928/11/15-18&12/3 HMV Schumann Trio for Piano,Violin and Violoncello No.1,d-moll,Op.63   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
83 1928/11/18-19&12/3 HMV Beethoven Trio for Piano,Violin and Violoncello No.7,B-dur,Op.97 "Erzherzog"   with Pablo Casals (vc)/ Alfred Cortot (p)
84 1929/5/10-11 HMV Brahms Double Concerto for Violin,Violoncello and Orchestra,a-moll,Op.102   with Pablo Casals (vc)/ Orquesta Pau Casals,Barcelona / Alfred Cortot (cond.)
85 1929/5/27-28 HMV Beethoven Sonata for Violin and Piano No.9 A-dur,0p.47 "Kreutzer"   with Alfred Cortot (p)
86 1929/5/28 HMV Franck Sonata for Violin and Piano A-dur 2 with Alfred Cortot (p)
87 1929/5/29 HMV Saint-Saëns Prelude to "LE DELUGE" Op.45 2 with Georges de Lausnay (p)
88 1929/5/29 HMV Falla Danse Espagnole form "LA VIDA BREVE" (arr.Kreisler)   with Georges de Lausnay (p)
89 1929/6/7 HMV Debussy Sonata for Violin and Piano g-moll   with Alfred Cortot (p)
90 1929/6/7 HMV Debussy Minstrels from Préludes,Livre Ⅰ (arr.Hartmann)   with Alfred Cortot (p)
91 1930/4/23 HMV Granados Danse espagnole No.10,G-dur "Danza triste" (arr.Thibaud)   with Tasso Janopoulo (p)
92 1930/4/23 HMV Falla Jota from "7 Canciones Populares Espanolas" (arr.Kochanski)   with Tasso Janopoulo (p)
93 1930/4/23 HMV Paradis Sicillienne Es-dur (arr.Dushkin)   with Tasso Janopoulo (p)
94 1930/4/24-25 HMV Vivaldi Largo from Concerto Grosso d-moll,Op.3-11 (arr.Pochon)   with Tasso Janopoulo (p)
95 1930/4/24-25 HMV Mozart Andante from Concert for Piano No.21,C-dur.K.467 (arr.Saint-Saëns)   with Tasso Janopoulo (p)
96 1930/4/24-25
(2TAKES)
HMV Lalo Fantasie Norveggienne   with Tasso Janopoulo (p)
97 1930/4/24-25 HMV Eccles Sonata No.11 g-moll (arr.Salmon)   with Tasso Janopoulo (p)
98 1931/7/1-2 HMV Chausson Concerto for Violin,Piano and String Quartet,D-dur,Op.21   with Alfred Cortot (p)/ String Quartet [Isnard / Voulfman / Blanpain / Eisenberg]
99 1931/7/2 HMV Fauré Berceuse,Op.16 2 with Alfred Cortot (p)
100 1932/5/16-18 HMV J.S.Bach Brandenburg Concertos No.5 D-dur,BWV.1050   with Alfred Cortot (p)/ Roger Corte (fl)/ Orchestre de I'École Normale de Musique,Paris
101 1933/7/1 HMV Marsick Scherzando from 2 Piece,Op.6-2 (arr.Kreisler) 4 with Tasso Janopoulo (p)
102 1933/7/1 HMV Albéniz Malaguena from "Espana" Op.165-3 (arr.Kreisler)   with Tasso Janopoulo (p)
103 1933/7/1 HMV Poldini Poupée valsante (arr.Kreisler)   with Tasso Janopoulo (p)
104 1933/7/1 HMV Szymanowski La Fontaine d'Aréthusa from "Myths" Op.30-1   with Tasso Janopoulo (p)
105 1933/7/1 HMV Albéniz Tango from "Espana" Op.165-2 (arr.Kreisler)   with Tasso Janopoulo (p)
106 1933/7/2 HMV Saint-Saëns Havanaise,Op.83 2 with Tasso Janopoulo (p)
107 1933/7/2 HMV Desplanes Intrada-Adagio from Sonata (arr.Nachéz) 2 with Tasso Janopoulo (p)
108 1936/3/21 HMV Vitali Chaconne (arr.Charlier)   with Tasso Janopoulo (p)
109 1936/3/21 HMV J.S.Bach Prelude form Partita for Solo Violin No.3 E-dur,BWV.1006 (arr.Schumann)   with Tasso Janopoulo (p)
110 1936/3/21 HMV J.S.Bach Gavotte en rondeau form Partita for Solo Violin No.3 E-dur,BWV.1006 (arr.Schumann) 2 with Tasso Janopoulo (p)
111 1936/3/21 HMV Mozart Rondo from Serenade No.7 "Haffner" K.250 (arr.Kreisler)   with Tasso Janopoulo (p)
112 1936/5/27 Japan Victor Veracini Minuet-Gavotte from sonata E-dur,Op.2-11 (arr.Salmon) 3 with Tasso Janopoulo (p)
113 1936/5/27 Japan Victor Veracini Gigue from sonata e-moll,Op.2-8 (arr.Salmon) 2 with Tasso Janopoulo (p)
114 1939/3/20 BBC Broadcast Saint-Saëns Introduction et Rondo capriccioso,Op.28 2 with Tasso Janopoulo (p)
115 1940/5/10 HMV Fauré Quartet for Piano,Violin,Viola and Violoncello No.2,g-moll,Op.45   with Margurite Long (p)/ Maurice Vieux (va)/ Pierre Fournier (vc)
