レッシング

(Gotthold Ephraim Lessing、1729〜81)


『ミス・サラ・サンプソン』 "MISS SARA SAMPSON"

 市民悲劇といふ分野を流行させたレッシング初期の名作。主人公サラは恋人メルフォントと駆け落ちをし、罪の意識を背負つて生きることを毅然として決意してゐる。サラの厳格な徳性と父サンプソンの寛恕で事態は解放に向うやうに見えるが、メルフォントが捨てた情婦マーウッドの逆上が悲劇的結末を招く。しかし、マーウッドの私怨は徳性の欠如の為だけではなく、メルフォントといふ日和見主義の放蕩者に禍根があるのだ。サラのみならずマーウッドもまた被害者である。第4幕第2場と第3場で結婚による束縛に嫌悪感を表明する件はこの悲劇の最大の暗部だ。悪党も最後にはサラの純潔により改悛するが、蹂躙される女の性を描いた点に注目したい。[☆☆]

『ミンナ・フォン・バルンヘルムあるいは軍人の幸福』 "MINNA VON BARNHELM ODER DAS SOLDATENGLÜCK"

 ドイツ演劇史上に金字塔を打ち立てた傑作喜劇。他人の不幸を忌み嫌ひ、就中人助けが出来ぬことを承服しないテルハイムの徹底した自己犠牲振りを描いた前半は、乱世が引き起こす背信と不信感が蔓延る時代に滑稽な迄の善人を配置した性格喜劇として存分に楽しめる。他人の幸福を優先したばかりに困窮に陥るが、その高徳を慕つて一途な人間たちが集ふ。従僕ユストや元部下ヴェルナーとのやり取りには心温まる。だが、テルハイムには名誉といふ軍人としての戒律があり、情けを受けまいとしてミンナの求愛を退け押し問答をする後半は、喜劇性が減退し幾分遜色がある。フリードリヒ2世時代の強兵政策の背景を理解しないと、人間性の貴さを謳ふレッシングの真意を充分に汲み取れないかも知れない。[☆☆☆]

『エミーリア・ガロッティ』 "EMILIA GALOTTI"

 「薔薇の花が一つ、手折られました、嵐が花を散らすまえに」の名文句で語り継がれる傑作。古代ローマのウィルギニア伝説を出典としながらも、レッシングは政治色を排し普遍的な市民悲劇としての息吹を与へた。貞節を踏み躙る権力に対して純潔を命を賭して守つた父娘の健気な心意気が読者の襟を正す。悪漢らに制裁が下らないまま幕切れとなるので、勧善懲悪のカタルシスはないが、斯様なことでこの作品への評価を低うしてはならない。復讐が正義とはならぬとし、徳性の上位を謳ふのは啓蒙主義者レッシングの骨頂だ。悪業の責を擦り付け合ふ見苦しさも劇に奥行を与へてゐる。[☆☆☆]

『賢人ナータン』 "NATHAN DER WEISE"

 啓蒙主義者レッシング最晩年の傑作劇詩。些か主人公らの清廉な対話が理想主義に過ぎる嫌ひがあるが、周到な伏線を備へた劇的な筋運びで大団円を築く手腕は比類がなく、読者は約束された感動の終幕に導かれるであらう。レッシングの宗教観は独善的なキリスト教の教義を退け、各宗教の相違を超越した高み―スピノザに接近した―にある。しかし、この名作を宗教の融和といふ主題だけで読むのは惜しい。ナータンと神殿騎士が理解し合ふに至つた「高い梢が自分だけは大地から生えてゐるのではないと思ひ上がらなければよい」と云ふ台詞や、ナータンを試そうとした名君サラディンを感服させた「三個の指環」の寓話にあるやうに、人間通しが敵意を捨てて尊く和する叡智の結晶こそこの劇詩の真価なのだ。[☆☆☆]


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