"FADREN"『父』男は生まれた子供が自分の子であるかを知ることは出来ないといふ主題を軸に、夫と妻、男と女の間に横たはる永遠の溝を掘り下げた問題作。信じたくても疑つて仕舞ふ男の悲しい性を、ストリンドベリは伏線を張り巡らして顕在化させる。これを狂気と見なし夫を敵視するやうになつた妻は、哀れな夫を追詰め廃人にする。愛娘が発する止めの一言を周到に配置する作劇術の見事さもあり、大変完成度が高い。[☆☆☆] "FRÖKEN JULIE"『令嬢ユリエ』ストリンドベリは代表作となつた『令嬢ユリエ』に長大な序文を付けてゐる。作者曰く、この作品は前時代的な性格劇ではない。ユリエ嬢の破滅の要因を観客は幾つも指摘することが出来るだらう。だが、それらひとつひとつは決定的ではない。ストリンドベリは悲劇のカタルシスを忌避し、教訓を垂れることを拒絶した。誰でも身近に起こり得る偶発的な悲劇を現出させたのだ。ユリエ嬢は下男ヤンが自分に釣り合ふ一廉の人物だと発見すると、誘惑して八方塞がりの現状から連れ出して呉れる救済者に仕立てやうとする。脱出を望むユリエ嬢と野心家ヤンの葛藤は結実しない。それがこの悲劇だ。この作品では沈黙と舞踊の効果的な使用は語り落としてはいけない。ストリンドベリは独白と対話だけが演劇だけではないことを示した。[☆☆☆] "FORDRINGSÄGARE"『債権者』軽佻浮薄な妻を持つ夫のもとに現れた前夫。妻の旅の間に意気投合した二人だが、前夫は元妻の過去の精神的な負債を請求しに来たのだ。色香を使つて男から精神や地位などあらゆるものを引き出し、吸収して我が物とするが、形なきものとして代価を払はないばかりか、裏切りをも辞さないといふ、男を骨抜きにする精神の吸血鬼のやうな女性像をストリンドベリは辛辣に描く。[☆☆] "PARIA"『パーリア』二人の男の対話だけでなる思想劇。手形偽造者の男が、不意に老人を殴り殺した男を同罪に落とし入れやうとするが、罪を自覚する男は自分の無罪を主張する男の浅ましさを糾弾する。罪は軽重が問題ではない。自覚せざるか否かが問題なのだ。[☆] "TILL DAMASKUS Ⅰ"『ダマスカスへ 第一部』『ダマスカスへ』は三部作であるが、上演の機会が多いのはこの第一部であり、藝術的にも最も優れてゐるとされる。現代演劇を先取りした前衛的な手法には驚愕する。登場人物は誰ひとりとして名前を持たない。17の場面から成る完全なるシンメトリー構造を持ち、行つて戻り最初と最後が繋がる。筋はなく、迫害される脅迫観念に苛まれ乍ら、追ひ回され彷徨する幻覚劇とも云ひたい。「見知らぬ人」を見捨てず唯ひとり支へ続ける「婦人」による魂の救済はストリンドベリの願望なのだ。『ダマスカスへ』は自己救済の為に全篇妄想で書かれた前代未聞の問題作である。[☆☆☆] "BROTT OCH BROTT"『罪また罪』この作品の主題は「心で願つた悪事が実際のものとなつた時、罰を受けなくてはならぬか」である。愛人との間に出来た幼い娘を溺愛してゐる劇作家が、舞台の成功に浮かれ帰宅の約束を反故にする。友人の女と一夜を明かし、調子に乗つて愛娘の死を口にした為、本当に死んで仕舞つた娘の殺人容疑を疑はれ追ひ立てられる。事実進行での劇的効果は薄いのだが、台詞や通底する思想は深刻で、魂の偽りなき苦悩が描かれる。普遍的な傑作と云へよう。曰く「宗教とは懲罰と思へる時がある。悪い心を持たない信者なんてどこにもゐないからね。」[☆☆☆] " PÅSK"『復活節』女嫌ひを徹底した自然主義作品から一転し、魂を救済する宗教劇への転換を示す作品。父の犯した罪により社会から虐げられ人間不信に陥つた一家族の運命が、傷付き易いこころを持つ無垢な乙女と純情な青年の挙動により自ずと好転する。警戒し拒んでも仕合はせにはなれない。信じ愛することこそ人間の道である。[☆] "DÖDSDANSEN"『死の舞踏』ストリンドベリの女嫌ひは伝説的である。後期の作品である『死の舞踏』は、一方的に女を排撃する姿勢から人間そのものへの不信へと絶望的な主題を突き詰めてゐる。夫婦間の地獄絵図を描いた家庭悲劇ながら、人間存在に関はる象徴的な台詞が多い深淵な作品だ。夫は人生の救済を期待せず、他者の理解をも求めない。唯我独尊の境地から周囲を撹乱し、人間不信の毒を巻き散らす。しかし、妻ひとりは抵抗し復讐を企て、周囲を巻き込み利用しながら、夫からの解放―夫の死を願ふ。夫が倒れた時に発した「万歳!くたばつた」といふ台詞は真恐ろしい限りだ。常軌を逸した狂気の世界は、読者を限定する。人間を信じたい方は読まぬがよい。[☆☆☆] "SPÖKSONATEN"『幽霊ソナタ』ストリンドベリの作品中で最もグロテスクな様相を示す。冒頭から謎掛け合戦であり、次々と真相が明かされるやうで、善悪が逆転したりし、奇抜な台詞の応酬となる。幽霊屋敷を舞台に此岸と彼岸の境界が描かれた20世紀演劇の先駆けとなる晩年の野心作である。[☆] |