116 1941/1/6 HMV Mozart Concert for Violin No.5 A-dur,K.219 1 with Orchestre de la Société des Concerts de Conservatoire / Charles Münch (cond.)
117 1941/11/17 Live in Geneva Lalo Symphonie Espagnole D-dur,Op.21 1 with Orchestre de la Suisse Romande / Ernest Ansermet (cond.)
118 Chausson Poème,Op.25 1
119 1942/7/14 HMV Arditi Il Bacio   with Vina Bovy (S)/ Orchestre de la Société des Concerts de Conservatoire / Jacques Thibaud (cond.)
120 1942/7/14 HMV StraussⅡ Fruhlingsstimmen,Op.410   with Vina Bovy (S)/ Orchestre de la Société des Concerts de Conservatoire / Jacques Thibaud (cond.)
121 1943/7/? HMV Mozart Sonata for Piano and Violin,B-dur,K.378   with Margurite Long (p)
122 1943/7/? HMV Mozart Sonata for Piano and Violin,A-dur,K.526   with Margurite Long (p)
123 1944/5/28 HMV Fauré Berceuse from Dolly,Op.56   with Tasso Janopoulo (p)
124 1944/5/28 HMV Ravel Pièce en forme de Habanera   with Tasso Janopoulo (p)
125 1944/5/28 HMV Schubert Sonatine for Violin No.3 g-moll,D.408   with Tasso Janopoulo (p)
126 1944/5/28 HMV Schubert Rondo from Sonatine for Violin No.1 D-dur,D.384   with Tasso Janopoulo (p)
127 1944/10/7 HMV Haydn Concert for Violin No.1 C-dur   with Michele Auclair (vn)/ Orchestre de la Société des Concerts de Conservatoire / Jacques Thibaud (cond.)
128 1945/1/5 Live in New York Lalo Symphonie Espagnole D-dur,Op.21 2 with the Philharmonic-Symphony Orchestra / Leopold Stokowski (cond.)
129 1947/1/17 or 1/19 Live in San Francisco Saint-Saëns Havanaise,Op.83 3 with San Francisco Symphony Orchestra / Pierre Monteux (cond.)
130 1947/10/? French Polydor Mozart Concert for Violin No.3 G-dur,K.216 1 with Orchestre des Conserts Lamoureux / Paul Paray (cond.)
131 1947/11/27? French Polydor Chausson Poème,Op.25 2 with Orchestre des Conserts Lamoureux / Eugène Bigot (cond.)
132 1949/12/28 Live in Amsterdam Mozart Concert for Violin No.4 D-dur,K.218 1 with Royal Concertgebouw Orchestra,Amsterdam / Eduard van Beinum (cond.)
133 1950/7/11 Live in Hamburg Mozart Concert for Violin No.5 A-dur,K.219 2 with Kammerorchester Hamburg / Georg-Ludwig Jochum (cond.)
134 1950/11/9 Live in Lausanne Beethoven Concert for Violin D-dur,Op.61   with Orchestre de Chamber de Lausanne / Victor Desarzens (cond.)
135 1951/3/7 Radio Recording Lalo Symphonie Espagnole D-dur,Op.21 3 with Hessichen Radio Symphony Orchestra / Winfried Zillig (cond.)
136 1951/3/14 Live in Paris Lalo Symphonie Espagnole D-dur,Op.21 4 with l'Orchestre National d'Espagne / Ataulfo Argenta (cond.)
137 1951/12/13 Live in Paris Mozart Concert for Violin No.3 G-dur,K.216 2 with Orchestre Radio Symphonique de Paris / Georges Enescu (cond.)
138 Mozart Concert for Violin No.4 D-dur,K.218 2
139 Mozart Concert for Violin No.5 A-dur,K.219 3
140 1952/12/21 Radio Recording Franck Sonata for Violin and Piano A-dur 3 with Jean Laforge (p)
141 1953/1/12 Odeon Beethoven Concert for Violin D-dur,Op.61   with Henryk Szeryng (vn)/ Orchestre de la Société des Concerts de Conservatoire / Jacques Thibaud (cond.)
142 1953/1/18 Live in Paris Brahms Concert for Violin D-dur,Op.77   >with Orchestre des Conserts Pasdeloup / Jean Fournet (cond.)
143 1953/2/? Live in Brussels Lalo Symphonie Espagnole D-dur,Op.21 5 with Orchestre Radio-Symphonique / Jean Martinon (cond.)
144 1953/4/29 Live in Frankfurt Saint-Saëns Concert for Violin No.1 a-moll,Op.20   with Hessichen Radio Symphony Orchestra / Alceo Galliera (cond.)
145 Saint-Saëns Introduction et Rondo capriccioso,Op.28 3
146 1953/4/30 Leclair Tambourin from Sonata D-dur,Op.9 (arr.Kreisler) 2 with Marinus Flipse (p)
147 Mozart Rondo from Sonata for Violin and Piano B-dur,K.378  
148 Saint-Saëns Havanaise,Op.83 4

