世界文学渉猟

スタンダール

(Stendhal、Marie-Henri Beyle、1783〜1842)


"VANINA VANINI"

『ヴァニナ・ヴァニニ』

 美貌のヴァニナには求愛が絶えない。しかし、ヴァニナが求めるのは情熱的で困難な愛で、父が匿つたカルボナリ党員ミッシリリと秘密裏に恋仲に落ちた。だが、ミッシリリは祖国の為の高邁な革命運動を捨て切れず、貴族階級のヴァニナとの関係を断つて結社に戻る。ヴァニナは美貌や権力を駆使してミッシリリを支援するも自分の元に戻るやうに画策するが、自己中心的な策謀が露見すると永遠に愛を失ふ。政治と愛、男と女の大いなる溝を描く。[☆☆]


"MINA DE VANGHEL"

『ミーナ・ド・ヴァンゲル』

 プロシア生まれのミーナは観念的で恋愛を小説のやうに考へ、少々沈鬱な性格を持ち、激しい思ひ込みをする。運命の人と決め込んだ男を追つて小間使ひに身をやつし接近を謀る物語前半は面白く読ませるが、深層心理の描き込みが足りない。ミーナの人物造型は所詮エゴイズムの域を超えず、皮相さが否めない。策謀家であり乍ら感情の読み違へが大きいのだ。[☆☆]


"LE COFFRE ET LE REVENANT"

『箱と亡霊』

 対ナポレオン戦争の英雄で残忍非道なグラナダ警察署長の邪悪な懸想により引き裂かれた恋人らの悲運を描いたスペイン奇談。奪はれた恋人に一目会ほうと箱の中に潜み、警戒心の強い警察署長の疑りを危機一髪掻い潜る場面は手に汗握る。結末における非情な突き放し方は読者を困惑させるだらうが、気違ひ地味た恋の残り火を描くだけに留めるのがスタンダールの短篇の特徴だ。[☆☆]


"LE PHILTRE"

『媚薬』

 運命の手引きにより佳人を匿まひ恩人となつた男が、女の数奇な事件を拝聴するといふ短篇。夫との退屈な日々に倦み、曲馬師への恋に夢中になつた女の不運な巡り合はせは、遊びで始まつた恋愛が齎す残忍さを描いてをり興味深い。しかし、女の歓心を買ふことの出来ない男が自殺する性急な結末には一寸合点が行かない。[☆]


"SAN FRANCESCO A RIPA

『サン・フランチェスコ・ア・リパ』

 信仰心の厚いカンポバッソ公爵夫人は敬虔な生活を送つてゐるかのやうに思はれてゐたが、とんでもないことで、フランス大使の甥セヌッセを情夫として夢中になつてゐた。若くて移り気なセヌッセが退屈してきた頃、公爵夫人は嫉妬に苦悩するやうになる。周到に用意された暗殺の描写が秀逸で、逃げ場無く追ひ詰めて行く復讐には唖然となる。恋愛に情熱的なイタリア人の恐ろしさ。[☆☆]


"LES CENCI"

『チェンチ一族』

 スタンダールはレーニの描いた肖像画に霊感を受けたのだらう。美しきベアトリーチェ・チェンチの悲劇的な末路を歴史家の如く簡潔かつ冷徹に叙述することで、清楚な美しさを際立たせた。処刑の場面で示したベアトリーチェの毅然たる姿勢に胸打たれぬ読者はゐないだらう。冒頭で述べられる近代的なドン・ジュアン像の要素を偽善とし、美徳を穢す快楽の出現によるものと定義する導入文は興味深い。[☆☆]


"LA DUCHESSE DE PALLIANO"

『パリアノ公爵夫人』

 政争に巻き込まれて死を遂げた哀れな公爵夫人の物語だが、法王を輩出したカラーファ家の奢りと権力への執心が歯車を狂はせて行く様に読み応へがある。発端は気位の高いパリアノ公爵夫人に懸想をしたマルセル・カペッチェとの不義密通であつたが、その処罰を巡つて大事になつて行く。権謀術数の時代の逸話としても面白く読める。[☆☆]


"LA CHARTREUSE DE PARME"

『パルムの僧院』

 高名な二大長篇のひとつ。僅か2ヶ月弱の口述筆記で奇蹟的に完成された。スタンダールの最高傑作だとする向きもある。だが、響かなかつた。スタンダールがこの大長編で伝へたかつたことが仕舞までわからなかつた。愛するイタリアの気質と風俗を盛り込んだ一大叙事詩を紡ぎたかつたのなら大いに賞讃出来る。中篇作品のやうに心理描写を入れずに事件だけを淡々と展開させ、要領よくまとめれば面白い作品だつたと思ふ。今日この小説から得られるものは何もない。何よりも主人公ファブリスに共感が抱けない。幼稚で気紛れな人物像に惹かれないし、ファブリスに魅了され助力を惜しまない人々の人物造型も説得力に欠ける。冒頭に登場する父親が再登場しないのも物足りない。いただけないのが性急な終盤で興醒めだ。クレリアとの破滅的な愛はファブリスに対する憎しみしか残さない。[☆]


"L'ABBESSE DE CASTRO"

『カストロの尼』

 二大長篇に次ぐ傑作として重要な中篇。ミラノ人を自称したスタンダールのイタリアに対する造詣は唯事ではない。華やかなルネサンス時代は山賊らが跋扈し、党争で正義は敗地に塗れてゐた。名高い山賊の息子ジュリオと名家の娘エーレナとの悲恋を描きながらも、心理描写を顧みず歴史的背景の補足に紙面を費やし、スタンダールは中世イタリアの闇の部分を精緻に彫刻する。ジュリオとエーレナの物語は禁じられた恋ほど燃え上がる事例の典型だが、その波瀾万丈な起伏の激しさはいと凄まじく読者を捕へて放さないだらう。特にカストロ尼僧院へ強奪戦を仕掛ける件は野卑な荒々しさがあり圧巻だ。更に失意で聖職売買まで試みたエーレナの自暴自棄も呆気に取られる展開だ。二大長篇に隠れてゐるが出色の名作だ。[☆☆☆]


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