ジョイス

(James Augustine Aloysius Joyce、1882〜1941)


『ダブリン市民』 "DUBLINERS"

 一癖も二癖もある登場人物らの悲喜交々が描かれた15作品で成る短篇集。その実、通底する主役は舞台であるダブリンと云へよう。登場する人物や出来事が『ユリシーズ』でも再登場するので関連性も重要だ。小説としての物語性と描写性は保持しつつも、それぞれの短篇で様々な手法が用ゐられてをり、新時代を告げる傑作短篇集だ。取り分け斬新な言語表現は刺激的だ。どの短篇も漫然と始まるが、終盤において突如止揚する瞬間がある。鮮やかだ。[☆☆☆☆]

『若き藝術家の肖像』 "A PORTRAIT OF THE ARTIST AS A YOUNG MAN"

 この自伝的長篇小説の着想は『ダブリン市民』よりも前だ。『藝術家の肖像』から『スティーヴン・ヒーロー』へと変遷があり、極めて独創的な教養小説へと止揚した。ほぼジョイスその人であるスティーヴン・ディーダラス―ギリシアの工匠ダイダロスを由来とする―の幼少期から青年期までが5つの章に分けて描かれるが、回想ではなくその年齢に合はせた言語表現を用ゐて等身大の文体で語られるのが斬新だ。冒頭は幼児言葉で始まり、次第に成熟する。5つの章は各年齢で浸る世界観が詳細に語られるのだが、特筆したいのは章の最後でその世界観の閉塞感を打ち壊す転換が用意されてゐるといふことだ。体罰教師を告発して英雄視される件、恋愛と大人の世界への関心から娼婦を知る件、罪を告解し救済される件、学力を買はれて推薦された聖職者の道を袖にし藝術家を選ぶ件、最後は藝術家として生きる受難の道を力強く決意する。「ぼくは自分が信じてないものに仕へることをしない。家庭だらうと、祖国だらうと、教会だらうと。ぼくはできるだけ自由に、そしてできるだけ全体的に、人生のある様式で、それとも藝術のある様式で、自分を表現しやうとするつもりだ。自分を守るためのたつた一つの武器として、沈黙と流寓とそれから狡智を使つて」。最後が突如日記形式になるのにも驚く。スティーヴン・ディーダラスは『ユリシーズ』の最初の3章では主人公を担ふ。『ユリシーズ』を解読するのに『若き藝術家の肖像』は絶対に必読だ。[☆☆☆☆]

『ユリシーズ』 "ULYSSES"

 このモダニズム文学の金字塔については、充分過ぎるほどの研究がなされ注釈が行はれてきた。専門家の見解に新しく何かを付け加へることはひとつもなく、これからこの難解な書物に手を出さうといふ人への道標となり踏破への助言をするに止めたい。『ユリシーズ』は誰にとつても難解である。理解は疎か読むことすら困難な箇所が大半を占める。だが、気に病むことはない。ジョイスは意図して文章を重層的にしたり、無意味にしてゐるのだから。一般的に『ユリシーズ』の方法論としては「意識の流れ」が着目される。従来の物語の叙述とは異なり、意識したこと―目に入つたことや耳にしたことが言語になる現象全てが記述される。広告の文字を読んで仕舞ふ、連想が始まる、思ひ出せなかつたことを急に思ひだす、曖昧な記憶を延々と手繰る、男は1分に一度は性的なことを考へるといふが頻繁に卑猥な発想へと連結する、等々、不必要なものも全てジョイスは盛り込んだ。だから、1904年ダブリンの限定的な事柄が多い。膨大な注釈がなければ読めない最たる理由だ。「意識の流れ」は一要素に過ぎず、寧ろ文体への挑戦が重要だ。「ゴーマン=ギルバート計画表」は巨大な事業を立証する。だが、第6挿話までは明確な違ひがあるとは云ひ難く、18の異なる文体とは云へない。第12挿話「キュクロプス」は人称と視点が不明瞭にされ難解だ。有名な第14挿話「太陽神の牛」は古文からの発展と変容が空前絶後の凄みだが内容は空虚だ。最終形のスラングには文章を鑑賞するといふ意義は最早ない。第18挿話「ペネロペイア」での句読点のない連綿たる独白は偉大な地平を切り開いた。「神話的方法」「百科全書的方法」も『ユリシーズ』の重要な基軸である。エゴイズムが支配的となつた19世紀文学への反旗を翻し、神話や古典作家の引用を復活させ個人的感情を葬つた。ジョイスの分身スティーヴンはこの実験劇場に必要な錬金術師である。『ユリシーズ』は『オデュッセイアー』の激烈なパロディーだ。智謀豊かな英雄オデュッセウスは20年間帰還を果たせなかつたが、小市民ブルームの放浪は僅か1日である。貞淑な妻ペネロペイアの操は強固だつたが、モリーはいとも簡単に姦通する。命懸けの冒険に対して、特記すべきことのない時間潰しが対置される滑稽さ。カトリックに改宗したユダヤ人ブルームの根無し草と独立運動が萌芽するアイルランドの情勢が、屈折した『ユリシーズ』の世界を複雑にした。構へる必要はない。文学の可能性を感じ取ることが出来れば充分だ。[☆☆☆☆]


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