ラシーヌ

(Jean Racine、1639〜99)


『アンドロマック』 "ANDROMAQUE"

 文壇にラシーヌの時代が到来したことを告げた不朽の傑作。由緒正しき出典に則り乍ら、情念渦巻く台詞でトロイア戦争の後日譚を再構築した古典劇の王道とも云ふべき作品。オレスト(オレステス)はかつての想ひ人エルミオーヌ(ヘルミオネー)に恋ひ焦がれ、エルミオーヌは名誉を重んじてピリュス(ピュロス)を振り向かせようとし、ピリュスはこともあらうにアンドロマック(アンドロマケ)に情をかける。だが、アンドロマックは夫ヘクトルを殺したアキレウスの子の愛を拒絶する。軸となる登場人物4名による一方向の愛の図式は絶望的な様相を呈す。この劇にはもうひとりの隠された主人公がゐる。ヘクトルだ。死人が愛の連鎖の行先を断絶する。ヘクトルの怨念が劇の調和的解決を拒み、愛は御し難い情念となつて登場人物らを苦しめる。成就不可能な愛は、権力を濫用した威圧めいた憎悪と化し、愛を捧げる相手を出しに利用しては蹂躙する。緊密な人物配置はラシーヌの真骨頂で、主役格は同時に二名しか登場しない―即ち一対一の閉鎖的な心理戦が順繰りに積み重ねられる。疑念と期待で縺れた情念の鎖が臨界点に達して断ち切られる時、登場人物全てが絶望に叩き込まれる。間然する所がない悲劇の中の悲劇。[☆☆☆☆]

『ブリタニキュス』 "BRITANNICUS"

 名高い暴君ネロン(ネロ)を題材に採つた名作。ネロは母アグリピーヌ(アグリッピナ)の極悪な政略により皇帝の地位に就いた経緯があるが、やがて母の影響下からの脱却を願ふ。ネロにとり自由とは母の排除に他ならない。その道に長けたアグリッピナは策を練るが、ネロは対決を躱し封じ込める。主役二人の対話を山場にする緊迫した劇作術。題名役のブリタニキュス(ブリタンニクス)はアグリッピナにより皇位継承権を奪はれた悲劇の人物であるが、対ネロの一策として利用される役目しかない。恋人ジュニーがネロに略奪されることで高まるブリタニキュスの悲運が劇の表面上の軸であるが、ネロにとりジュニーへの恋慕は自立への動機付けでしかなく、権謀術数蠢くネロとアグリッピナの確執こそが作品の核である。ラシーヌはネロの教育係であるセネカを不在にし、理性的な諫言の効果を排除する。もうひとりの指導者ビュリュス(ブッルス)が実直な性格で徳性と情緒面でネロを諌め、一度は成功するものの、卑劣な解放奴隷ナルシスの讒言で無に帰す逆転の妙。皇位継承を再婚相手の連れ子に与へるといふ初期帝政ローマの血縁関係の歪みが、おぞましい憎悪となつて登場人物らを呪ひ続ける。解放奴隷の横暴も丁寧に描かれてをり、用意周到な劇作には恐れ入る。余りにも有名なネロを主役に添へる困難さを超え、ネロの怪物性が顕在化する瞬間を情念の焔で描いた不滅の傑作。[☆☆☆☆]

『ベレニス』 "BÉRÉNICE"

 父帝の死で皇帝に即位したティチュス(ティトゥス)が相思相愛の女王ベレニス(ベレニケ)への想ひを断つといふローマに題材を採つた作品。悲劇の軸は長い共和政の伝統を持つローマが育んだ王族に対する激しい嫌悪にあるのだが、主題に展開と起伏がなく劇的緊張感を欠く。政治と恋愛の葛藤が意図だらうが、帝位に執心するティチュス―即ちローマの意志―の比重が大き過ぎた。破局を予感してゐたベレニスによる恋の慚愧と復讐をラシーヌ一流の情念で突き詰めた方が面白かつたらう。史実に準拠した姿勢が―ベレニスの設定を幾分変更してゐるが―仇となり、結果的に恨みが残る。[☆☆]

『フェードル』 "PHEDRE"

 『フェードル』はラシーヌの代表作であるばかりではなく、フランス古典劇の金字塔である。英雄テゼー(テセウス)の妻となつたフェードル(パイドラ)は連れ子のイッポリト(ヒッポリュトス)への禁じられた愛を秘めてきたが、テセウスの死の誤報に動揺し、乳母エノーヌに唆されて愛の告白をして仕舞ふ。ラシーヌは父の仇敵の娘への秘密の愛を創作して、フェードルの不浄の愛を拒絶するイッポリトの立場に蓋然性を与へる。二重の禁断の愛は絶望を強化し、不可能を打破しようと情念の焔が主人公らを追ひ詰める。テセウス生還により穢れの清算が始まるが、エノーヌの奸計により悲劇は凄惨なエクソダスへと急落下する。フェードルの抑圧された本心を覚醒させるエノーヌの卑俗さが悲劇の行方を握るが、煩悶するフェードルの痛ましさこそ悲劇の核心である。古来名女優らがフェードルの苦悩に全霊を注いできた。ひたすら内面へと向ふ近代的な心理の葛藤を肥大させた傑作で、彫琢された完成度には額突く他ない。[☆☆☆☆]


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