※1936年の映像で、SzymanowskiのLa Fontaine d'Aréthusa from "Myths" Op.30-1をTasso Janopouloのピアノ伴奏で弾いてゐる。これには2通りの映像があり、ティボーの演奏姿を終始撮影したものと、演奏同様エロティックなイメージ映像を付してティボーは最初と最後しか映つてゐないものとがある。
※1937年の映像で、GranadosのDanse espagnole No.6,D-dur "Rondella aragonesa" (arr.Thibaud) をTasso Janopouloのピアノ伴奏で弾いてゐる。
※1940年の映像で、AlbénizのMalaguena from "Espana" Op.165-3 (arr.Kreisler) をTasso Janopouloのピアノ伴奏で弾いてゐる。
Tahraが商品化した録音年不詳のArthur Rubinsteinのピアノ伴奏によるMozartのSonata for Piano and Violin,B-dur,K.378だが、122と同一の録音で、従って伴奏者はMargurite Longである。聴き比べれば瞭然とする。第一、ルービンシュタインとの録音はあり得ない。


盟友コルトーと


 最初期のフォノティピアへの録音からは後年確立されるティボーの藝風は伝はつてこない。感情表現は濃厚でべたついてゐる。幅の広いヴィブラート、低調なボウイング、新時代を予感させる要素は見当たらない。しかし、イザイやクライスラーなどの歌謡派奏者の傾向ははつきりと備へてゐる。詩的衝動に導かれた演奏家のひとりであることには疑ひがなく、ティボーはその中でも特に抒情的で繊細であつたと云へる。バッハのカヴォットの颯爽とした品格からは後年の片鱗が窺へる。イタリアのヴァイオリン奏者兼作曲家ダンブロージオの伴奏とされる未発表録音があり、長年の謎であつたがやうやく一部復刻が行はれた。名曲セレナードを筆頭に告白や憂鬱も名演で、これらの録音が埋もれてきたのは大きな過失と云へよう。

