ロマン=ロラン

(Romain Rolland、1866〜1944)


『ベートーヴェンの生涯』 "VIE DE BEETHOVEN"

 この短い著作こそはロマン=ロランの重要な仕事である伝記作品群の劈頭を飾り、大河小説『ジャン・クリストフ』の水源地としての位置付けを担ふ珠玉の名作なのである。職業的な音楽家は別として、第5交響曲を「古典的悲劇」に比せ、田園交響曲から「夏のひと日の神々しい夢想」を感受し、第7交響曲に「オランダ的祝祭ケルメス」を見たロマン=ロランほどベートーヴェンの精神世界に肉薄出来た人物は皆無である。楽聖の音楽といふ糧が人道主義の文豪を導いた。格調高き文によるベートーヴェン讃歌の頂。[☆☆☆]

『ミケランジェロの生涯』 "VIE DE MICHEL-ANGE"

 ロマン=ロランはルネサンスの大巨人を臆病さと尊大さが複雑に入り交じつた弱々しい哀れな人間として容赦なく描く。この伝記は読者を鼓舞する類ひのものではない。序文でロマン=ロランは喝破する。「世界に真のヒロイズムはただ一つしかない。世界をあるがままにみることである。―そしてそれを愛することである」。この世界の悲劇を具現したのがミケランジェロの偉大な彫刻に他ならないことを教えてくれる問題作。[☆☆]

『トルストイの生涯』 "VIE DE TOLSTOÏ"

 恩師とも云へる存在であるトルストイの実像にロマン=ロランほど迫れた人物はゐない。作品評は正鵠を射てをり、トルストイが消し去ることの出来なかつた理性の崇拝と観察眼の鋭さ、激しい気性で肯定と否定を取り替へる不器用さ、宗派や党派を超えた人類共通の愛への殉教を読み取つてゐる。曰く「トルストイは視覚と心情との天才であつた。その知性はしばしば誤つた」。存命当時、トルストイ晩年の思想は無政府主義よりも危険な近代社会への反逆と受け取られたが、虚偽を排し妥協に組しないトルストイの愛の伝道にロマン=ロランは救ひを見出したのだ。そして、この著作とともに第1次世界大戦で反戦・平和運動を提唱したユマニストの苦難の道程こそ、トルストイ主義の衣鉢を継いだロマン=ロランの恩返しとなつた。[☆☆☆]

『ジャン・クリストフ』 "JEAN-CHRISTOPHE"

 人生に迷ひながら幾度も失意から立ち上がる音楽家ジャン・クリストフ・クラフトの生ひ立ちから死までを滔々と描いた渾身の大作は、大河小説といふ潮流を生んだ不滅の金字塔である。音楽への造詣が深かつたロマン=ロランの作曲家や作品への言及は西洋伝統音楽愛好者でも舌を巻くほど真に迫つてゐる。ベートーヴェンを彷彿させる少年時代の件は、音楽への神聖な愛と音楽がもたらす慰めが美しく描かれ目頭が熱くなる。だが、やがて友情や恋愛を経験し成長するクリストフを作者は闘争の渦へと落とし込む。野生児クリストフが世紀末の諸思潮を遍歴する件を読者は寂しく思ふかもしれない。そして何故、賢明なオリヴィエが女に惑ひ、クリストフを革命の暴動へ投げ込み、恩人の妻アンナとの絶望的な愛に陥らせなければならなつたのか。ドイツ教養小説の手法に立脚しながらも、フランスの心理小説や思想小説の要素を兼ね備へたこの作品は物語を周到に避ける。作者の意図は対峙する世界を描き、融和させることにある。欺瞞と倒錯で閉塞した西欧文明に、漲る生命力と寛容の精神で風穴を開けようとしたユマニストの思ひは、作品完成直後に勃発した第一次世界大戦といふ修復不可能な罪過により具現しなかつたが、気高き理想が読者に与へる共鳴は永遠に古びない。[☆☆☆☆]


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