世界文学渉猟

樋口 一葉

(樋口 奈津、明治五年〜二十九年、1872〜1896)


『闇桜』

 一葉の実質的な処女作品。幼馴染みへの恋心に気付いて仕舞つたお千代が恋の病で儚くなつて行く様を描いた掌篇。平淡な叙述なので作品自体は大したことはないが、後の一葉作品に登場する主人公の原型と見ることが出来、興味深い。[☆]


『別れ霜』

 近松の世話物を模倣したやうな作品だが、研究の成果と気魄が伝はる。親の争ひで引き裂かれた許嫁たちの心中と後追ひの物語で常套的な展開であるが、車夫に身を落とした男と再会する雪降る場面のあはれな語り口に一葉の力量が発揮されてゐる。[☆]


『うもれ木』

 一葉の出世作で、露伴張りの理想主義的な名作。陶器画工の藾三は高邁な志を抱いてゐるが、過ぎる為に変人扱ひされて世に埋もれ赤貧の生活をしてゐる。師を裏切つた相弟子の辰雄に再会するが、一転気脈を通じ、富豪となつた辰雄の支援で藾三は渾身の作品を仕上げる。しかし、辰雄を慕ふ藾三の妹を事業の道具に使ふ為の計略だつた。裏切られた藾三。虚しく残された花瓶の出来映えに何時しか藝術境に遊ぶ場面は狂気が漂ふ。藝術と俗世の葛藤を抉つた初期の傑作。[☆☆☆]


『暁月夜』

 華族香山家の中で群を抜いて美しいのに縁談を悉く退け浮世を捨て隠棲してゐる娘。噂を聞いた学生が興味本位で謎を探らうとするが、一目見て恋に落ち、学業を捨て庭師となつて近付こうとする。娘は逃げの一点張りで取りつく島もないが、最期にやうやく色恋を捨てると誓つた悲しい出生の秘密が明かされる。別段深みはないが、前半は探偵小説としての面白みがある。[☆☆]


『大つごもり』

 奇蹟の14か月の幕開けを告げる名作。主人公お峯を取り巻く侘しい境遇への透徹した一葉の視点は、読者に深い同情と憐憫を呼び起こす力を持つてゐる。大晦を越せない伯父を救ふ為に奉公先の金に手をつけたお峯の内面の動揺が痛ましいだけに、緊迫した状況を一気に解放する幕切れは天晴痛快だ。道楽息子石之助がお峯の苦境に差し伸べた手を仄めかすことで、富者が行ふ圧迫への反抗と弱者への人情が同時に顕現する鮮やかさ。善悪明暗が逆転するその瞬間は、真大晦から新春への転換のやう。[☆☆☆]


『ゆく雲』

 自由にならない身の上と将来を嘆く桂次が、境涯の似たお縫に想ひを寄せたのは、宿命からの逃走といふ希望を託したからだらう。だが、幻想を抱かないお縫は現実を諦観して応へず、思ひ詰めた恋も時とともに呆気なく冷める。雲の如く千切れゆく薄情さがうら寂しい作品。[☆]


『うつせみ』

 想ひ人が自ら命を断つたことにより精神を病んだ女を描いた異色作。結ばれなかつた亡き恋人の姿を追ひ求めて今生から逃走する狂へる女の言動が哀切極まりない。白き肌の佳人が病める情景は一種異様な美しさを湛へてゐる。[☆]


『にごりゑ』

 それぞれの心情がそれぞれの視点で語られるやうに、この作品の心悲しさは、社会の壁に阻まれ、お互ひの境遇を理解出来ないところにある。男には自らの意志をもつて道を切開く余地もあらうが、当時の女性は為す術もない。家を出たお初に残された道は憎いお力の道かと思ふと陰惨な物語ではある。だが、もの思ふ酌婦お力には汲み難い魅力が溢れてをり、心理小説としての深みを与へてゐる。[☆☆]


『十三夜』

 請はれて嫁いだ夫から虐げられ離縁を決意したものの、両親の説得で意志を翻した阿関は、その実未だ世の悲劇に向き合つてゐない。しかし、帰途偶然に再会した恋しき男の変はり果てた姿を見て、思ひ通りにならぬ世の中を静かに堪へ忍ぶといふ生き方を悟る。阿関を失なひしが為に自暴自棄になり破滅した男の登場で阿関の悲哀は相対化される。二重構造で世の不条理を抉る侘しき名作。[☆☆]


『この子』

 一葉唯一の現文一致体による作品。生まれた子に愛情を注ぐ夫の姿を見て、それまで抱くことの出来なかつた感情が芽生える不思議を描く。掌編故に掘り下げがなく、一葉としては楽観的な作風だ。[☆]


『わかれ道』

 薄幸な孤児吉三が姉のやうに慕ふお京と交はす人情が健気で胸に迫る。お京が選んだ妾の人生に、吉三は憤りではなく哀しみを抱く。如何ともすることが出来ない社会の暗部へ零された男の涙を読者は忘れられないだらう。[☆☆]


『たけくらべ』

 美登利と周りを取り囲む少年らの将来は半ば決まつてゐる。だからこの作品の真の主人公は吉原遊郭と云へ、艶やかな華やかさと、心寂しい哀しさが混じり合ふ色調を支配してゐる。美登利が信如に云ひ知れぬ思ひを寄せたのは、恐らく別世界へ連れ出してくれる唯一の存在と感じたからだらう。少年少女から大人への過渡期における甘酸つぱい情緒をこれほど余情瑞々しく描いた作品はあるまい。別れに添へられた清らかな一差しの造花は、儚くも美しい詩。[☆☆☆]


『われから』

 一葉の作品の中でも最も手の込んだ意欲作であるが、悲劇の焦点が分散してをり藝術的には成功してゐない。しかし、部分を見れば非常な傑作で、美尾の内に秘められた女の魔性が擡げてくる件は恐ろしいほどよく描かれてゐる。お町が母の罪を負ひ、その罰を受けたとする血の悲劇と読めば、裏切られた与四郎の復讐を養子の恭助が取つた応報劇と成り暗澹たる趣を示すのだが、お町の出生や書生千葉との疑惑の真相を、一葉は意図して濁らせて作品を闇に沈み込める。[☆☆]


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