 パテ録音でも同様のことが云へるのだが、後年のHMV録音で固まる高雅で官能的な藝風が垣間見られるやうになる。凛と張つたボウイングからは洒脱な軽さと爽快な音色が発せらせるやうになり、ヴィブラートは次第に抑制され、歌ひ始めに用ゐる吐息のやうなリズムの揺らぎと舐め回すやうなフィンガリングが生み出す音程の揺らぎで、独自の噎せ返るやうな色気を発散し出した。ヴュータン「嘆き」で聴かせるフィンガリングのエロス、十八番サン=サーンス「ハバネラ」での飛翔するボウイングはティボーの最上の姿だ。フォレ「無言歌」で聴かせるいぢらしい可憐さも述べてをきたい。

 アメリカ・パテ録音(PFPC)ではティボー独自の藝風が確立されてゐる。シューベルト「セレナード」の憂ひを帯びた歌ひ口は印象深い。3種類あるマスネ「タイースの瞑想曲」は最後の録音が最も素晴らしい。電気録音で再録音がないのが惜しい。ペンやヘイドゥンといつた歌謡曲の巧さも面白からう。パテ録音には残念ながら未復刻が多数あり未聴である。

 アメリカ楽旅の際にヴィクターに6面の録音が残されたが、ヴィクターでは発売されず、HMVから4曲分が発売された。未発表が3曲分残る。デヴューの契機となつたサン=サーンス「大洪水」前奏曲が素晴らしい。張詰めた情感から飛翔する期待感が漏れ出してゐる。「白鳥」のたおやかな表情、ドビュッシー「小舟にて」の控へ目なエスプリ、シモネッティ「マドリガル」の繊細ないぢらしさ、他の奏者からは得られない麗しい詩情がある。

 DISQUE "GRAMOPHONE"―即ち仏HMVに移籍後、ティボーの藝術が本格的に開花する。初期録音の小品では典雅なラテンの小品に良さがぎっしり詰まつてゐる。ラモー「タンブーラン」、ヴェラチーニのソナタ、ルクレール「タンブーラン」、高雅な翳りを織り交ぜた妙味は格別だ。バッハの協奏曲は数少ないティボーの大曲録音だが、伴奏が惨いので価値が激減してゐる。独奏も細かい経過句の中にも独自の歌謡を聴ける以外に面白みはない。優しい表情に包まれたヴュータン「親愛なる声」、哀愁めいてかき口説くドヴォジャーク「スラヴ舞曲」、妖艶なるリムスキー=コルサコフ「太陽への讃歌」の再録音、噎せ返る情緒が比類ないグラナドスの2曲の「スペイン舞曲」の再録音、絶品といふに相応しい。ベートーヴェンのロマンスやブラームスのワルツにおける甘酸つぱい若やいだ官能も素晴らしい。ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」のエロスは原曲を超えた至高の藝術だ。偽作とされ今日まともに取り上げられないモーツァルトの変ホ長調協奏曲こそ、ティボーの最高の録音である。垢抜けた瀟洒なヴァイオリンの音は神仙な趣がある。第2楽章はパルラント・アーティキュレーションの究極の奥義だ。そして第3楽章の飛翔するボウイングと官能的な品がこの上もなく粋だ。適度な重音奏法もあつて聴き栄えのする曲で、偽作といふことで無視されるのは愚かしく沙汰の限りだ。

