世界文学渉猟

ホメーロス

(Ὅμηρος、前8世紀?)

 伝説的な盲目の詩人で、英雄叙事詩『イーリアス』『オデュッセイアー』の作者とされる。ところが、近年の研究により、まず『オデュッセイアー』は後代の別人―しかも複数の手に因る作品とされ、次いで、『イーリアス』にも同様の疑惑がかけられ、仕舞ひにはホメーロスの存在まで疑問視されるやうになつた。最近の一般的な説では、ホメーロスとは『イーリアス』の原型を纏めた詩人の名、または詩人集団の名称ではないかと云はれてゐるが、確たる見解は出てゐない。叙事詩はホメーロス以前から伝承されてきたものを纏めたもので、文字で記録された時期も明らかではない。但し、作品の格調高さから見て、大詩人の手が加はつてゐることは間違ひない。これらの作品はイオニア方言で、ヘクサメトロス(六脚律)といふ韻律で綴られてゐる。かつて真作扱ひされた『讚歌』は明らかにホメーロスの作品ではない。



"ΙΛΙΆΣ"

『イーリアス』

 英雄たちの壮大な叙事詩であり、聖書と並ぶ西欧精神世界の源流。アキレウスの戦線離脱によるトロイエ側の反撃からヘクトルの死までを、人間臭い神々が定めたシナリオを演ずるかのやうに物語は進む。死体を引き摺り、武具を剥ぎながら戦ふ様は壮絶。執拗に繰り返される装飾的な枕詞には、詩人の霊感的な比喩と音楽的な韻律の妙趣が結晶し、叙事詩の格調高さをいや増してゐる。アキレウスの烈火のやうな2つの怒りとパトロクロスの自己を犠牲にしてまで貫いた友情が叙事詩の要となる主題であるが、この作品は題名が語るやうにイーリオンの歌即ちトロヤの歌であり、唯一人でイーリオスの運命を背負つた真の主人公ヘクトルの葬送曲であるのだ。[☆☆☆]


"ΌΔΎΣΣΕΙΑ"

『オデュッセイアー』

 トロイエ攻略後、知謀豊かなオデュッセウスが故郷に帰還するまでの10年間に嘗めた苦難の漂流冒険譚は、西洋のあらゆる物語にとつて霊感となつた。トロイエ戦役において最大の鍵を握つてゐた男の呪はれた運命と、貞淑の代名詞となつたペネロペイアの副筋が起伏豊かに語られる。次々と遭遇する難局を切り抜ける為にオデュッセウスが用ゐた手管は狡智に長けた智慧比べである。相手の出方を巧妙に窺ひ、己の立場を節操なく豹変し、油断させては有利に駆け引きを行ひ、ここ一番の勇気を出して敵を怯ませる様は、痛快を超えて恐ろしくもある。ときには素性を隠し、偽証によつて敵を陥れるといふ知略の無慈悲なまでの濫用は、古代から止むことのない智慧に対する絶対的な憧れと恐れの結晶なのだ。再び漂泊を宿命付けられたオデュッセウスの姿は、智慧が平安な幸福の導き手でないことを暗示するかのやうで不気味だ。[☆☆☆☆]



"ὍΜΗΡΙΚΟΊ ΎΜΝΟΙ"

『ホメーロスの諸神讚歌』

 「叙事詩の環」のひとつとして古代においてはホメーロスに帰せられた『讚歌』だが、既に古典期より作者をホメーロスと見なすことはなかつたやうだ。ヘクサメトロスを用ゐてホメーロスの流儀で詩作されてゐる。全33篇で22の神々への讚歌があるが、殆どが序歌として唱はれた短いもので、それらの価値は低い。だが、その中で4大讚歌と称される「デメテル讚歌」「アポロン讚歌」「ヘルメス讚歌」「アプロディテ讚歌」が質・量ともに圧倒的だ。宗教的な起源からギリシア神話の成立と受容の歴史が垣間見られ興味深い。[☆]


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