泉鏡花

(泉鏡太郎、明治六年〜昭和十四年、1873〜1939)


『義血侠血』

 鏡花の出世作となつたこの短編は、余りにも嗜虐的な結末故、師尾崎紅葉が筆を入れた修訂版で読まれるのが一般的だ。それでも江戸戯作調を色濃く残す劇的な展開で読者の度肝を抜く。冒頭の乗合馬車が場面における粋、月下の天神橋上における妖艶なる再会劇、思ひ詰めた白糸が凶行の凄惨な美しさ、裁判の場における義侠心の昂揚と死によつて結ばれる官能的な結末、何れをとつても鏡花独自の美感に貫かれてゐる。浮世離れてゐると云ふなかれ、奇矯なる浪漫を極彩色の文章で味はふべし。この作品は「滝の白糸」と改題されて新派劇で大当たりをとつてゐる。[☆☆☆]

『夜行巡査』

 人情を欠いた殉職振りに対する哀れさ、想ひを寄せた女の娘の運命を握つて復讐を果たす老人の陰湿さなど、嗜虐的な趣向が先行してゐるが、作者の意図を離れて問題提起を行ふ深みを備へた作品。[☆]

『外科室』

 麻酔を拒み続ける貴婦人に執刀を始める医師。尋常ならざる沙汰の限りの中で交はされる言葉が惹起する秘められた想ひ。9年前の瑣事と愛に殉じた結末迄の時間は何も語られない。条理を超えた男女の機微が社会の柵の中で血を流した様を読者は銘々胸に刻んでいくのだらう。観念小説と称された空白の美学。[☆☆]

『琵琶伝』

 操を問はれ「出来さえすれば破ります」と答へる女の強い想ひ。脱営して女に一目逢ひに行く男の健気さ。逆らえぬ運命に仲を引き裂かれた男女の悲恋に読者は胸を打たれるだらう。殊更、鸚鵡が恋しい女の名を唱へる件は涙を誘ふ。しかし、行き詰まつた恋人たちを待ち受ける残酷な仕打ちが過剰過ぎて悪趣味に堕してゐる。[☆☆]

『海城発電』

 戦争といふ集団的な狂気に趨る時代を予兆した作品として不気味な暗さを残す。赤十字社の看護員の言動は些か超然として過ぎるきらひのあるものの、醒めた人道主義者として敵愾心の愚かさを浮き彫りにしてゐる。しかし、鏡花が本当に描かうとしたのは哀れな清国女性の悲運なのであらう。[☆☆]

『化銀杏』

 年端も行かぬ頃に嫁いだ女の悲哀がひしと伝はる。情を込めることの出来ない夫への想ひが憎悪に変じる様は惻々と胸に迫る。それ以上に、妻の本心を見透かした夫が掛けた詛ひが凄まじく、絶望的な様相を呈す。だから、怪談めいた結びは蛇足に思へた。[☆]

『春昼』『春昼後刻』

 鏡花の最高傑作とも目される連作。長閑で平穏な情景から美女の影がちらつき、焦がれ死んだ男の話、それをなぞるかのやうな主人公の足取り。鏡花ならではの要素が詰まつてゐるが、この連作が一際優れてゐるのは怪奇幻想には一定の距離を保ち、夢と現の境界が曖昧のまま溶融して物語が進行するところにある。『春昼』では女の歌と男の死の謎を主人公が謹聴する枠物語から、『春昼後刻』では主人公が当の女と邂逅し夢幻的なひとときを過ごす。女は再び歌を詠み、その死で対を為して連作を結ぶ。遊仙窟に迷ひ込んだかのやうな婀な美女との戯れはこの世ならぬ麗らかさで、恍惚杳渺とした趣がある。[☆☆☆]

『草迷宮』

 葉山の地の化け物屋敷を舞台にした鏡花お得意の怪談。怪奇現象を訝る人々の肝試しとは裏腹に、謎の核心に近付いたのは手鞠唄を手繰つて母の面影を探し求める青年だつた。話者が交錯するので語りの視点が一定せず、複数の要素が連関して謎掛けが一層深まる。終始和音を鳴らさずに、連綿と終はりと始まりが入れ替はり、読者を迷宮へと誘ひ込む。鏡花の狙ひは解釈を拒む綺譚を創出することにあつたと云へよう。反面、奇天烈に傾き散漫の気がある。[☆☆]

『夜叉ケ池』

 魑魅魍魎が登場する件は異様だが、綿密な作劇術と語り口で妖しき世界を現出させる。迷信と犠牲に対して、近代が直面した深刻な問題を扱つてゐる。「稲は活きても人は餓ゑる、水が湧いても人は渇ゑる」は痛烈な近代批判とも読める。無道への報復として溢れる水の激しさは、読者の価値観で異なるだらう。[☆☆]

『天守物語』

 天守の最上部第五層に住まう妖怪の間が舞台といふ設定が秀逸だ。見下ろす物の怪、這ひ上がる人間たち。浅ましく屁理屈をこねる人間世界の愚かさを俯瞰する趣向が利いてゐる。やがて、ひとりの選ばれし男の登場により境界が破れ、妖怪と人間の対立と合一が始まる。妖しき中に高雅な趣があり、幽遠な鏡花の世界が充溢してゐる。[☆☆]


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