 コルトーとカサルスとの共演録音については別項「カサルス・トリオ・ディスコグラフィー」をご覧いただきたい。

 サン=サーンス「大洪水」再録音はより官能性が増した名演。ファリャ「スペイン舞曲」は燃焼度ならヌヴーだが、噎せ返るスペイン情緒とエロスではティボーに分がある。抗し難い色気に幻惑される名演。グラナドスのスペイン舞曲は全て絶品で、淫美な誘惑に充ちた音色が振りまかれる。ファリャ「ホタ」の繊細な囁きと気怠い官能は類例がない。これぞティボーの奥義である。パラディスでは音程を低めにとつて曇つた音色を作り出してゐる。この趣に溺れて欲しい。ヴィヴァルディはカサルスもコルトーも弾いてゐるが、ティボーの色気は別格だ。モーツァルトのピアノ協奏曲の編曲からかくも感傷的なエロスを引き出したのは痛快である。大曲であるのにSPでは未発売だつたラロの2テイクはティボーのエスプリを堪能出来る絶品だ。エックレスにおける高雅な趣も素晴らしく、さりげないリズムを作る絶妙なボウイングの技に注目したい。アルベニス「タンゴ」で示した情味に勝る演奏が出来る奏者がいるだらうか。ポルタメントの恍惚とした昇天はエロスの極みだ。サン=サーンス「ハバネラ」の耽美的な世界は無二だらう。デプラーヌの耽溺する悲哀には絶句する。ポルタメントの至高の藝術がある。ヴィターリのシャコンヌも絶対的な高みにある。スラーや和音奏法でのリズムの崩しに範を得たい。バッハの前奏曲の気品あるボウイングも絶品だ。ティボーが心を通はしたモーツァルトのロンドが良い。軽快さから一点、愛の吐息となるパッセージの艶やかさに陶然となる。来日時に録音したヴェラチーニが逸品。新旧両盤ともに極上なのだ。

 ミュンシュとの協奏曲は代表的な録音だが、この頃からボウイングにしなやかさが欠けてきたことに気付く。蓋し色気のある名演だ。幾分衰へもあるのだらう、ロンとのソナタ2曲は全盛期の閃きが欠けた無難な演奏だ。とは云へ、決して拙い演奏ではなく、典雅な名演であることは保障しよう。ロンたちとのフォレの四重奏は散漫な感じがする。1944年、最後のHMV録音は全て最良の姿を伝へる逸品ばかりで、寂寥感漂ふ音色に忍ばせた気品は別格だ。フォレ「ドリーの子守歌」の切なくか弱い音色はティボーにしか出せない境地だらう。ラヴェルの神妙な雰囲気も素晴らしい。シューベルトが残されたことに感謝したい。ソナティネ第3番第2楽章のポルタメントが醸し出すエロスには悶絶しさうになる。

 戦後の録音は正直申してティボーの真価を半分も伝へてゐない。愛して止まなかつたモーツァルトの録音が沢山残されたが、贔屓目に見ても苦しい内容ばかりだ。パレーとの3番は好調とは云ひ難いが、それでもティボーの魅力を残した名演だ。爽快なパレーの指揮によつて全体が締まつてゐるのも良い。ベイヌムとの4番は線が細く衰へを感じる。ヨッフムとの5番は次第に感興が乗つてくる演奏でティボーだけの個性が聴かれる部分も多いが、傷が目立ち過ぎて楽しめない。エネスクとのモーツァルトは完全な失敗作だ。全盛期の潤ひはなく音色が泣声のやうになつてゐる。ティボーが自由気侭に演奏するので伴奏が苦慮してゐる。元々オーケストラの技量が拙く、トゥッティの響きは最悪で、エネスクの名誉にもならない記録である。ラロのスペイン交響曲は5種類もの録音が残るティボーの最も重要な演目である。マルティノン盤とアルヘンタ盤でのティボーが好調で、気魄抜群、煽情的な音色も素晴らしい。マルティノンの色彩的な伴奏が素晴らしく、ティボーの自在な揺れに見事に寄り添つてゐる。録音状態さえ良ければ第一にしたい演奏であるが、籠つて冴えない。残念だ。アルヘンタの指揮はコントラストが強く雰囲気豊かだが、伴奏がティボーに付け切れてゐない。戦中録音のアンセルメ盤は乱調で良くない。放送録音のツィリッヒ盤は音質こそ良いが、独奏・伴奏共に細部の粗が見える演奏で次点扱ひだ。ストコフスキー盤は演奏こそ素晴らしいが、録音状態が悪く鑑賞対象には入れない。ショーソンはエネスクの録音に並ぶ別格の名演である。特にアンセルメとのライヴ盤が素晴らしい。音そのものが深い詠嘆を帯びた儚い詩と化してゐる。ビゴー盤はボウイングに衰へが感じられる。サン=サーンスの第1協奏曲は最晩年の実演で傷は多いが特別な名演で、特に第2楽章での官能的な昂揚は絶対に聴くことの出来ない異常さだ。モントゥーとのハバネラが素晴らしい。同曲4種ある録音の中で第一に推したい。ベートーヴェンの協奏曲は衰へを感じさせない数少ない名演である。第1楽章第2主題の旋律で悶えるやうなディミュヌエンドをかけたのはティボー以外にゐない。第2楽章ではパルラント・アーティキュレーションの奥義による疼くやうな憧憬が語られる。神韻としたディミュヌエンドには息を飲む。管弦楽伴奏や録音状態なども考慮すると、とても推薦出来ないのだが、独奏に関しては神品だ。ブラームスの協奏曲が記録されたことは奇跡的なことだ。技巧的な箇所は惨いが、さりげない経過句で発散される官能の焔は掛け替へがない。激しい情熱に圧倒される秘匿の名演。フランクのソナタは好演だが、往年の名盤とは比べられない。フリプセのピアノ伴奏によるルクレール、モーツァルト、サン=サーンスは最晩年の荒れた様子はあるのだが、ティボーが得意とした曲なので往時を彷彿とさせる好演である。晩年、ティボーには幾つか伴奏指揮の録音が残るが、別段興味を惹く類ひのものではない。



