世界文学渉猟

プーシキン

(Александр Сергеевич Пушкин、1799〜1837)

 ロシア文学の確立者であり、国民的大詩人。西欧の先進的な文学を大胆に吸収する一方、ロシアの古い民話に愛着を持ち続けた。また、ロシア語はプーシキンによつて確立されたと云つても過言ではない。モスクワに生まれ、父方は名門貴族の家系、母方はピョートル大帝の特別待遇を受けたエチオピア人の子孫である。開明的な学習院に在学中、詩人としての頭角を露にした。反動政治批判や農奴制批判の詩によりアレクサンドル1世の怒りを買ふが、友人らの奔走により都落ちといふ処分に減刑された。免職、幽閉などの不遇の中、デカブリストの乱が勃発。乱鎮圧後、ニコライ1世によつて召喚され、厳しい検閲下に置かれた。絶世の美少女ナターリア・ゴンチャローワとの結婚後は、社交界生活に苦しめられたといふ。結局、妻に横恋慕したダンテス男爵と決闘沙汰となり、命を落とした。



"БАХЧИСАРАЙСКИЙ ФОНТАН"

『バフチサライの泉』

 バイロン風の諦観を漂はせ、東洋趣味を駆使した初期の傑作叙事詩。恋の前では虚ろとなつた権力者を歌ふ冒頭は秀逸だ。捕はれたポーランド公女マリアの絶望的な悲哀、そのマリアが為に後宮での寵愛を失つた美しきグルジア女ザレマの嫉妬。何人も仕合はせにしない一方通行の愛が齎した空虚な結末。バフチサライの廃墟にある「涙の泉」の印象が呼び起こした浪漫的な愛の幻想が結晶した作品。[☆☆]


"ЦЫГАНЫ"

『ジプシー』

 ジプシー女ゼムフィーラに誘はれジプシー集団に加はつた都会人アレコは、自由を謳歌し、文明の鎖を蔑み、裏切りに充ちたエゴイズムから逃れ得たことを讃美する。だが、ジプシー老人が預言したやうにアレコは皮相の見しか持たず、ジプシーに同化することは適はないのだ。束縛を厭ふ移り気なゼムフィーラの浮気を赦せない悲劇。文明批判が為にジプシーを美化し過ぎた面はあるが、抑圧された自由の悲愁がずしりと思い名作。[☆☆☆]


"БОРИС ГОДУНОВ"

『ボリス・ゴドゥノフ』

 幕の切れ目がなく場面展開が早い。シェイクスピアを熟読し影響を受けた直後の作品であり、上演よりも焦燥感溢れる劇詩としての性格に力点が置かれた史劇である。時はゴドゥノフ朝、偽ドミートリーによる動乱時代が疾風のやうに描かれるので、読者は最低限の歴史背景と受容史を理解してをきたい。登場人物らが生彩に富み、熱く魅惑的だ。想ひ女に僭称者であることを告白して仕舞ふ弱みを見せるグレゴーリー、二心をもつて虎視眈眈と処す老獪なシュイスキー、そして一途に権力に敵対する者にプーシキンの名を託す。だが、この史劇の意義は権力闘争の不毛さを象徴する最後にある。「皇帝万歳」の呼びかけに黙して応へない絶大な効果。ぞくりとする幕切れ。[☆☆☆]


"ЕВГЕНИЙ ОНЕГИН"

『エヴゲーニイ・オネーギン』

 『オネーギン』に溢れる抑へ難き詩の情熱は、後継らにとり霊感の源泉となつたロシア文学の金字塔。7年間断続的に続けられた執筆期間の長さ、主筋の合間に挿入された大見得を切るやうな詩句の多さの為、作品としての評価は差し引かざるを得ないが、この韻文小説がプーシキンにとつて最も重要な意味を持つ作品であることに疑ひはない。バイロン熱に取り憑かれたプーシキンの分身として描かれるオネーギンは、生への懐疑に苦悩する近代人の先駆的な肖像である。救ひを諦めた精神が彷徨ふ暗闇に差し込んだ乙女の純真さ―タチヤーナの愛に応へなかつたオネーギンはもうひとりのファウストでもある。世界の真理に分け入るべく運命づけられた覚醒者に与へられる偉大な敗北の悲劇。[☆☆]


"ПОЛТАВА"

『ポルタヴァ』

 叙事詩ではあるが、史劇として鑑賞することも出来る野心作。大北方戦争の最も重要なポルタヴァの戦ひをめぐる群像劇だ。天才的な軍師として快進撃を重ねてきたスウェーデン国王カール12世と迎へ撃つピョートル1世の構図が軸だが、事実上の主人公はヘーチマン国家の自主性を目論むイヴァン・マゼーパだ。娘を取られた義憤に駆られるコチュペイの壮絶な最期を絡め、裏切り者ともウクライナの英雄とも評価が分かれる野心家マゼーパの実像に迫る重厚かつ劇的な名作。[☆☆]


"ПОВЕСТИ БЕЛКИНА"

『ベールキン物語』

 短い5つの短編小説より成る。白眉は『駅長』で、ささやかな仕合はせを失つた父親の悲哀が印象的だ。ロシアに取り憑いた決闘といふ不可解な熱病『その一発』、小説じみた純愛が運命に翻弄される『吹雪』、亡霊が来訪する怪談『葬儀屋』、身分を偽る変装で育む真実の愛『贋百姓娘』。何れも悲喜交々、気の利いた軽い作品と云へるだろう。[☆☆]


"МЕДЫЙ ВСАДНИК"

『青銅の騎士』

 散文作品に向ふやうになつた詩人プーシキンの後期の傑作。ピョートル大帝像に追はれる狂気の情景は実に恐ろしく、哀れな最期も侘しい。洪水で人生を狂はされた男の凄惨な叙事詩であるが、犠牲となつた小市民―エヴゲーニイといふ名がプーシキンの心情の投影であることを読み取りたい―とペテルブルクを建設した大帝の偉業とが対比される。鬱屈した慷慨に貫かれてをり、権力に翻弄されたプーシキンの思ひが託され暗示されてゐる。[☆☆☆]


"ПОКОВАЯ ДАМА"

『スペードの女王』

 男にとつて賭博への衝動は抑へ難いものだ。時には、金や女や名誉を離れて、魂を奪ふ死神の姿となる。堅実なゲルマンが、必勝の勝ち札の噂に取り憑かれる様は、精神の闇を覗いたやうで恐ろしい。暗い情熱に導かれたゲルマンといふ人物像は、ロシア文学―取り分けドストエフスキーに決定的な意味を持つた。現実と幻覚の境が不明瞭になる結末のトリックは、鮮やかで不気味。読むものを魅了して止まない幻想小説の傑作。[☆☆☆]


"КАПИТАНСКАЯ ДОЧКА"

『大尉の娘』

 プーシキンの最高傑作。伏線を巧妙に張り巡らせた劇的な物語と登場人物らの生彩ある描写は比類がない。主人公と数奇な運命の糸に結ばれたプガチョーフとの交流は歴史小説としての醍醐味と相俟り、極上の綺譚として読者を虜にする。恩義を決して忘れることのなかつた義侠心に厚い叛乱軍の首領像は感慨深い。健気な大尉の娘マリヤが起こした愛の奇蹟も深い感銘を残すが、この小説で誰よりも読者を魅了するのは忠僕サヴェーリイチであらう。無鉄砲な主人公の命を体を張つて救ふ度胸や、臆せずプガチョーフに恩を着せる愛嬌を読者は決して忘れまい。現代では失はれた人間の素朴で純粋な感情が宿る名作。[☆☆☆]


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