 ティボーの録音は膨大だが聴くべきは限られてくる。段階をつけて列挙しよう。絶対的な録音は、モーツァルト(偽作)の協奏曲第6番、フォレのソナタ、小品では、デプラーヌの新録音、ヴィターリ、エックレス、パラディス、ヴェラチーニの新旧録音両方、ファリャのホタ、グラナドスのアンダルーサの新録音、アルベニスのタンゴ、モーツァルトのハフナー・ロンド、ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女、フォレのドリーの子守歌。それからカサルス・トリオでの録音の全てショーソンのコンセール。次いで、フランクのソナタの第2回目録音、ドビュッシーのソナタ、シューベルトのソナチネ2種を加へよう。サン=サーンスのハバネラではモントゥー盤、ショーソンの詩曲ではアンセルメ盤を採る。ヴュータンの嘆き、サン=サーンスの大洪水の新旧録音両方、ファリャのスペイン舞曲、ドヴォジャークのスラヴ舞曲、ラロのノルウェー風幻想曲、バッハのプレリュード、ラモーとルクレールのタンブーランも推薦したい。晩年のラロのスペイン交響曲やベートーヴェンの協奏曲を挙げることは贔屓の引き倒しになるので止す。




 初期のフォノティピアやパテへの録音は本邦のレキシントンが復刻した2枚が最も充実してゐたが、現在これらを入手するのは困難だ。フォノティピア録音はSYMPOSIUMからも出てゐた。ダンブロージオ伴奏とされる未発表録音の一部が本邦のグッディーズより復刻された。ヴィクター録音はBiddulphの復刻があつたくらゐだ。HMV録音は本家EMIからは散発的にしか復刻されてゐないのだが、本邦の東芝EMIによるHMV録音全復刻があり、これ以上に纏まつた復刻は他になかつた。BiddulphからはHMV録音の復刻が相当数あつた。APRによる未発表音源を含むHMV復刻も重要だ。更にAPRは貴重なライヴ録音集を発売してゐる。その他、Tahra、Malibran、CASCAVELLE4枚組からもライヴ音源が出てゐた。それぞれ唯一の音源を含むので重要だ。CASCAVELLE盤には最後期のセッション録音も収録されてゐるので重要だ。ブラームスの協奏曲は本邦のフィリップスから出てゐたのが唯一だらう。BBC放送局の音源はオーパス蔵のみだ。melo CLASSICより最後の録音で新発見音源が出た。



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